第2話 飼料小屋の祈り
本作は全6話の短期連載です。 毎朝6時に更新予定です。
埃っぽい藁の匂いで目が覚めた。
板壁の隙間から、白み始めた朝の光が、刃のように細く差し込んでいる。
隙間風が薄い毛布をすうっと撫でていき、ニノンは身震いをして身を縮めた。
冷え切った指先を擦り合わせながら、枕代わりの硬い麻袋から、そっと頭を上げる。
ここは、屋敷の厩舎の裏にある、古い飼料小屋だ。
かつて、陽だまりの寝室で姉に髪を梳いてもらっていた伯爵令嬢が、いまは馬の餌をしまう小屋で目を覚ます。
それが、ニノンの五年間だった。
15歳になったニノンは、起き上がる前にまず、自分の胸元を確かめた。
粗末な服の内側に縫いつけた小さな布袋。
その中には、擦り切れて、すっかり色の褪せた一本のリボンが入っている。
五年前、シノンが卒業式へ向かう朝に残してくれた、たったひとつの宝物だった。
「お姉様は、きっと帰ってきます」
無造作に肩のあたりで切り揃えられた淡い金髪には、15歳の少女には似つかわしくない白い筋がいくつも混じっている。
痩せこけ、擦り傷だらけの身体に力を入れて立ち上がる。
冷えた土の床に裸足をつけて、ニノンは今日も地獄のような一日を始める。
◇
「ぐずぐずしないで。さっさと歩きなさい、役立たず」
朝から晩まで、ニノンに命じられる仕事が途切れることはなかった。
けばけばしい化粧を施した伯母バルバラは、この五年間、ただの一度もニノンを名前で呼んだことがない。
冷たい井戸水での洗濯。
廊下の床磨き。
山のような食器洗い。
そして暖炉に溜まった灰の始末。
煤で顔が真っ黒になっても、拭う布すら与えられていなかった。
かつてこの屋敷の使用人たちは、ニノンを宝物のように扱っていた。
だが、前の伯爵夫妻を慕っていた使用人たちの多くは、すでに屋敷を追われている。
今の屋敷で働く使用人たちは、伯父一家が連れてきた者か、新しく雇い入れられた者ばかりだ。
重い水桶を抱えたまま、ニノンは廊下の角で足を止めた。
向こうから若いメイドが歩いてくる。
先週屋敷に入ったばかりの、まだ十代半ばの少女だった。
「おはようございます」
ニノンが小さく頭を下げる。
メイドは一瞬だけ立ち止まった。
何か言いかけて、けれどすぐに視線を伏せた。
「……ごめんなさい」
「え?」
「あなたと口を利いているのをゲクラン様に見られると、私まで何をされるか分からないから……だから、話しかけないで」
怯えたように周囲を窺いながらそう言い残し、彼女は足早に去っていった。
ニノンは、ただ静かに立ち尽くすしかできなかった。
手に提げた水桶の冷たさが、じわじわと心の奥まで浸食してくるようだった。
中には伯父たちに同調して、露骨な嫌悪を向けてくる者もいる。
なんとか廊下の掃除を終わらせて、次は厨房で冷たい水にまみれて皿洗いをしていた時、新参の下男たちが、ニノンの泥だらけの姿を見て、鼻で笑った。
「お前さん、昔はこの屋敷のお嬢様だったって?」
ニノンは赤く腫れた手を止めず、黙ってうつむいた。
「……信じられねえな。どう見ても、ただの薄汚い浮浪児にしか見えねぇや」
「全くだ。こんなガキがあのゲクラン様の従妹だなんて、とてもじゃねえが信じられねえよな」
「いや、従妹って言われても困るよなぁ」
「なあ。俺が初めて見た時なんか、どこぞの物乞いが迷い込んだのかと思ったぜ」
下男たちは声を潜める気もなく笑った。
「お嬢様ってのは、もっとこう、綺麗な服を着て、いい匂いがするもんじゃねえのか?」
「違いねえ。泥と馬小屋の匂いしかしねえぞ」
「ははっ、それじゃ伯爵令嬢じゃなくて厩舎令嬢だな」
げらげらと下品な笑い声が響く。
「まあ、今じゃ馬以下だけどな」
「違いねえ」
そう言って、下男の一人はわざとニノンの足元へ汚れた布巾を放り投げた。
「ほらよ。どうせ得意だろ。拾っとけ」
ニノンは、何も言い返さない。
ただじっと唇を引き結んで、目の前の仕事をひとつずつこなしていく。
罵られることにも、無視されることにも、もう慣れた。
そう思い込まなければ、立っていられなかった。
◇
昼下がり、ガストンとバルバラが揃って外出する際、ニノンは馬車の踏み台を運ぶよう命じられた。
分厚い木でできた踏み台は、痩せ細ったニノンの腕にはずしりと重い。
よろめきながら、ニノンはそれを馬車の脇へと置いた。
かつては、父や姉に優しく手を引かれて乗せてもらっていた馬車。
今は、自分からすべてを奪った伯父夫婦の足元に、踏み台を差し出す側になっている。
昨夜の雨で、馬車回しの土はまだぬかるんでいた。
「遅いわね。踏み台ひとつ、まともに置けないの?」
バルバラが扇でニノンの肩を小突く。
たったそれだけの衝撃で、ニノンはあっけなく、ぬかるんだ地面へ倒れ込んだ。
庇った手首が鈍い音を立て、泥水が容赦なく顔と服を汚す。
痛みに顔をしかめながらも、ニノンは震える腕で必死に立ち上がろうともがいた。
たるんだ頬に陰湿な笑みを刻んだガストンは、這いつくばって泥にまみれたニノンを見下ろし、豚のように鼻を鳴らした。
「役に立つだけ、まだ馬の方がましだな。おいリック、馬を押さえていろ」
「……はっ」
馬車のそばに控えていたリックは、深く頭を下げた。
ガストンは泥に伏せたニノンを一瞥することもなく、馬車へ乗り込んだ。
「出せ」
御者が鞭を鳴らし、馬車はゆっくりと屋敷を離れていった。
玄関先には、ガストンが連れてきた家令と下男たちがまだ残っていた。
彼らの冷たい目があるかぎり、リックはニノンへ駆け寄ることもできない。
ニノンには分かっていた。
ここでリックが少しでも自分を庇えば、伯父はきっとリックを追い出してしまう。
だからニノンは、泥だらけの顔を上げ、リックにだけ分かるように、小さく首を振ってみせた。
——大丈夫よ。
そう、彼を慰めるように。
「……失礼いたします」
リックは深く頭を下げ、奥歯を噛みしめながら厩舎へ戻っていった。
過酷な労働の合間、誰もいない廊下の影で、ニノンの足元にころりと小さなパンが転がってきた。
見上げると、無表情を作ったマリアが、足早に通り過ぎていくところだった。
廊下の向こうには、バルバラ付きの小間使いの姿がある。
「……まだ休んでいるのですか。奥様がお帰りになる前に、さっさと裏庭を掃きなさい」
すっきりとまとめた栗色の髪を揺らし、マリアの口から出たのは、冷たく突き放すような声だった。
ニノンの胸が、ちくりと痛む。
けれど、すぐに気づいた。
通り過ぎざまに見えたマリアの指先が、かすかに、けれど確かに震えていたことに。
ニノンは黙ってパンを拾い上げた。
マリアも、リックも、嘘をつくのが下手だ。
冷たい言葉を投げつけるたび、二人の瞳の奥が今にも泣き出しそうに歪むのを、ニノンは知っている。
(お姉様が帰ってきたら、きっと、ぜんぶ終わるわ……だから、平気)
誰も、堂々と優しくしてはくれない。
優しさはいつも、落とされたパンや、伏せられた視線や、震える指先の中にしかなかった。
それでもニノンは、姉という唯一の希望だけを胸に、果てしない労働へと戻っていった。
◇
夜。
水汲みを終えて母屋の裏口を歩いていたニノンは、ぬるりとした声に呼び止められた。
「おい、役立たず」
従兄のゲクランだった。
酒が入っているのか顔を赤くし、焦げ茶色の髪をこれみよがしに撫でつけた彼は、ニノンの前に立ち塞がってドンと壁に手をついた。
不自由なく与えられてきた食事で厚みを増した長身が、のしかかるように覆い被さる。 栄養失調で小枝のように痩せ細ったニノンの身体は、その影にすっぽりと呑み込まれてしまった。
「お前の姉は、昔から本当に気に食わなかった」
ゲクランは、ニノンの頭上から見下ろして吐き捨てるように言う。
「どこへ行っても、シノン、シノン、シノン! たかが伯爵家の娘が、第三席だと持ち上げられて、俺を見下しやがって……だが、最後に勝ったのは俺だ。あいつは馬車ごと崖から落ちて、死体すら残らず消え失せたからな!」
ニノンは唇を噛んだ。
胸の奥が痛んだが、俯いたまま何も言わない。
そんな彼女の反応さえ面白いのか、ゲクランは口元を吊り上げた。
「俺の足元で泥まみれになってる妹の姿を見たら、あいつはどんな顔をするだろうなぁ! ああっ、見せてやれないのが本当に残念だ!」
ニノンは、黙って聞いていた。
自分が罵られることには慣れている。
けれど——大好きなお姉様を侮辱されると、ほんのわずかに、表情が強張ってしまう。
「……何だ、その目は」
ゲクランの声が、低くなった。
ニノンは慌てて目を伏せる。
だが、遅かった。
「まだ信じてるのか?」
彼の唇が、醜く歪む。
「まだ、あの女が帰ってくるとでも思ってるのか? 五年だぞ。あの崖から落ちて五年だ。とっくの昔に獣の餌になって、骨のひとかけらすら残っちゃいねえよ!」
ニノンは答えなかった。
答えられなかった。
胸元のリボンを、服の上からそっと押さえる。
その仕草を、ゲクランは見逃さなかった。
「……ふん。せいぜい、泥水でもすすって生き延びるんだな」
ゲクランは苛立ちに任せて、ニノンの華奢な肩を力任せに突き飛ばした。
抗う力などあるはずもなく、ニノンの身体はあっけなく石畳へ投げ出された。
背を向けて去っていく重い足音だけが響く。
石畳に倒れ込んだニノンは、こぼれそうになるものを堪えるように、ぎゅっと唇を噛みしめた。
痛む肩をさすりながら立ち上がる。
胸元に縫い付けた布袋の感触を、指先で確かめた。
「……お姉様は、帰ってきます」
誰に聞かせるでもない囁きは、夜風にさらわれて消えていった。
◇
深夜。
飼料小屋へ戻るなり、ニノンは昼間こっそり藁の陰に隠しておいたパンを取り出した。
本当は、一口で食べてしまいたかった。
空腹で眠る夜など、もう数え切れないほど経験している。
それでも、パンの匂いを前にすると、喉がごくりと鳴る。
身体はまだ諦めきれずに食べ物を求めた。
ニノンはパンを小さくちぎり、少しずつ時間をかけて口に運んだ。
硬くなった粗末なパンでも、今の彼女にとっては生き延びるための命の糧だった。
そうすれば、眠りにつくまでのあいだだけは、空腹の痛みを忘れていられる……。
やがてパンを食べ終えると、ニノンは藁の上に座り、胸元からリボンを取り出した。
ひび割れ、土に汚れた手で触れたくはなかった。
だから、自分の袖口で何度も指を拭ってから、そっとリボンに触れる。
もうずいぶんと古びて、色も分からない。
けれど、ニノンにとっては、あの陽だまりの伯爵家と、優しいお姉様へと繋がる、命綱のような宝物だった。
このリボンに触れている間だけは、どんな理不尽な痛みも、凍えるような寒さも耐えられた。
ニノンは、リボンを両手で包み込み、祈るように胸に押し当てた。
「お姉様」
静かな夜の闇に呼びかける。
「ニノンは、いい子で待っています……だから……早く、迎えに来てください」
その時だった。
風の音に紛れて、飼料小屋の扉の隙間から、かすかに衣擦れの音がした。
ニノンがはっと顔を上げる。
白い筋の混じった淡い金髪が、月明かりの中で頼りなく揺れた。
だが、そこには誰もいない。
ただの風のいたずらかと思い、ニノンは再びリボンを布袋へ戻し、藁の上へ身を横たえた。
◇
——小屋の外、深い闇の中。
壁に身を潜めていた影が、ゆらりと動いた。
「……なるほどな。まだあんなものにすがって、希望を持った気でいやがったのか」
ゲクランは、暗闇の中で口角を吊り上げた。
あの小娘の拠り所が分かった。
ならば、それを引き裂いて踏みにじってやればいい。
希望などというくだらない幻想を、二度と抱けないように。
あいつの心を、完全に粉々に壊してやればいい。
翌朝、ベルトラン伯爵家の空気は、いつもよりずっと、ぞっとするほど冷たかった。




