第八章 息子は何も言わない
佐伯修一には、息子がいる。
名前は健太という。
二十四歳。大学を卒業して働き始めたばかりで、現在は一人暮らしをしている。
健太は、父親を嫌っているわけではない。
むしろ、尊敬している部分もある。
仕事を真面目に続け、家族を養い、住宅ローンを払い、五十二歳になった今も毎朝きちんと出勤する。
世間一般で言えば、立派な父親である。
ただし、ひとつだけ問題があった。
父親には、何十年も同じ話をする習性がある。
ブローニング・ハイパワー。
東京マルイ。
ガスブローバック。
健太は、この三つの言葉を幼いころから聞かされてきた。
誕生日の食卓でも。
正月の実家でも。
家族旅行の車内でも。
そして、テレビでエアガンの話題が出たときでも。
父親は、必ず話を始めた。
「東京マルイがな……」
その瞬間、健太は学習した。
ここから先は長い。
⸻
日曜日の午後、健太は久しぶりに実家へ帰ってきた。
玄関を開けると、父親がパソコンの前に座っていた。
「おう、帰ったか」
「ただいま」
「飯は?」
「まだ」
「じゃあ、何か食べるか」
「うん」
ごく普通の親子の会話だった。
健太がリビングに入ると、母親が台所から顔を出した。
「あら、健太。久しぶりね」
「うん。元気?」
「元気よ。お父さんは相変わらずだけど」
健太は父親を見た。
佐伯はパソコンの画面を見つめていた。
「父さん、何してるの?」
「調べものだ」
「何の?」
「……趣味のことだ」
健太は画面をちらりと見た。
東京マルイの公式サイトだった。
新製品情報。
更新なし。
健太は何も言わなかった。
もう驚く年齢ではなかった。
⸻
昼食のあと、佐伯は息子に尋ねた。
「仕事はどうだ?」
「まあ、普通だよ」
「普通が一番だ。若いうちは、いろいろ経験しておけ」
「うん」
「自分が本当に好きなものも、大事にしろよ」
健太は少し笑った。
「父さんは、ずっと同じものが好きだよね」
佐伯は胸を張った。
「好きなものが変わらないのは、悪いことじゃない」
「そうだね」
「世の中には、流行に流されて、次から次へと新しいものを欲しがる人間もいる。でもな、本当に欲しいものが何なのか、わかっている人間は強いんだ」
健太はうなずいた。
「うん」
佐伯は、少し誇らしげな顔をした。
自分の趣味が、息子に何かを伝えている。
そう思うと、悪い気はしなかった。
ただし、健太が何を考えているかまでは、わからなかった。
⸻
夕方、健太が帰る時間になった。
玄関で靴を履きながら、彼は言った。
「父さん」
「何だ?」
「ひとつ聞いていい?」
「何でも聞け」
健太は少し考えた。
「もし、ずっと欲しかったものが手に入ったら、どうする?」
佐伯は即答した。
「買う」
「いや、そうじゃなくて」
「買う以外に何がある?」
「……そうだよね」
健太は笑った。
佐伯は腕を組んだ。
「ただし、家計との相談は必要だ。大人だからな」
「うん」
「それと、製品の仕様も重要だ。価格だけで判断するのは早い」
「わかった」
「本当に欲しいものなら、待つことも必要だ」
健太は、今度は少し真剣な顔でうなずいた。
「……そうだね」
「何だ、急に」
「いや、何でもない」
健太は玄関を出た。
「じゃあ、また来るよ」
「おう。気をつけてな」
ドアが閉まった。
佐伯は、しばらく玄関を見ていた。
息子も大人になった。
いつの間にか、自分の知らないところで、自分の人生を歩いている。
当たり前のことだった。
佐伯は少しだけ寂しくなった。
しかし、その感情は長く続かなかった。
パソコンの前に戻ると、東京マルイの公式サイトを開いた。
新製品情報。
更新なし。
「……まだだ」
いつもの言葉だった。
⸻
その夜。
健太は自宅の机に座っていた。
ノートパソコンを開き、ホームページを眺めている。
画面には、いくつかの会社名が並んでいた。
健太は、しばらくその文字を見つめていた。
父親の声が、頭の中によみがえる。
東京マルイがな。
ガスブローバックでな。
ブローニング・ハイパワーがな。
健太は苦笑した。
「……本当に好きだよな」
特別な理由があったわけではない。
少なくとも、本人はそう考えていた。
ふと、机の端に置かれた古い写真に目が留まった。
幼いころ、父親に連れられて出かけた日の写真だった。
健太はしばらくそれを眺め、やがて画面に視線を戻した。
もう一度読む。
それから、ブラウザのタブを閉じた。
部屋は静かだった。
自分自身の将来もある。
自分の興味もある。
健太は椅子の背にもたれた。
「……さて」
小さく息を吐いた。
まだ何も決まっていない。
健太はパソコンを閉じた。
その夜、父親からメッセージが届いた。
『東京マルイの新製品情報、今日も更新なし』
健太は画面を見つめた。
そして返信した。
『そうなんだ』
しばらくして、父親からもう一通届いた。
『まだだ』
健太は笑った。
『うん。まだだね』
彼はスマートフォンを机に置いた。
まだ、何も知らない。
そして佐伯修一は、その夜もいつものようにパソコンの前に座っていた。
新製品情報。
更新なし。
「まだだ」
彼は満足そうにうなずいた。




