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第4話 隣国の特使

※本話には、虐待・負傷・人身売買未遂に関する描写があります。苦手な方はご注意ください。

夜会当日。


ベルトラン伯爵家の屋敷に、煌々と明かりが灯っていた。

かつて、家族と使用人たちの笑い声に満ちていた屋敷は、今夜、ガストンが「自分こそがこの屋敷の主だ」と誇示するための舞台になっていた。


飼料小屋から連れ出されたニノンは、バルバラの古い夜会ドレスを着せられ、玄関広間へと引き出された。


毒々しく派手な色。

過剰なレース。

きつい香水の匂い。

痩せ細ったニノンには、どこもかしこもサイズが合っていない。

長すぎる裾は床を引きずり、一歩進むたびに壊れた右足へ絡みついた。


腕を取っているのは、バルバラ付きの侍女だった。

侍女は終始無表情のまま、ニノンをまるで荷物のように扱う。

「転ばないでくださいな」

口調こそ丁寧だが、その手には欠片の優しさもなかった。

ニノンはきらびやかな夜会のただ中を、引きずられるように歩かされていた。


その反対側を塞ぐように歩くのは、ゲクランだった。

「ちゃんと歩け。見苦しい」

焦げ茶色の髪をこれみよがしに撫でつけたゲクランが、周囲に聞こえないほど低い声で囁く

ニノンは唇を噛んで、一歩、また一歩と踏み出した。


壊れた右足を引きずるたびに、鋭い痛みが背骨まで突き上げてくる。

それでも、倒れるわけにはいかなかった。


右足には馬用の添え木が括り付けられている。

その上から、泥と靴跡にまみれたリボンが、まだほどけずに結ばれていた。


それだけが、ニノンの歩みをかろうじて支えていた。



広間の中央へ進むにつれ、たくさんの視線が一斉にニノンへと注がれた。


磨き上げられた大理石の床。

煌めくシャンデリア。

色とりどりのドレスをまとった貴族たち。

かつてニノンは、両親やシノンと共に、こういった夜会に出る日を夢見ていた。

いつかお姉様みたいな綺麗なドレスを着て、一緒に踊れたら——そんな、小さな夢を。


今夜の自分の姿がどう映っているか。

貴族たちの視線の色を見れば、分かった。


「あれが、ベルトラン家の次女か……」

「ひどく痩せているな」

「足を引きずっているぞ。怪我か、それとも……」


ガストンは体裁よく笑った。

「なにせ長らく療養しておりまして。今夜は久しぶりの社交ですから、少々緊張しているのでしょう」

バルバラも、扇の陰でにこやかに付け加える。

「内気な子でございまして。良いご縁に恵まれれば、きっと明るくなりますわ」

その言葉の裏で何が起きているか、分かっている者はほとんどいなかった。

違和感を覚えながらも、他家の事情に踏み込もうとする者は、誰もいない。


ニノンは理解した。


自分はいま、人として見られていない。

噂の種か、取引の材料でしかない。



やがて、ガストンはニノンを広間の奥へと連れていった。


そこに、白髪交じりの老紳士が立っていた。

立派な身なりをしたその老人が誰なのか。

五年間も飼料小屋に閉じ込められていたニノンに分かるはずもない。

分かるのは、ただ、自分が『この見知らぬ恐ろしい大人』に買い取られようとしている、という絶望的な事実だけだった。


自分が人ではなく、品物として見られているような気がして、ニノンの身体はガタガタと震え、思わず後ずさろうとする。


老侯爵は、怯えきったニノンを観察するように見つめた。

一度だけ、その目が細くなった。


蒼褪めた顔色。

壊れた右足の引きずり方。

逃げようとする腕に食い込むガストンの太い指。

身体に合っていない、毒々しい色のドレス。


老侯爵の眉間に、深い皺が刻まれた。


「ベルトラン家のご次女か」

穏やかだが、低く重みのある声だった。

「そなたは……この縁談を、望んでいるのか?」

恐怖で喉が張り付き、ニノンはひゅっと短い息を鳴らした。

助けを求めて答えることなど、できるはずもない。

その瞬間、ガストンの手がニノンの腕をみしりと締め上げたからだ。


「恥ずかしがっているだけです」

ガストンが、笑いながら割り込む。

「久しぶりの社交の場で、ひどく緊張しているだけですよ」

老侯爵は何も言わず、ガストンを鋭く一瞥した。

完全には納得していない目だった。



そのあと、ガストンは愛想笑いを浮かべながら、ニノンを広間の中央へ引っ張った。


ニノンの足は、もう限界だった。

裾が絡む。

身体が傾く。

一度、よろめく。


ゲクランは大階段の手すりにもたれながら、ニノンの無様な姿を眺めていた。


「立て。みっともない」

ガストンの乱暴な扱いに、ニノンは唇を噛んで堪えた。

傷んだ足に力を込めて、なんとか踏み止まる。

けれど——その時だった。


「はははっ! 大事な妹がこの有様じゃ、あの世のシノンも浮かばれないだろうぜ!」

大階段の上からよく通る声が降ってくる。

ゲクランの言葉が、ニノンの胸を鋭く刺した。


お姉様のことだけは——嗤わないで。

世界でいちばん大切なお姉様のことだけは。


「お姉様を……悪く言わないでください」

広間の空気が凍りついた。


大階段の上から、ゲクランが顔を真っ赤にして怒鳴る。

「まだ言うのか!」

ニノンは思わず一歩後ずさった。

長い裾が足に絡む。

壊れた右足が悲鳴を上げる。


——あ。


踏ん張れない。

そのまま、ニノンは、広間の中央へ崩れ落ちた。

毒々しい色のドレスの裾が広がる。

右足の添え木があらわになり、その上に結ばれた、汚れたリボンが、シャンデリアの光を受けた。


周囲の貴族たちがざわめく。

老侯爵が一歩動きかける。

その時——広間の入り口で、空気が、変わった。



ニノンは冷たい石床に手をついたまま、立ち上がれなかった。


笑い声が聞こえる。

囁き声が聞こえる。

ガストンが取り繕う声が聞こえる。


ニノンは、目の前の現実から逃げるように、そっと目を閉じた。


——また、聞こえた。

五年間、何度も夢の中で聞いた声。

暗い飼料小屋の中で、寒さと孤独に耐えながら、何度もすがった声。

目を閉じれば、優しい声が聞こえてくる。


瞼の裏に浮かぶのは、いつも決まって、五年前のままのお姉様の姿だった。


陽だまりの寝室で、自分の髪を梳いてくれた、優しいお姉様。

「大丈夫よ」と微笑んで、手を伸ばしてくれるお姉様。


けれど、いつもその手には届かない。

目を開ければ、お姉様はいない。

そこにあるのは、冷たい飼料小屋の闇だけだった。


だから今夜も、きっと同じだ。

夢の中だけでお姉様の声を聞いて、また、誰もいない小屋で目を覚ますのだろう。


右足の添え木に結ばれたリボンを、かじかむ指でそっと包んだ。

「……お姉様」

誰にも届かない声で、呼んだ。

その瞬間だった。



「ニノン」

大きな声ではなかった。

けれど、不思議なほど、広い空間のすべてに届いた。

ニノンは、目を開けられなかった。

夢だと思っていた。

また、いつもの夢だと思っていた。

けれど——広間が、しんと静まり返っていた。

遠くで誰かが息を呑んだ。

貴族たちのざわめきが、波が引くように消えていく。

ニノンは、おそるおそる、顔を上げた。


入り口に、一人の女性が立っていた。

背中まで流れる金色の髪。

確かな光を宿した深い碧眼。

隣国の特使を示す、威厳ある礼装と、胸元には見慣れない徽章が輝いていた。

背後には、揃いの礼装をまとった騎士たちが控えている。


間違えるはずがなかった。


五年間、一日たりとも忘れたことのない、世界でいちばん大好きな……。


「……お、姉様……?」

声が、かすれた。


だけど、信じられなかった。

だって、お姉様は、五年間、どれほど待っても帰ってこなかったのだから。


けれどシノンは——迷わず、まっすぐに、ニノンのもとへ歩いてきた。



広間に、信じられないようなざわめきが広がった。

「まさか……」

「シノン嬢……? 生きていたのか……?」


ガストンは、信じられないという顔のまま、固まっていた。

たるんだ頬に刻まれた陰湿な笑みが、跡形もなく消えている。

バルバラが、手にしていた扇を取り落とした。

ゲクランは、もはや言葉を失い、その場に立ち尽くしていた。


シノンは——誰にも、目をくれなかった。

伯父にも。

伯母にも。

従兄にも。

周囲の貴族たちにも。

ただ、倒れたニノンのもとへ、まっすぐに歩いた。

膝をついた。


壊れた右足に括り付けられた添え木と、その上に結ばれた、泥と靴跡で汚れたリボン。


そのリボンを見た時、シノンの表情が、ほんのわずかに崩れた。


泣かなかった。

今ここで泣いては、ニノンをさらに不安にさせる。

この子の前では、泣かない。

シノンは、ニノンをそっと抱き起こした。


ニノンは、まだ信じられなかった。

夢か現実か、分からなかった。

「……お姉様……?」

掠れた声で、呼んだ。

シノンは、妹だけに向ける声で、答えた。

「ええ。お姉様よ……ニノン」


ニノンの目から、涙がこぼれた。

止まらなかった。

「ほんとうに……ほんとうに、お姉様……?」

シノンは、答える代わりに、妹を強く抱きしめた。

「遅くなってごめんなさい、ニノン」

ニノンは震える両手を伸ばし、シノンの服をぎゅっと握りしめた。

もう二度と離れないように、その胸に顔を押し当てる。

ニノンは五年間、ずっと言いたかった言葉を、ようやくこぼした。


「待って、いました……」

声にならない嗚咽と一緒に、涙が、ぼろぼろと落ちた。

「ずっと、ずっと、待っていました……お姉様……」


シノンは妹の細い身体を、壊れ物を抱くように、しっかりと、強く抱きしめ続けた。

「本当に……よく待っていてくれたわ、ニノン……」

その声が、わずかに揺れていた。

この瞬間だけ——世界には、姉妹しかいなかった。



しばらくした後、シノンは顔を上げた。

「マリア。リック」

短く呼んだ。


広間の隅で涙をこらえて立ち尽くしていたマリアが駆け寄った。

栗色の髪を乱しながら、目を真っ赤にして。

裏口の陰にいたリックが、丸太のような腕をこわばらせながら歩み出た。


シノンは、ニノンをそっとマリアへ預けた。

リックが持ってきた外套で、ニノンの身体を包む。

バルバラの悪趣味なドレスを、隠すように。

ニノンは、シノンの袖を掴んだ。

「いや……行かないで……」

シノンは、その手を両手で包んだ。

「大丈夫。どこにも行かないわ」

そして——顔を上げた。


妹へ向けていた、温かな声の色が消えた。

大広間の空気が、一変した。

そこにいたのは、もう『優しい姉』ではなかった。


隣国で五年間を生き抜き、王太子の信頼を勝ち取り、証拠と権限を携えて帰還した、ベルトラン伯爵家の正統な娘が立っていた。



我に返ったように、最初に声を上げたのはガストンだった。

「ば、馬鹿な……貴様は、死んだはずだ!」

そこへ、伯父としての体裁を思い出したのか、ガストンは慌てて、引きつった笑みを貼り付けた。


「あ、ああ、いや! 生きていたとは喜ばしい! シノン、よくぞ無事で戻ってきた!」

脂汗を流しながら、必死に両手を揉み手にして歩み寄る。

「見ての通り、お前がいない間、私たちがこの哀れなニノンを大切に保護していたのだ! 少々怪我をしてしまったが、今夜もこうして立派な縁談を……」

「少々怪我、ですか」


シノンの声は静かだった。

その静けさが、かえって広間の空気を凍らせていく。

シノンは、マリアに支えられているニノンの前へ、すっと身を滑り込ませた。

細い背筋は、刃のようにまっすぐだった。

傷ついた妹を背中に庇いながら、それでもシノンは、ガストンから一瞬たりとも視線を外さない。


「私の大事な妹を、こんな姿にしておいて……よくそんな言葉が言えますね」

深く澄んだ碧眼に見据えられ、ガストンが息を呑む。


「それと、ひとつ訂正を。私は死んだのではありません。死亡認定を受けた、が正確な言い方です」


氷の刃のような声が、広間に響き渡る。

シノンは逃げ腰のガストンへ、さらに一歩、距離を詰めた。

床に落ちる靴音は小さかった。

けれどその一歩だけで、ガストンの喉がひゅっと鳴る。


「馬車から遺体も見つかっていないのに、あなたが皇家に働きかけ、異常な早さで強引に進めたのが、私の死亡認定です……ベルトラン伯爵家の全財産と後見人の座を、一刻も早く我が物にするために」


周囲の貴族たちの間に、ざわめきが広がった。

非難と疑惑の視線が、一斉にガストンへ突き刺さる。

図星を突かれたガストンの顔から、一気に血の気が引いた。


「なっ……何を言うか! 私は正当な後見人として……!」

ガストンが狼狽して後ずさる。

たまらず、バルバラが金切り声で叫んだ。

「偽物よ! この女はシノンなんかじゃありません!」


シノンは眉ひとつ動かさなかった。

ただ静かに、隣国カールセン王太子殿下からの特使任命状、五年前の救助記録、そしてベルトラン家の印章が押された身分証明の書類を、順に提示する。


「私は、隣国カールセン王太子殿下の特使、シノン・ティミリア・ド・ベルトランとして、正式な権限を携えて戻りました。これが、その証明です」


凛とした声が、反論を許さない重圧となって広間を制圧する。

突きつけられた証拠の前に、ゲクランの顔が蒼白になった。

「あり……えない……お前が、生きているはずが……」


シノンは初めて、ゲクランをまっすぐに見た。

まるで路傍の石でも見下ろすかのように、その瞳には一切の感情がない。


「生きていては、困るのでしょうね」

ゲクランは喉の奥で、潰れたような声を漏らした。



そこへ、老侯爵が一歩前に出た。

シノンが視線を向ける。

老侯爵は、ガストンたちを軽蔑の眼差しで見下ろしたあと、厳かに口を開いた。


「シノン嬢。私は今宵この場で、この娘が——本人への意思の確認もなく、明らかに傷を負った状態のまま、無理やり縁談の席へ引き出されるのを見た」

その声には、長く貴族社会に身を置いてきた者だけが持つ、静かな重みがあった。

「見抜けなかった私の不明も恥じ入るばかりだ。だが、ベック男爵の所業は貴族の風上にも置けぬ。必要とあらば、王家の法廷にて証言しよう」

シノンは、老侯爵に向かって丁重に一礼した。


周囲の貴族たちが、ようやくこの場の深刻さを理解し始めた。

さっきまで見て見ぬふりをしていた者たちの顔色が、次々と変わっていく。

伯父一家は——完全に、退路を断たれ、追い詰められていた。



シノンは、広間全体に向き直った。


外套の中でシノンの袖を握りしめているニノン。

傍らに立つ老侯爵。

背後に整列する、隣国カールセン王太子殿下直属の騎士たち。


シノンは、広間のすべてに届く声で告げた。

「この場にいる皆様には、証人になっていただきます」


ガストンの喉が、ひゅっと鳴った。

シノンは続ける。

「ガストン・ド・ベック男爵」

その呼び方が、すでに宣告だった。

彼の僭称する「ベルトラン伯爵」という呼称を——シノンは、一切認めなかった。


「あなたには、私の両親の死に関する不正な隠蔽。私の死亡認定への不正な関与。ベルトラン伯爵家の簒奪。領地財産の横領。そして……私の妹、ニノン・ポピレア・ド・ベルトランへの虐待。そのすべての疑惑について、証拠を皇家の法廷へ提出した上で、正式な審理を受けていただきます」

広間は、完全な沈黙に支配された。


「これより、ベック男爵一家を、正式に告発いたします」

シノンの声は、絶対零度のように澄み切っていた。


「逃げられると思わないことです」


外套の中で、ニノンだけが、安堵の涙を流していた。

お姉様は、帰ってきてくれた。

約束を、破らなかった。

ただそれだけが——今のニノンには、全てだった。

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