第九章 同志たちの長い夜
佐伯修一、五十三歳。
東京マルイのガスブローバック、ブローニング・ハイパワー。
彼がそれを待ち始めてから、いったい何年が経過したのか。
正確な年数を計算しようとしたことはある。
しかし、途中でやめた。
数字にすると、あまりにも長かったからだ。
それに、待ち始めた年月を正確に把握したところで、製品化が早まるわけでもない。
佐伯はそう結論づけ、いつものように東京マルイの公式サイトを開いた。
新製品情報。
更新なし。
「……まだだ」
彼は静かにブラウザを閉じた。
そして三秒後、もう一度開いた。
もちろん、何も変わっていなかった。
「いや、三秒で変わるわけないだろ」
自分で自分にツッコミを入れた佐伯は、少しだけ反省した。
反省しただけで、やめるつもりはなかった。
1 待つ者たちの集会
昼休み。
佐伯は弁当を食べ終えると、例の掲示板を開いた。
スレッドのタイトルは、相変わらず長かった。
『東京マルイからガスブロのハイパワーが出るまで待つスレ』
新しい書き込みがあった。
名無しさん:待ち続けているうちに、欲しいものが増えてきた。昔はハイパワー一択だったのに、最近は他の製品も気になる。
佐伯は眉をひそめた。
それは危険な兆候だった。
待つ者にとって、欲望の分散は信念の揺らぎを意味する。
もっとも、本人は先週、別のガスブロのレビュー動画を三十分も見ていた。
そのことは、そっと記憶の彼方へ追いやった。
別の書き込みが続く。
名無しさん:もし発売されたら、箱を開ける前に手を洗うと思う。
名無しさん:わかる。正座して開封する。
名無しさん:俺は普通に開ける。たぶん。
名無しさん:その「たぶん」が信用できない。
佐伯は声を出して笑った。
会社の休憩室で、五十三歳の中間管理職がスマートフォンを見ながらニヤニヤしている。
向かいの席にいた同僚が、怪訝そうな顔をした。
「佐伯さん、何見てるんですか?」
「いや、ちょっと」
「面白い動画?」
「……同志たちの会話だ」
「は?」
「いや、何でもない」
佐伯はスマートフォンを伏せた。
説明するのは難しい。
何十年も発売を待っている架空の新製品について、見知らぬ人々と真剣に語り合う喜び。
それを、職場の同僚にどう説明すればいいのか。
そもそも説明する必要があるのか。
佐伯は考えた末、結論を出した。
説明しなくていい。
これは自分たちの世界なのだ。
2 待ち時間の有効活用
その日の午後、佐伯は仕事に集中していた。
少なくとも、本人はそう思っていた。
部下の田中が資料を持ってきた。
「佐伯さん、この企画書なんですが、予算のところをもう一度確認していただけますか」
「うん、見せてくれ」
佐伯は資料を受け取り、数字を追った。
売上予測。人件費。設備投資。
なるほど、よくできている。
「田中君、ひとつ聞いていいか」
「はい」
「仮に、長年待ち望んでいた製品が発売されるとする」
田中は瞬きをした。
「……はい?」
「いや、仮の話だ。一般論としてだよ」
「はあ」
「その場合、購入予算はどこから捻出するべきだと思う?」
田中は慎重に答えた。
「……個人の貯蓄では?」
「そうだな」
佐伯は深くうなずいた。
「家庭の予算と個人の趣味の予算は、明確に分けるべきだ。これは重要なことだ」
「そうですね」
「それと、発売前から予算を確保しておくことも大切だ」
「……佐伯さん」
「何だね」
「これ、会社の企画書ですよね?」
佐伯は手元の資料を見た。
確かに、会社の企画書だった。
「……そうだな」
「何の話をしていたんですか?」
「市場分析だ」
「市場分析?」
「将来の需要に備えた資金計画だよ」
田中はしばらく佐伯の顔を見つめた。
それから、何も聞かなかったことにした。
若手社員には、そういう処世術も必要なのだ。
3 人生で一番待ったもの
その夜、掲示板に新しい話題が立った。
名無しさん:お前ら、ハイパワー以外で人生で一番待ったものって何?
佐伯は指を止めた。
人生で一番待ったもの。
難しい問いだった。
学生時代には、夏休みを待った。
就職してからは、給料日を待った。
結婚してからは、休日を待った。
子供が生まれてからは、子供の成長を待った。
そして今は、健康診断の再検査結果を少しだけ怖がりながら待っている。
だが、そうした待ち時間とは別に、ずっと待っているものがある。
東京マルイのガスブローバック、ブローニング・ハイパワー。
佐伯は投稿欄に文章を打ち込んだ。
佐伯:人生で一番長く待っているものなら、間違いなくこれです。ほかにも待ったものはあるけど、これはまだ終わっていない。
投稿してから、少しだけ考えた。
「……終わっていない、か」
その言葉が、妙に気に入った。
終わっていない。
つまり、まだ可能性があるということだ。
発売されていないという事実は、発売されないという証明ではない。
佐伯はその論理を、何度も自分に言い聞かせてきた。
そして、これからも言い聞かせるつもりだった。
掲示板に返信がついた。
名無しさん:その考え方、嫌いじゃない。
名無しさん:俺たちはまだ終わっていない。
名無しさん:いや、製品が出てないだけだろ。
佐伯は吹き出した。
そうだ。
製品が出ていないだけなのだ。
人生の問題にまで拡大する必要はない。
もっとも、彼らはその問題を人生の中心に据えて、すでに何年も語り合っているのだが。
4 妻の見解
夕食後、妻が尋ねた。
「あなた、最近また楽しそうね」
「そうか?」
「スマホを見て笑ってるし、食事中も上機嫌だし」
「趣味があるからな」
「例のハイパワー?」
「そうだ」
妻はお茶を飲んだ。
「まだ出てないのに?」
「まだ出ていないから、待っているんだ」
「出たら終わり?」
佐伯は考えた。
発売日を待つ。
予約開始を待つ。
予約したら、発送を待つ。
発送されたら、到着を待つ。
届いたら、箱を開ける。
開けたら、実際に手に取る。
そして、その後にはレビュー動画を見たり、追加マガジンを検討したりする日々が待っている。
「……いや、終わらないな」
「でしょうね」
妻は即答した。
「あなた、何かを待っているときが一番楽しそうだもの」
佐伯は少し驚いた。
妻は呆れているのだと思っていた。
実際、呆れているのだろう。
しかし、それだけではないのかもしれない。
「……そうかもしれないな」
「でも、発売されたら家計と相談してね」
「もちろんだ」
「本当に?」
「もちろんだとも」
妻は疑わしそうな目を向けた。
佐伯は胸を張った。
その瞬間、頭の中で電卓が動き始めた。
本体価格。
予備マガジン。
ガス。
メンテナンス用品。
そして、もし限定カラーが出た場合。
「あなた」
「はい」
「今、何を考えてるの?」
「……家計の健全化について」
「寝なさい」
「はい」
5 まだだ、しかし
寝る前、佐伯はスマートフォンを手に取った。
公式サイトを開く。
新製品情報。
更新なし。
いつもと同じ画面だった。
佐伯はため息をついた。
だが、落胆はしなかった。
少なくとも、以前ほどは。
待つことには慣れた。
期待することにも、肩透かしを食らうことにも。
そして、翌日になればまた確認するのだろう。
朝、昼、夜。
忙しい日は昼だけかもしれない。
いや、会議が長引けば、トイレで確認する可能性もある。
それは社会人としてどうなのか。
佐伯はその問題を、今夜は深く考えないことにした。
掲示板には、同志から最後の書き込みが届いていた。
名無しさん:明日も待とうぜ。
佐伯は短く返信した。
佐伯:もちろん。
それから、スマートフォンを充電器につないだ。
五十三歳。
会社員。
夫。
父親。
そして、東京マルイのガスブローバック、ブローニング・ハイパワーを待つ男。
佐伯修一は、布団に入った。
目を閉じる直前、彼は小さくつぶやいた。
「……まだだ」
翌朝も、目覚ましが鳴る前に目を覚ますことになるとは、このときの彼はまだ知らなかった。




