第七章 その日に限って
佐伯修一は、月曜日が嫌いだった。
正確に言えば、月曜日そのものが嫌いなのではない。
週末に蓄えた気力を、会社という組織に再び差し出さなければならないことが嫌だった。
もっとも、五十二歳にもなれば、月曜日が嫌いだからといって会社を休むわけにもいかない。
住宅ローンがある。
家族がいる。
部下もいる。
それに、東京マルイのガスブローバック、ブローニング・ハイパワーが発表された場合、購入資金も必要になる。
佐伯はネクタイを締めながら、そう自分に言い聞かせた。
仕事を頑張る理由が、またひとつ増えた。
もっとも、その理由を会社に説明するつもりはなかった。
⸻
午前九時。
佐伯は会社のパソコンを立ち上げた。
メールを確認し、予定表を開き、部下からの報告を読み、上司からの連絡に返信する。
そして、東京マルイの公式サイトを開いた。
新製品情報。
更新なし。
「よし」
彼はうなずいた。
何が「よし」なのかは、本人にも説明できなかった。
そのとき、上司の鈴木部長がやってきた。
「佐伯君、ちょっといいか」
「はい」
「今日の十時から、急きょ役員会議に出てもらうことになった」
佐伯の顔が曇った。
「役員会議ですか?」
「そう。来期の事業計画について説明してほしい」
「資料は準備してあります」
「頼むよ。重要な会議だからね」
部長はそう言って去っていった。
佐伯は時計を見た。
午前九時十二分。
十時から役員会議。
終了時刻は不明。
いつもなら、会議が一時間延びようが二時間延びようが、たいして気にしなかった。
だが、今日は違った。
もしも。
もしも、会議の最中に東京マルイが新製品を発表したら。
佐伯は首を振った。
馬鹿馬鹿しい。
そんな偶然が起こるわけがない。
そもそも、今日発表されるという情報はない。
発表予定すらない。
佐伯は資料を開いた。
「仕事に集中だ」
そうつぶやき、真剣な顔で数字を確認した。
三分後、彼はもう一度、東京マルイの公式サイトを開いていた。
更新なし。
「……よし」
今度は、少しだけ声が小さかった。
⸻
午前十時。
役員会議が始まった。
会議室には、社長、役員、各部門の責任者が並んでいた。
佐伯は資料を配り、説明を始めた。
「それでは、来期の事業計画についてご説明いたします」
落ち着いた声だった。
数字にも誤りはない。
説明も明快だった。
さすがは五十二歳の中間管理職である。
長年の経験は伊達ではない。
「以上が、来期の計画となります」
社長がうなずいた。
「よくまとまっていますね」
「ありがとうございます」
佐伯は頭を下げた。
その瞬間だった。
会議室の外から、誰かのスマートフォンの通知音が聞こえた。
ピロン。
佐伯の背筋が伸びた。
もちろん、ただの通知音である。
メールかもしれない。
天気予報かもしれない。
通販の広告かもしれない。
東京マルイとは何の関係もない可能性が、圧倒的に高い。
それでも佐伯の脳は、一瞬で反応していた。
――新製品情報。
いや、違う。
――公式サイト。
いや、落ち着け。
――ハイパワー。
佐伯は表情を変えなかった。
変えなかったつもりだった。
「佐伯君?」
社長が声をかけた。
「はい!」
返事が大きすぎた。
会議室の全員が、彼を見た。
「何か、補足がありますか?」
「いえ、ありません」
「そうですか。では、次の議題に移りましょう」
佐伯は静かにうなずいた。
危なかった。
危うく、自分の人生の別の議題を提出するところだった。
⸻
午前十一時二十分。
会議はまだ続いていた。
佐伯のスマートフォンは、鞄の中にある。
当然、会議中に取り出すわけにはいかない。
社会人として当然のことである。
彼は腕時計を見た。
あと少し。
いや、会議がいつ終わるかはわからない。
社長が追加の質問を始めた。
役員が意見を述べた。
部長が資料の数字について説明した。
そして、社長が言った。
「では、この点について、もう少し詳しく検討しましょう」
佐伯は心の中で叫んだ。
――もう少しとは、何分ですか。
もちろん、口には出さなかった。
五十二歳である。
そこまで分別を失ってはいない。
彼は資料をめくり、質問に答え、必要な数字を説明した。
仕事は完璧だった。
ただし、心のどこかで、ずっと別のことを考えていた。
⸻
午後零時十五分。
ようやく会議が終わった。
「佐伯君、ご苦労さま」
部長が言った。
「ありがとうございました」
佐伯は会釈した。
そして、廊下に出た瞬間、鞄からスマートフォンを取り出した。
東京マルイの公式サイト。
新製品情報。
更新なし。
佐伯は画面を見つめた。
しばらくして、深く息を吐いた。
「……よかった」
よかった、とは何だろう。
発表がなかったことか。
それとも、会議中に発表を見逃さずに済んだことか。
いや、発表はなかった。
見逃すも何もない。
佐伯はスマートフォンをしまった。
昼食を買いに行こうと歩き出したところで、部下の田中と出会った。
「課長、お疲れさまです。役員会議、どうでした?」
「問題なく終わったよ」
「よかったですね。さっき、すごく真剣な顔をされていたので」
「会議だからな」
「途中で何か気になることでもあったんですか?」
佐伯は一瞬、考えた。
そして、きっぱりと言った。
「ない」
田中はうなずいた。
「そうですか」
佐伯は歩き出した。
背後から田中の声がした。
「課長、スマホ、ずっと握ってますよ」
佐伯は立ち止まった。
右手を見た。
スマートフォンがあった。
「……これは、連絡用だ」
「はい」
「仕事に必要なものだ」
「はい」
「以上だ」
佐伯は歩き出した。
田中は何も言わなかった。
ただ、その背中を見送りながら、少しだけ不思議そうな顔をしていた。
⸻
その夜。
佐伯は掲示板に書き込んだ。
〈佐伯五十二歳〉
本日、重要な会議がありました。無事に終わりました。
〈名無しさん〉
お疲れさまです。
〈名無しさん〉
ハイパワーの発表は?
佐伯は画面を見つめた。
そして、返信した。
〈佐伯五十二歳〉
ありませんでした。
〈名無しさん〉
でしょうね。
〈名無しさん〉
会議中に発表されたらどうするつもりだったんですか?
佐伯は少し考えた。
〈佐伯五十二歳〉
仕事を優先します。
送信。
数秒後、別の書き込みがあった。
〈名無しさん〉
本当ですか?
佐伯は答えなかった。
その代わり、公式サイトを開いた。
新製品情報。
更新なし。
彼は画面に向かって、静かにつぶやいた。
「まだだ」
そして、いつものようにブラウザを閉じようとした。
そのとき、ふと気づいた。
明日は、午前中に重要な社内会議が入っている。
佐伯は予定表を開いた。
会議の開始時刻を確認した。
午前九時。
終了予定、午前十一時。
彼はしばらく画面を見つめていた。
そして、静かに予定表を閉じた。
「……昼休みがある」
自分に言い聞かせるように言った。
「昼休みがあるから、大丈夫だ」
その声には、根拠のない自信が満ちていた。
五十二歳。
中間管理職。
社会人としての責任を果たしながら、夢を追い続ける男。
佐伯修一は、明日も出勤する。
そして、昼休みには東京マルイの公式サイトを確認する。
新製品情報が更新されていないことを、願いながら。
いや。
更新されていることを、願いながら。




