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第1話 陽だまりは、まだ夢の中に

本作は全6話の短期連載です。 毎朝6時に更新予定です。

序文


これは、緑豊かな領地を治める、ある伯爵家での昔々のお話。


あたたかな陽だまりの屋敷に、美しい金髪を持った、仲良しの貴族の姉妹がおりました。

しかし、ある日、突然の馬車事故によって、ご両親と自慢のお姉様は帰らぬ人となってしまいます。

残された小さな妹は、お姉様から託された一本のリボンを『宝物』として抱きしめ、泥だらけになりながら、飼料小屋での過酷な日々を生き抜いていきました。


――その決して切れることのなかった約束が、やがて絶望の夜会を大きく揺るがすことになります。


この物語は、どんな痛みの中でも決して希望を失わなかった健気な妹が、ただひとつの『約束』を信じ抜いた果てにたどり着く、一夜の奇跡の物語。


記すのは、わたくし、ラトゥナ・ケートでございます。



◇◇◇



シャンデリアの光が、嘘みたいに眩しかった。


磨き上げられた大理石の床。

咲き誇る生花。

絹のドレスの衣擦れと、低く流れる弦楽の音。甘い菓子と、むせ返るほどの香水の匂い。


侍女とも護衛ともつかない女に腕を取られ、ニノンはきらびやかな夜会のただ中を、引きずられるように歩かされていた。


足が、痛い。

うまく動かない右足を庇いながら、一歩ずつ進む。


痩せ細った身体に、毒々しいほど派手なドレスはまるで似合っていなかった。


無造作に肩のあたりで切り揃えられた淡い金髪には、15歳という若さに似つかわしくない白い筋が、いくつも混じっていた。

どれほど髪飾りで繕っても、こけた頬と、かつての輝きを失って落ちくぼんだ碧眼までは隠せない。


周囲の貴族たちが、彼女を見ている。

憐れみ。

侮蔑。

好奇。

そのどれもが、細い針のようにニノンの肌を刺した。


大階段の上から、よく通る声が降ってくる。

「はははっ! 大事な妹がこの有様じゃ、あの世のシノンも浮かばれないだろうぜ!」


従兄のゲクランだった。

焦げ茶色の髪をこれみよがしに撫でつけ、勝ち誇った笑みを浮かべ、まるで自分の手柄でも語るように声を張り上げている。


その傍らでは、たるんだ頬に陰湿な笑みを刻んだ伯父ガストンが、老貴族の耳元へ何事かを囁いていた。

伯母バルバラは、けばけばしい化粧を施し、かつてニノンの母のものだった宝石を首から下げて、扇の陰でくすりと笑っている。


値踏みされている。

そう理解するのに、時間はかからなかった。


自分はいま、売られようとしている。

家畜のように。

家具のように。


ニノンは、ぎゅっと目を閉じた。

——これは、いつもの夢。

そう思おうとした。

痛みも、嘲笑も、突き刺さる視線も、ぜんぶ悪い夢の中の出来事なのだと。


目を覚ませば、陽だまりの匂いのする部屋にいて、優しい声が自分の名前を呼んでいるはず。

だって、お姉様は——。

意識が、遠くなっていく。

眩い光が、ぐにゃりと溶けていく。


そうしてニノンの心は、いちばん幸せだった、五年前のあの日へと滑り落ちていった。



五年前。ベルトラン伯爵家。


その朝も、ニノンの寝室はあたたかな光で満ちていた。

レースのかかった窓から朝日が差し込み、淡い色の絨毯の上で踊っている。

ふかふかの寝台。

やわらかな枕。

良い香りのする寝具。

10歳のニノンは、その光の中で、子猫のように丸くなって眠っていた。


少し身体の弱い子だった。

それに、ニノンが生まれる前——姉のシノンが生まれたあと、二人の子が立て続けに夭折したという、悲しい歴史があった。


だからこそニノンは、長い悲しみの果てにようやく授かった『希望の光』として、両親はもちろん、屋敷の使用人の一人に至るまで、目に入れても痛くないほど大切に育てられてきた。


「ニノン様、朝でございますよ」

侍女のマリアが、そっとカーテンを開ける。

栗色の髪をすっきりとまとめ、笑うとえくぼのできる、まだ若い優しい侍女だ。


「……ん、もう少し……」

「いけません。お顔を洗って、髪を梳かして。今日もお綺麗にいたしましょうね」

マリアが寝台のシーツをそっと整えようとした、その時だった。


「あら。まだ寝坊助さんなのね、ニノンは」

扉の向こうから現れたのは、姉のシノンだった。

輝くような金髪を腰まで流し、知性の宿る深い碧眼を持つ少女。

学園では『氷の令嬢』だの『完璧な才媛』だのと呼ばれているらしい姉。


けれど、ニノンの前でだけは、その澄ました仮面がやわらかくほどける。


「お姉様!」

ニノンがぱちりと大きな碧眼を開き、寝台の上で身を起こすと、シノンはその傍らにそっと腰を下ろし、妹の頬を両手で包んだ。


「もう。いつまで寝ているの、寝坊助さん」

くすくすと笑いながら、シノンは妹を鏡台の前へ座らせ、自らの手で髪を梳いていく。

マリアが慌てて「わたしが」と言いかけるのを、シノンは「いいの。これは私の役目」と、にこやかに退けた。


マリアがいつも丁寧に手入れをしている、ニノンの腰まで届くふわりとした淡い金髪が、シノンの手を通して滑らかな光の滝となる。

仕上げに、シノンは自分の髪から外した淡い色の髪紐を、ニノンの髪に結んだ。


「ほら、可愛い。世界でいちばん可愛い女の子だわ」

そう言って、シノンは隠し持っていた飴玉をひとつ、ニノンの口に押し込んだ。

お母様には内緒よ、という顔で。


父——アルマン・ド・ベルトラン伯爵は、領民から心底慕われる、あたたかな領主だった。

朝には必ずニノンの頬に口づけて、「今日もよく笑うんだよ」と言って出ていく。

母——フローラ伯爵夫人は、厳しくも優しい淑女だった。

淑女の作法には容赦がなかったが、ニノンが熱を出せば、夜通しその手を握っていてくれた。


大好きな家族と、優しい使用人たちに囲まれて過ごす、眩しいほどに穏やかな日々。

ニノンにとって、この屋敷が世界のすべてだった。



「リック、もう少し右! ああ、だめ、やっぱりあっちの赤いお花がいいわ!」

「おっと、無茶をなさらないでくださいお嬢様。俺の肩から落ちてしまいますよ」


裏庭の大きな樫の木のそばで、日に焼けた短髪と丸太のように太い腕を持つ大柄な厩番のリックが肩車をして、庭木に絡んだ赤や白の小花をニノンに摘ませていた。


ニノンは、両手いっぱいに集めた赤や白の花を抱え、太陽のような笑顔を弾けさせている。

「ふふっ、たくさん採れたわ。リック、ありがとう! やっぱりリックが一番大きいし、一番力持ちだわ!」

「どういたしまして……おっと、奥様には内緒ですよ。また俺が、お嬢様をお転婆にさせていると叱られてしまいますからね」

無骨な顔を困ったようにほころばせながらも、リックの大きな手は、ニノンを地面へ下ろすまで、羽毛を扱うように優しかった。


地面に降りたニノンは、小さな手のひらを開いて、一枚の緑の葉っぱをリックへと差し出した。

「はい、肩車のお礼! さっき見つけた四つ葉のクローバーよ」

「おお、こいつは縁起がいい」

リックは太い指で小さなクローバーを壊さないようにそっと受け取ると、嬉しそうに破顔した。

「でしょう? だからリックにあげるの。あと、お馬さんたちにも後でおやつをあげてね」


「まあ、ニノン様。またそんなに土をつけて」

そこへ、真っ白なエプロンをふわりと揺らして、侍女のマリアが小走りでやってきた。

小言を言いながらも、その顔はちっとも怒っていない。


彼女はハンカチを取り出すと、しゃがみ込んでニノンの頬についた泥を優しく拭き取った。

「ありがとう、マリア。……はい、これ!」

ニノンは抱えていた束の中から、一番綺麗に咲いた一輪の白い花を抜き出し、マリアの髪のそばへ、そっと当てた。

「マリアにもお花をあげるわ。いつも優しくしてくれてありがとう!」

「まあ……! ありがとうございます、ニノン様。ふふ、わたくしには少し可愛らしすぎるかもしれませんが、大切にいたしますね」

マリアは愛おしそうに目を細めると、ニノンの両手に残ったたくさんの花を見て尋ねた。

「そのお花は、シノン様へですか?」

「うん! お姉様のためにお花を摘んだの。最近、お姉様は学園のお勉強でずっと机に向かっているでしょう? だから、お部屋を明るくしてさしあげたくて」

「ええ、とても綺麗です。シノン様もきっとお喜びになりますよ。さあ、一緒に花瓶に生けましょうね」


マリアと手を繋ぎ、リックに大きく手を振って、ニノンは屋敷の中へと駆けていく。


シノンの部屋の扉を少しだけ開けると、姉は分厚い魔導書と羽ペンを手に、真剣な横顔で机に向かっていた。

公爵家の子息たちと肩を並べ、伯爵家でありながら常に上位の成績を修める『天才』の、凛とした孤独な横顔。


「……お姉様、お勉強中?」

ニノンが花瓶を抱えてひょっこりと顔を出すと、シノンの手から羽ペンがポロリと落ちた。


さきほどまでの『氷の令嬢』の仮面は一瞬で溶け落ち、その顔は、見ているこちらが照れてしまうほど甘く、やわらかくほどけた。

「ニノン! ええ、ええ、もちろん入っていらっしゃい。ちょうど休憩しようと思っていたところよ」

シノンは慌てて本を閉じ、両手を広げて妹を迎え入れた。

「まあ、なんて綺麗なお花。あなたが摘んでくれたの?」

「うん! リックに手伝ってもらって、マリアと一緒に生けたの。お姉様、お疲れさま」

シノンは花瓶を受け取るのももどかしく、ニノンをぎゅっと抱きしめ、そのやわらかな頬に何度も口づけを落とした。


「ありがとう。世界で一番素敵なおくりものだわ……ああ、私の可愛いニノン。あなたがいれば、どんな難しい試験だって満点を取れる気がするわ」

「ふふっ、お姉様ったら、くすぐったい!」

「こらこら、シノン。あまりニノンを甘やかすものではないよ」

開け放たれた扉から、温かい声が降ってきた。


振り返ると、父であるベルトラン伯爵アルマンと、母のフローラ伯爵夫人が、揃って微笑ましく姉妹を見つめていた。

「お父様! お母様!」

「ニノン、またリックを困らせていたそうね。淑女たるもの、木登りの真似事などいけませんよ」

フローラは厳格な言葉を口にしながらも、ニノンの美しい金髪を直す手つきは、どこまでも慈愛に満ちていた。

「いいじゃないか。ニノンがこうして元気で笑ってくれている。それ以上に、我が家に必要なものなどないさ」

アルマンが大きな手でニノンの頭を撫でる。

その温かい手のひらの感触に、ニノンは安心しきって目を細めた。


優秀で、美しくて、誰よりも自分を溺愛してくれる自慢のお姉様。

領民を愛し、いつも優しく微笑んでくれるお父様とお母様。

そして、家族のように自分を慈しんでくれるマリアやリックたち。


「……わたし、お父様とお母様とお姉様が、だぁいすき!」

ニノンが無邪気に笑うと、シノンが「私の方が好きよ」と負けじと抱きしめ返し、両親がそれを声を出して笑った。


ベルトラン伯爵家の午後は、いつも甘い紅茶の香りと、やわらかな陽だまりに満ちていた。



シノンが、学園を第三席で卒業する日のことだった。

伯爵家にとっては誉れだった。

公爵家や皇族が上位を占めるあの学園で、一介の伯爵家の娘が第三席。

父も母も、誇らしさを隠しきれない様子で、馬車に乗り込む支度をしている。

本当なら、ニノンも一緒に行くはずだった。

けれど、前の晩から熱を出してしまった。


「私も……お姉様の晴れ姿、見たかったです」

寝台の中で、ニノンは今にも泣きそうな声を出した。


正装したシノンが、枕元に腰を下ろす。

いつもより大人びて、けれどいつものように優しい顔で、妹の額に手を当てた。

「無理をしてはだめよ。今日はいい子で眠っていてね」

「でも……」

「帰ってきたら、たくさんお話してあげる。どんな景色だったか、何を着ていたか、ぜんぶ。だから——」


シノンは、自分の金髪を飾っていたリボンをひとつ、するりと解いた。

そして、それをニノンの小さな手に、そっと握らせる。

「これを持っていて。私だと思って」

ニノンは、リボンをぎゅっと胸に抱きしめた。

「……はい。いい子で、待っています」

「ええ。約束よ」

シノンは身をかがめ、妹の額にくちづけを落とした。


帰ってきたら、どんなお話をしてくれるのだろう。

そんな弾むような期待を胸に、ニノンは手のひらのリボンを大切に包み込んだ。


馬車がゆっくりと屋敷を出ていく。

ニノンは窓辺に張りついて、力いっぱい手を振った。

遠ざかる馬車の小さな窓から、シノンも妹に優しく微笑み返す。


——それが、ニノンが見た、最後の家族の姿になった。



その夜、屋敷に報せが届いた。

父と母、そしてシノンを乗せた馬車が、山道で崖から転落した。

遺体は見つかっていない……けれど、あの高さから落ちて生きているはずがない——と。


屋敷中が、凍りついた。

使用人たちは、声をあげて泣き崩れた。


マリアは、わけのわからないニノンを抱きしめて、その背を何度もさすった。

リックは、廊下の隅で拳を握りしめ、声を殺して泣いていた。


ニノンには、理解できなかった。

お父様も、お母様も、お姉様も、帰ってこない。

そんなことが、あっていいはずがない。

ニノンは、もらったばかりのリボンを、両手で握りしめた。

そして、震える声で、けれどはっきりと言った。


「……お姉様は、帰ってきます」

誰も、何も言えなかった。

「だって、約束しましたもの。お姉様が、約束を破ったことなんて、一度もないんです」


大人たちは、その言葉を否定することも、肯定することもできなかった。

ただ、マリアが、いっそう強くニノンを抱きしめただけだった。



数日後、伯父ガストン・ド・ベック男爵の一家が、屋敷へやって来た。


悲しみに沈む屋敷の中で、ガストンの動きだけが、奇妙なほど手際よかった。

最も近い成人の男子親族として、彼はあっという間に後見人としての権限を主張し、ベルトラン伯爵家を掌握していく。

皇家もこれを事故と認定し、表立って疑う者はいない。

伯父の根回しは、恐ろしいほど完璧だった。

伯父ガストンの妻であるバルバラは、屋敷に足を踏み入れるなり、調度品や宝石を値踏みするような目で見回した。

従兄ゲクランは、シノンの消えた屋敷を眺めて、どこか歪んだ満足な笑みを顔に浮かべている。


その夜、ニノンは廊下の暗がりで、叔父の声を聞いた。


執務室の重厚な扉が、わずかに開いていた。

隙間から漏れる灯りの向こうで、伯父のガストンが、かつて父が座っていた革張りの椅子にふんぞり返っている。


「……ようやくだ」

父が愛用していたクリスタルの酒杯。

そこに注がれた琥珀色の液体を、ガストンは品のない手つきで呷った。

「ようやく、俺のものになった」

傍らの長椅子では、妻のバルバラがワイングラスを揺らしながら、うっとりと室内の調度品を眺め回している。


「俺が長男だぞ。本来なら、俺が座るべき椅子だった。なのに父上は、あいつばかりを……」

酒杯を握るガストンの指が、白く鬱血する。

「若い頃の過ちひとつで俺を見限りやがって。その点、あいつはお利口で、扱いやすかったんだろうよ。俺のものを、うまく掠め取りやがった」


恨み言の端々に、何十年も底に溜め込んできた嫉妬がねっとりと張り付いている。

「まあ、もうどうでもいいじゃありませんの」

バルバラが、つまらなそうに口を挟んだ。

彼女の関心は、すでに自分の首を飾る新しい宝石に向いている。


「昔の愚痴なんて。今はあなたが伯爵様で、わたくしが伯爵夫人。結果がすべてですわ」

「……ちっ、分かってるよ。本来の持ち主に戻ったってだけだ」

ガストンは残りの酒を乱暴に飲み干し、ドン、と机に杯を叩きつけた。


「それで、あの子はどうなさるの?」

「あの子?」

「あなたの可愛い姪っ子ですわ」

バルバラのくすくすという笑い声に、ガストンは喉の奥で気味の悪い音を鳴らした。

「そうだな……」


廊下の暗がりにうずくまるニノンは、両手で必死に自分の口を塞いだ。

心臓が、耳の奥で痛いくらいに激しく鳴っている。

息を殺し、ニノンは震える足で、その場から逃げるように後ずさった。


——この人たちは、家族じゃない。

この人たちは、この屋敷の陽だまりを、何ひとつ知らない。

けれど、まだ幼いニノンには、何もできなかった。


前の伯爵夫妻を慕っていた使用人たちは、次々と暇を出されていく。

マリアとリックだけが、屋敷に残るために、それぞれ冷たく従順な使用人を演じはじめた。



やがて、ニノンの部屋からは、ひとつずつ大切なものが奪われていった。


シノンが選んでくれたドレス。

母が見立ててくれた髪飾り。

父が贈ってくれた、小さな絵本。

それらは「もう必要ない」という伯母の一言で、次々と運び出されていく。


最後に残ったのは、たったひとつ。

シノンが出発の朝にくれた、あのリボンだけだった。

ニノンは、それを胸にきつく抱きしめた。

「お姉様は、帰ってきます」


誰に言うでもなく、そう呟く。

けれど、返事はなかった。


かつて陽だまりのようだった部屋の扉が、冷たい音を立てて閉じられる。

その日、ニノン・ポピレア・ド・ベルトランの世界から、陽だまりは消えた。

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