第六章 その日が来たら
佐伯修一は、あることに気づいた。
もしも。
もしも、ある朝。
東京マルイの公式サイトに、突然、ブローニング・ハイパワーの文字が現れたら。
自分はどうするのだろう。
五十二歳の会社員として、まず冷静に情報を確認するだろうか。
製品名、発売日、価格、仕様。
それらを順番に確認し、必要ならば家計と相談する。
……いや、無理だ。
佐伯は考えるのをやめた。
そんな自分を想像するだけで、胸が落ち着かなくなった。
そこで彼は、もっと重要な問題に取り組むことにした。
その日が来たら、誰に最初に知らせるべきか。
家族か。
いや、妻にはいずれ話すことになる。
職場の同僚か。
いや、そもそもハイパワーの話をしても理解されない可能性が高い。
学生時代からの友人、山本か。
あいつは「もう出てるんじゃないの?」などと言った男だ。
報告する価値があるのか。
佐伯は首を振った。
違う。
最初に知らせるべき相手は、すでに決まっていた。
掲示板の同志たちである。
⸻
その夜、佐伯は例の掲示板を開いた。
『東京マルイからガスブロのハイパワーが出るまで待つスレ』
いつものメンバーが、いつものように書き込んでいた。
〈名無しさん〉
今日も発表なし。
〈名無しさん〉
平常運転。
〈名無しさん〉
いつか来る。たぶん。
佐伯は、その最後の一行を見てうなずいた。
そうだ。
いつか来る。
少なくとも、来てほしい。
彼は新しい書き込みを始めた。
〈佐伯五十二歳〉
皆さん、ひとつ相談があります。
仮に、東京マルイからハイパワーのガスブロが発表された場合、皆さんは最初に誰に知らせますか?
投稿してから、佐伯は満足した。
これは重要な議題だ。
価格や仕様も重要だが、発売発表の瞬間を誰と共有するかも、同じくらい重要ではないか。
数分後、返信がついた。
〈名無しさん〉
妻。
〈名無しさん〉
子供。
〈名無しさん〉
友達。
〈名無しさん〉
職場の同僚。たぶん理解されないけど。
〈名無しさん〉
俺は誰にも知らせない。ひとりで静かに泣く。
佐伯は最後の書き込みで、しばらく指を止めた。
ひとりで静かに泣く。
それも悪くない。
何十年も待ち続けたものが、ついに現実になる。
その瞬間、誰にも邪魔されたくないという気持ちもわかる。
しかし、佐伯には別の考えがあった。
この喜びは、共有するべきではないか。
同じ夢を持ち、同じように待ってきた人々と。
彼は返信した。
〈佐伯五十二歳〉
私は、まずこのスレッドに報告します。
送信。
すぐに返信が来た。
〈名無しさん〉
佐伯さん、まだ発表されてませんよ。
佐伯は画面を見つめた。
「……わかってるよ」
誰も聞いていなかった。
⸻
翌朝。
佐伯は出勤すると、パソコンを立ち上げた。
メールを確認する。
会議の予定を確認する。
部下からの報告を確認する。
そして、東京マルイの公式サイトを確認する。
新製品情報。
更新なし。
「よし」
佐伯は小さくうなずいた。
何が「よし」なのか、自分でもよくわからなかった。
そのとき、部下の田中が書類を持ってきた。
「佐伯課長、先週の資料なんですが、確認をお願いします」
「ああ、そこに置いておいてくれ」
「今日中に必要なんですけど」
「わかってる」
佐伯は書類を受け取った。
田中が立ち去ったあと、彼はふと考えた。
もしも今日、東京マルイから発表があったら。
自分は仕事を続けられるだろうか。
いや、続けなければならない。
五十二歳。
家庭がある。
住宅ローンもある。
社会人としての責任がある。
佐伯は自分に言い聞かせた。
「どんなことがあっても、仕事は仕事だ」
そう決意して、資料を開いた。
三分後。
彼は、東京マルイの公式サイトをもう一度開いていた。
更新なし。
「……まだだ」
⸻
昼休み。
佐伯は掲示板を確認した。
新しい書き込みがあった。
〈名無しさん〉
発表があった瞬間、仕事中だったらどうする?
佐伯は画面を見つめた。
これは難問だ。
仕事中に発表された場合、まず情報を確認する。
しかし、すぐに確認しなければ、価格や発売日を見逃すかもしれない。
いや、公式サイトなのだから、昼休みに見ればいい。
それで十分だ。
本当に十分か。
佐伯は考えた。
仮に発表が午前十時だったとする。
自分がそれを知るのは正午。
二時間の遅れ。
その二時間のあいだに、世の中では何が起きるだろう。
いや、製品発表なのだから、二時間で何かが変わるわけではない。
だが、気持ちの問題だ。
佐伯は返信した。
〈佐伯五十二歳〉
仕事中なら、まずは仕事を優先します。ただし、昼休みには確認します。
送信した。
立派な社会人の回答だった。
その直後、彼は書き足した。
〈佐伯五十二歳〉
なお、発表当日は有給休暇を取得する可能性があります。
送信。
自分でも、何を書いているのかよくわからなかった。
〈名無しさん〉
佐伯さん、まだ何も発表されてません。
〈名無しさん〉
有給の申請先にまず相談してください。
〈名無しさん〉
奥さんにもね。
佐伯は、最後の一行を読み飛ばした。
⸻
その夜、夕食のあと。
妻が洗い物をしていると、佐伯が話しかけてきた。
「なあ」
「何?」
「仮に、だよ」
妻の手が止まった。
「また仮に?」
「いや、今回は大事な話なんだ」
「毎回そう言うわね」
佐伯は咳払いをした。
「もし、ずっと待っていたものが突然手に入ることになったら、どうする?」
妻は少し考えた。
「買うんじゃないの?」
「いや、そうなんだけど」
「お金があるなら買えばいいし、ないなら貯めればいいじゃない」
「……」
あまりにも簡潔だった。
佐伯が掲示板で何時間も議論してきた問題が、わずか十秒で片づいた。
「それで、何が聞きたいの?」
「いや……その日が来たら、まず誰に知らせるべきかと思って」
妻は振り返った。
「誰に?」
「……」
佐伯は答えられなかった。
妻は笑った。
「そんなの、好きにすればいいじゃない」
そう言って、また洗い物を始めた。
佐伯は黙って部屋に戻った。
パソコンを開く。
掲示板を開く。
公式サイトを開く。
新製品情報。
更新なし。
彼は椅子に座り、画面を見つめた。
その日が来たら。
まず、掲示板の同志たちに知らせる。
それから、妻に話す。
いや、妻には最初に話したほうがいいのかもしれない。
いや、しかし。
佐伯は考えるのをやめた。
まだ発表されていないのだ。
今から悩む必要はない。
彼は深く息を吸った。
「まだだ」
それから、少しだけ笑った。
「でも、その日は来る」
パソコンの画面には、何も表示されていなかった。
佐伯は、明日も確認するつもりだった。
そして、明後日も。
その日が来たら、誰よりも早く同志たちに知らせるために。




