表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/3

第2話 飼料小屋の祈り

本作は全6話の短期連載です。 毎朝6時に更新予定です。

埃っぽい藁の匂いで目が覚めた。


板壁の隙間から、白み始めた朝の光が、刃のように細く差し込んでいる。

隙間風が薄い毛布をすうっと撫でていき、ニノンは身震いをして身を縮めた。

冷え切った指先を擦り合わせながら、枕代わりの硬い麻袋から、そっと頭を上げる。


ここは、屋敷の厩舎の裏にある、古い飼料小屋だ。

かつて、陽だまりの寝室で姉に髪を梳いてもらっていた伯爵令嬢が、いまは馬の餌をしまう小屋で目を覚ます。

それが、ニノンの五年間だった。


15歳になったニノンは、起き上がる前にまず、自分の胸元を確かめた。

粗末な服の内側に縫いつけた小さな布袋。

その中には、擦り切れて、すっかり色の褪せた一本のリボンが入っている。


五年前、シノンが卒業式へ向かう朝に残してくれた、たったひとつの宝物だった。

「お姉様は、きっと帰ってきます」

無造作に肩のあたりで切り揃えられた淡い金髪には、15歳の少女には似つかわしくない白い筋がいくつも混じっている。


痩せこけ、擦り傷だらけの身体に力を入れて立ち上がる。

冷えた土の床に裸足をつけて、ニノンは今日も地獄のような一日を始める。



「ぐずぐずしないで。さっさと歩きなさい、役立たず」

朝から晩まで、ニノンに命じられる仕事が途切れることはなかった。


けばけばしい化粧を施した伯母バルバラは、この五年間、ただの一度もニノンを名前で呼んだことがない。

冷たい井戸水での洗濯。

廊下の床磨き。

山のような食器洗い。

そして暖炉に溜まった灰の始末。

煤で顔が真っ黒になっても、拭う布すら与えられていなかった。


かつてこの屋敷の使用人たちは、ニノンを宝物のように扱っていた。

だが、前の伯爵夫妻を慕っていた使用人たちの多くは、すでに屋敷を追われている。

今の屋敷で働く使用人たちは、伯父一家が連れてきた者か、新しく雇い入れられた者ばかりだ。


重い水桶を抱えたまま、ニノンは廊下の角で足を止めた。

向こうから若いメイドが歩いてくる。

先週屋敷に入ったばかりの、まだ十代半ばの少女だった。


「おはようございます」

ニノンが小さく頭を下げる。

メイドは一瞬だけ立ち止まった。

何か言いかけて、けれどすぐに視線を伏せた。

「……ごめんなさい」

「え?」

「あなたと口を利いているのをゲクラン様に見られると、私まで何をされるか分からないから……だから、話しかけないで」

怯えたように周囲を窺いながらそう言い残し、彼女は足早に去っていった。


ニノンは、ただ静かに立ち尽くすしかできなかった。

手に提げた水桶の冷たさが、じわじわと心の奥まで浸食してくるようだった。


中には伯父たちに同調して、露骨な嫌悪を向けてくる者もいる。


なんとか廊下の掃除を終わらせて、次は厨房で冷たい水にまみれて皿洗いをしていた時、新参の下男たちが、ニノンの泥だらけの姿を見て、鼻で笑った。

「お前さん、昔はこの屋敷のお嬢様だったって?」

ニノンは赤く腫れた手を止めず、黙ってうつむいた。

「……信じられねえな。どう見ても、ただの薄汚い浮浪児にしか見えねぇや」

「全くだ。こんなガキがあのゲクラン様の従妹だなんて、とてもじゃねえが信じられねえよな」

「いや、従妹って言われても困るよなぁ」

「なあ。俺が初めて見た時なんか、どこぞの物乞いが迷い込んだのかと思ったぜ」

下男たちは声を潜める気もなく笑った。

「お嬢様ってのは、もっとこう、綺麗な服を着て、いい匂いがするもんじゃねえのか?」

「違いねえ。泥と馬小屋の匂いしかしねえぞ」

「ははっ、それじゃ伯爵令嬢じゃなくて厩舎令嬢だな」

げらげらと下品な笑い声が響く。

「まあ、今じゃ馬以下だけどな」

「違いねえ」

そう言って、下男の一人はわざとニノンの足元へ汚れた布巾を放り投げた。

「ほらよ。どうせ得意だろ。拾っとけ」

ニノンは、何も言い返さない。

ただじっと唇を引き結んで、目の前の仕事をひとつずつこなしていく。


罵られることにも、無視されることにも、もう慣れた。

そう思い込まなければ、立っていられなかった。



昼下がり、ガストンとバルバラが揃って外出する際、ニノンは馬車の踏み台を運ぶよう命じられた。

分厚い木でできた踏み台は、痩せ細ったニノンの腕にはずしりと重い。

よろめきながら、ニノンはそれを馬車の脇へと置いた。


かつては、父や姉に優しく手を引かれて乗せてもらっていた馬車。

今は、自分からすべてを奪った伯父夫婦の足元に、踏み台を差し出す側になっている。


昨夜の雨で、馬車回しの土はまだぬかるんでいた。

「遅いわね。踏み台ひとつ、まともに置けないの?」

バルバラが扇でニノンの肩を小突く。

たったそれだけの衝撃で、ニノンはあっけなく、ぬかるんだ地面へ倒れ込んだ。

庇った手首が鈍い音を立て、泥水が容赦なく顔と服を汚す。

痛みに顔をしかめながらも、ニノンは震える腕で必死に立ち上がろうともがいた。


たるんだ頬に陰湿な笑みを刻んだガストンは、這いつくばって泥にまみれたニノンを見下ろし、豚のように鼻を鳴らした。

「役に立つだけ、まだ馬の方がましだな。おいリック、馬を押さえていろ」

「……はっ」

馬車のそばに控えていたリックは、深く頭を下げた。


ガストンは泥に伏せたニノンを一瞥することもなく、馬車へ乗り込んだ。

「出せ」

御者が鞭を鳴らし、馬車はゆっくりと屋敷を離れていった。


玄関先には、ガストンが連れてきた家令と下男たちがまだ残っていた。

彼らの冷たい目があるかぎり、リックはニノンへ駆け寄ることもできない。


ニノンには分かっていた。

ここでリックが少しでも自分を庇えば、伯父はきっとリックを追い出してしまう。


だからニノンは、泥だらけの顔を上げ、リックにだけ分かるように、小さく首を振ってみせた。


——大丈夫よ。

そう、彼を慰めるように。


「……失礼いたします」

リックは深く頭を下げ、奥歯を噛みしめながら厩舎へ戻っていった。


過酷な労働の合間、誰もいない廊下の影で、ニノンの足元にころりと小さなパンが転がってきた。

見上げると、無表情を作ったマリアが、足早に通り過ぎていくところだった。

廊下の向こうには、バルバラ付きの小間使いの姿がある。


「……まだ休んでいるのですか。奥様がお帰りになる前に、さっさと裏庭を掃きなさい」

すっきりとまとめた栗色の髪を揺らし、マリアの口から出たのは、冷たく突き放すような声だった。


ニノンの胸が、ちくりと痛む。

けれど、すぐに気づいた。

通り過ぎざまに見えたマリアの指先が、かすかに、けれど確かに震えていたことに。

ニノンは黙ってパンを拾い上げた。


マリアも、リックも、嘘をつくのが下手だ。

冷たい言葉を投げつけるたび、二人の瞳の奥が今にも泣き出しそうに歪むのを、ニノンは知っている。

(お姉様が帰ってきたら、きっと、ぜんぶ終わるわ……だから、平気)


誰も、堂々と優しくしてはくれない。

優しさはいつも、落とされたパンや、伏せられた視線や、震える指先の中にしかなかった。

それでもニノンは、姉という唯一の希望だけを胸に、果てしない労働へと戻っていった。



夜。

水汲みを終えて母屋の裏口を歩いていたニノンは、ぬるりとした声に呼び止められた。

「おい、役立たず」

従兄のゲクランだった。

酒が入っているのか顔を赤くし、焦げ茶色の髪をこれみよがしに撫でつけた彼は、ニノンの前に立ち塞がってドンと壁に手をついた。


不自由なく与えられてきた食事で厚みを増した長身が、のしかかるように覆い被さる。 栄養失調で小枝のように痩せ細ったニノンの身体は、その影にすっぽりと呑み込まれてしまった。


「お前の姉は、昔から本当に気に食わなかった」

ゲクランは、ニノンの頭上から見下ろして吐き捨てるように言う。

「どこへ行っても、シノン、シノン、シノン! たかが伯爵家の娘が、第三席だと持ち上げられて、俺を見下しやがって……だが、最後に勝ったのは俺だ。あいつは馬車ごと崖から落ちて、死体すら残らず消え失せたからな!」


ニノンは唇を噛んだ。

胸の奥が痛んだが、俯いたまま何も言わない。

そんな彼女の反応さえ面白いのか、ゲクランは口元を吊り上げた。

「俺の足元で泥まみれになってる妹の姿を見たら、あいつはどんな顔をするだろうなぁ! ああっ、見せてやれないのが本当に残念だ!」


ニノンは、黙って聞いていた。

自分が罵られることには慣れている。

けれど——大好きなお姉様を侮辱されると、ほんのわずかに、表情が強張ってしまう。


「……何だ、その目は」

ゲクランの声が、低くなった。

ニノンは慌てて目を伏せる。

だが、遅かった。

「まだ信じてるのか?」

彼の唇が、醜く歪む。

「まだ、あの女が帰ってくるとでも思ってるのか? 五年だぞ。あの崖から落ちて五年だ。とっくの昔に獣の餌になって、骨のひとかけらすら残っちゃいねえよ!」


ニノンは答えなかった。

答えられなかった。

胸元のリボンを、服の上からそっと押さえる。

その仕草を、ゲクランは見逃さなかった。

「……ふん。せいぜい、泥水でもすすって生き延びるんだな」

ゲクランは苛立ちに任せて、ニノンの華奢な肩を力任せに突き飛ばした。

抗う力などあるはずもなく、ニノンの身体はあっけなく石畳へ投げ出された。


背を向けて去っていく重い足音だけが響く。

石畳に倒れ込んだニノンは、こぼれそうになるものを堪えるように、ぎゅっと唇を噛みしめた。

痛む肩をさすりながら立ち上がる。

胸元に縫い付けた布袋の感触を、指先で確かめた。

「……お姉様は、帰ってきます」

誰に聞かせるでもない囁きは、夜風にさらわれて消えていった。



深夜。

飼料小屋へ戻るなり、ニノンは昼間こっそり藁の陰に隠しておいたパンを取り出した。


本当は、一口で食べてしまいたかった。

空腹で眠る夜など、もう数え切れないほど経験している。

それでも、パンの匂いを前にすると、喉がごくりと鳴る。

身体はまだ諦めきれずに食べ物を求めた。


ニノンはパンを小さくちぎり、少しずつ時間をかけて口に運んだ。

硬くなった粗末なパンでも、今の彼女にとっては生き延びるための命の糧だった。

そうすれば、眠りにつくまでのあいだだけは、空腹の痛みを忘れていられる……。


やがてパンを食べ終えると、ニノンは藁の上に座り、胸元からリボンを取り出した。

ひび割れ、土に汚れた手で触れたくはなかった。

だから、自分の袖口で何度も指を拭ってから、そっとリボンに触れる。

もうずいぶんと古びて、色も分からない。

けれど、ニノンにとっては、あの陽だまりの伯爵家と、優しいお姉様へと繋がる、命綱のような宝物だった。


このリボンに触れている間だけは、どんな理不尽な痛みも、凍えるような寒さも耐えられた。

ニノンは、リボンを両手で包み込み、祈るように胸に押し当てた。


「お姉様」

静かな夜の闇に呼びかける。

「ニノンは、いい子で待っています……だから……早く、迎えに来てください」


その時だった。

風の音に紛れて、飼料小屋の扉の隙間から、かすかに衣擦れの音がした。

ニノンがはっと顔を上げる。

白い筋の混じった淡い金髪が、月明かりの中で頼りなく揺れた。

だが、そこには誰もいない。

ただの風のいたずらかと思い、ニノンは再びリボンを布袋へ戻し、藁の上へ身を横たえた。



——小屋の外、深い闇の中。

壁に身を潜めていた影が、ゆらりと動いた。

「……なるほどな。まだあんなものにすがって、希望を持った気でいやがったのか」

ゲクランは、暗闇の中で口角を吊り上げた。


あの小娘の拠り所が分かった。

ならば、それを引き裂いて踏みにじってやればいい。

希望などというくだらない幻想を、二度と抱けないように。

あいつの心を、完全に粉々に壊してやればいい。


翌朝、ベルトラン伯爵家の空気は、いつもよりずっと、ぞっとするほど冷たかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ