第3話 壊されたリボン
※本話には、虐待および負傷に関する描写があります。苦手な方はご注意ください。
翌朝。
ニノンは、いつものように玄関広間へ呼びつけられた。
命じられたのは、大階段の掃除だった。
吹き抜けの高い天井から、磨き上げられた大階段が長く伸びている。
かつて、父に手を引かれて上り下りした、思い出の階段だ。
その下で、伯父一家が外出の支度をしていた。
ニノンは痛む身体で、大階段の半ばを掃いていた。
磨き上げられた段の隅に溜まった埃を、ひとつ残らず拭き取るよう言いつけられていた。
そこへ、ゲクランがゆっくりと近づいてくる。
大人の男の分厚い身体が立ち塞がり、痩せたニノンの身体は、その影にすっぽりと呑み込まれた。
ゲクランは、昨夜のことを覚えていた。
飼料小屋の隙間から見た、ニノンがすがりついていた、小さな布きれを。
「おい。そこに何を隠している」
ゲクランの視線が、ニノンの襟元で止まった。
粗末な服の内側に縫いつけた、小さな布袋。
昨夜、彼が飼料小屋の隙間から見たものだった。
ニノンの心臓が、ひやりと跳ねる。
とっさに胸元を押さえた。
その怯えた仕草だけで、ニノンが何を守ろうとしたのか、誰の目にも明らかだった。
ゲクランの口元が吊り上がる。
「やっぱりな」
ゲクランはニノンの肩を乱暴につかむと、襟元から覗いた布袋を力任せに引きちぎった。
「やっ……!」
ニノンは身をよじって抗おうとした。
けれど、弱り切った身体では、ゲクランの腕を振りほどくことなどできなかった。
粗末な布袋が裂ける。
その中から、一本のリボンが床へ落ちた。
擦り切れて、色も褪せた、古いリボン。
ゲクランはそれを指先でつまみ上げ、ゴミでも見るように眺めた。
「……はっ。死んだ女の、こんな布きれなんかを大事に持っていたのか」
ニノンは、罵られることには慣れている。
役立たずと言われても、穀潰しと言われても、もう涙は出ない。
けれど——このリボンを。
世界でいちばん優しいお姉様からのおくりものを嗤われることだけは……ニノンは、顔を上げた。
小さな、けれど、はっきりとした声で言う。
「……返してください」
ゲクランの眉が、ぴくりと動いた。
「何だと?」
「それは、お姉様がくださったものです。返してください」
その一言が、ゲクランの胸の奥の、いちばん触れてはいけない劣等感を逆撫でした。
シノンは、死んだ。
崖から落ちて、骨のひとかけらも残さずに。
それなのに——どうして、この小娘の中では、まだ、あの女が生きているのだ。
「……まだ、あの世のお姉様が、助けに来てくれる。とでも思ってるのか?」
ゲクランは、せせら笑いながらリボンを床へ落とした。
そして、磨かれた重い革靴で、それを踏みにじる。
ぐり、ぐり、と。
「よく見ろよ。これが、お前ら姉妹の現実だ! 俺様に踏みにじられて、泥にまみれるしかないゴミクズなんだよ!」
泥と埃を繊維の奥までなすりつけるように、何度も、何度も。
「お前も、あの女も、もう終わったんだ!」
ニノンの顔から、血の気が引いた。
這うようにして、床のリボンへ手を伸ばす。
痛む膝を引きずり、爪を立てて。
「やめて……ください……!」
それは、五年間で初めて、ニノンがはっきりと示した抵抗だった。
ゲクランの足元に手を伸ばし、汚されたリボンを取り返そうとする、その必死な姿。
それが、なぜかゲクランをますます激昂させた。
「……その目だ」
ゲクランは吐き捨てるように言った。
「その目で、あの女も、いつも俺を見下していた。たかが妹のくせに、俺にそんな口を利くのか!」
ニノンは首を振った。
泥と涙に汚れた顔で、けれど、まっすぐにゲクランを見上げて。
「お姉様は……誰も、見下したり、しません」
それが——決定的な、引き金になった。
「黙れッ!」
ゲクランが荒々しく一歩踏み込んだ。
その瞬間、リボンを踏みにじっていた重い靴底が、ふっと離れる。
ニノンはすかさず手を伸ばし、泥に汚れたリボンを指先で掴み取った。
だが、それと同時に、ゲクランが彼女の細い腕を掴み上げ、力任せに床から引きずり起こした。
「痛っ……!」
「俺に逆らうな、役立たずが!」
顔をしかめるニノンの手を、ゲクランは嫌悪にまみれた動作で乱暴に振り払う。
弱り切ったニノンの身体は、その勢いを支えきれなかった。
ふらり、と。
痩せた身体が、大階段の縁でよろめく。
一瞬、玄関広間が、しんと静まり返った。
ニノンの指先から、せっかく取り戻したリボンが、するりと滑り落ちる。
視界の端で、シノンのリボンが、ゆっくりと宙を舞った。
——あ。
次の瞬間。
ニノンの身体は、階段を転がり落ちていた。
鈍い音が、いくつも響いた。
誰かが息を呑む気配。
遠くで馬が不安げにいなないた。
そして——静寂。
ニノンは、冷たい石の床の上に倒れたまま、動けなかった。
無造作に切り揃えられた白い筋の混じる淡い金髪が、力なく床に広がっている。
右足の感覚が、なかった。
◇
玄関広間は凍りついていた。
本来なら、誰かが駆け寄るはずの場面だった。
けれど、誰も動かなかった。
「……チッ」
ガストンが忌々しげに舌打ちをした。
たるんだ頬には、姪が転落したことへのわずかな動揺すら浮かんでいない。
「この娘は勝手に転がり落ちた……そうだな、ゲクラン?」
ゲクランは一瞬だけ青ざめたが、すぐに虚勢を張った。
「そ、そうだ……勝手に、転んだだけだ。俺は悪くない」
バルバラは、汚れた床と、倒れたニノンを交互に見て、顔を不快げにしかめた。
「まったく、面倒な子。お出かけ前に床が汚れるじゃないの。誰か、さっさとそのゴミを片付けなさい」
広間の隅では、マリアが立ち尽くしていた。
今すぐ駆け寄りたい。
血を流すニノンを抱き起こしたい。
けれど、動けなかった。
ここで少しでも庇えば、自分は屋敷を追い出される。
そうなれば、ニノンは本当にひとりぼっちになる。
マリアは唇を血が滲むほど噛みしめ、ただ震える指をエプロンの中に隠した。
厩舎へ続く扉の陰では、リックもまた、丸太のような腕を震わせていた。
飛び出せば、終わる。
あの腐った一家を殴り倒すことはできても、その後でニノンを守ることはできない。
だから彼も、動けなかった。
数分間、ニノンは冷たい床の上に放置された。
誰も近づいてこない。
視界の端で使用人たちの靴が止まった。
けれど、すぐに離れていく。
ニノンには、それがどれほどの時間だったのか分からなかった。
やがて、ガストンが面倒くさそうに命じた。
「……飼料小屋へ戻しておけ。医者など呼ぶ必要はない。役立たずに金を使う馬鹿がどこにいる」
ガストンの命令で、ニノンは、使用人たちの手で物のように運ばれていく。
あとには、泥と靴跡に汚れたシノンのリボンだけが、ぽつんと残された。
◇
その夜。
マリアとリックは、人目を忍んで、ようやく飼料小屋へ忍び込んだ。
ニノンは、藁の上で小さく震えていた。
汗で頬に張りついた前髪の下、右足は見たこともないほどに腫れ上がり、奇妙な方向に曲がっていた。
医者は呼べない。
清潔な包帯もない。
痛みを和らげる薬も……何ひとつ、ない。
リックが震える手で差し出したのは、馬の骨折に使う分厚い添え木と、獣用の、匂いのきつい塗り薬だけだった。
「……申し訳ありません、お嬢様。俺には、こんなものしか……」
日に焼けた無骨な顔をぐしゃぐしゃに歪めて、リックは声を殺して泣いた。
大切なお嬢様が骨を折って苦しんでいるのに、医者を呼ぶこともできない。
家畜と同じ手当てしかしてやれない。
人間扱いすらしてやれない。
その不甲斐なさが、リックの心を引き裂いていた。
マリアは、ニノンの身体をしっかりと抱きしめた。
悲鳴が外へ漏れないように、自分の腕に布を巻いて、ニノンの口にそっと噛ませる。
「……っ、ぅ……!」
リックが添え木を当てるたび、ニノンの細い身体がびくりと跳ねる。
マリアは泣きながら、その背を必死にさすり続けた。
激しい痛みの中でも、ニノンには分かっていた。
マリアの腕も、リックの震える手も、自分を傷つけるためではなく、助けようとしてくれているのだと。
処置が一段落すると、マリアは、震える手で何かを取り出した。
こっそり拾ってきた、シノンのリボンだった。
汚れて、踏みにじられて、かつての美しさは、もうどこにもない。
それでも、ニノンにとっては、世界で一番大切なものだった。
マリアは涙をこぼしながら、そのリボンを、無骨な添え木の上からそっと結びつけた。
「……シノン様が、きっと、守ってくださいますよ」
ニノンは痛みに震えながら、それでもかすかに微笑んだ。
「歩けなく、なっても……大丈夫……」
そして、言った。
「お姉様が、迎えに来てくれたら……きっと、抱っこ、してくれるわ」
その無邪気な信頼の言葉が、マリアとリックの胸を刃のようにえぐった。
もう、言葉にならなかった。
ただ、声を殺して、いつまでも泣いていた。
◇
その夜から数日、ニノンは高熱にうなされた。
マリアとリックは人目を盗んでは飼料小屋へ通い、水を含ませ、汗を拭い、ただ祈ることしかできなかった。
やがて、どうにか命に関わる状態だけは脱した。
けれど、まともな治療を受けられなかったその足は、もう、元のようには動かなかった。
壁にすがり、棒を杖代わりにして、ようやく数歩。
一歩進むたびに、鋭い痛みが足から背骨へと突き上げる。
それでも、バルバラはニノンを働かせようとした。
だが、もう踏み台は運べない。
洗濯物の籠を抱えれば、その重みで倒れ込む。
床を磨こうとすれば、痛みに膝をつく。
バルバラは、忌々しげに吐き捨てた。
「本当に役立たずな子。足まで壊れて、もう雑用の役にも立たないじゃないの。これじゃあ、お金の無駄ね」
ニノンは何も言わなかった。
ただ、添え木に結ばれた、リボンの感触だけを、確かめていた。
◇
その日、ガストンの執務室には、青い顔をした帳簿係が呼ばれていた。
「ガストン様……このままでは、来月のお支払いが滞ります」
震える手で、彼は分厚い帳簿を差し出した。
ガストンの機嫌が、目に見えて悪くなる。
帳簿係は、言いにくそうに続けた。
「奥様の宝石商への支払い。若君の遊興費。帝都の商会からの借り入れ。そのうえ、領地からの税収も年々落ち込んでおります。すでに三年分の収穫税を前借りしている状態でして……」
「そんなもの、どうにかなさい」
バルバラが、苛立たしげに口を挟んだ。
「ベルトラン家には、まだ財産があるでしょう?」
「……銀器も、絵画も、すでにそのほとんどが担保に入っております。これ以上は、もう……」
執務室に、重い沈黙が落ちた。
ちょうどその時、雑用に呼ばれたニノンが、足を引きずって扉の近くを通りかかった。
ガストンの濁った目が、ふと、ニノンへと向けられる。
「……まだ売れるものが、残っているじゃないか」
ニノンには、その言葉の意味が、すぐには分からなかった。
いや——分かりたく、なかった。
バルバラが薄く笑った。
「そういえば、西方の老侯爵が、若い愛人を探しておられるとか」
ゲクランも面白そうに笑う。
「足の壊れたガキでも、あの『天才シノンの妹』とでも触れ込めば、珍しがって買う物好きもいるだろうさ。今まで世話してやったんだから、せめて少しは稼いでもらわねえとな」
ニノンの身体が、芯から凍りついた。
◇
ガストンは決めた。
数日後、ベルトラン伯爵家で開く夜会に、ニノンを引き出す。
そこで、金払いのいい老侯爵に引き合わせる。
表向きは『後見人として、姪の縁談を整える』という体裁を取れば、外聞も繕える。
だが、その実態は——不要になった家具を売り払うのと同じ、醜悪な売却だった。
ニノンには、拒む術がなかった。
逃げ出す足も、もうない。
助けを呼べる相手も、いない。
マリアもリックも、使用人という立場ではどうすることもできなかった。
その夜、飼料小屋へ戻されたニノンは、動かない右足に結ばれたリボンへ、震える指を伸ばした。
「……お姉様」
かすれた声で、呼ぶ。
「ニノンは……いい子で、待っていました……」
けれど、その言葉の続きは、もう、出てこなかった。
◇
夜会の当日。
マリアが、一着のドレスを抱えて、飼料小屋へやってきた。
それは、バルバラが若い頃に着ていたという、古い夜会ドレスだった。
毒々しいほどに派手な色。
過剰なレースの飾り。
重たい宝飾。
むせ返るようなきつい香水の匂い。
痩せ細ったニノンには、まるでサイズが合っていない。
足を引きずれば、長すぎる裾が無様に絡みつくだろう。
マリアは、そのドレスを抱えたまま、今にも泣き出しそうな顔で立ち尽くしていた。
「……今夜の、夜会に。お出になるようにと、奥様が……」
ニノンは、すべてを理解した。
これは、祝福のためのドレスではない。
自分を——売り物として着飾らせ、見せびらかすための、衣装だった。
ニノンは、震える指で、添え木に結ばれたシノンのリボンに、そっと触れた。
「……お姉様」
小さく呼ぶ。
その声は、飼料小屋の冷たい闇に吸い込まれて、どこにも届かなかった。




