第十章 予約開始の夢
佐伯修一、五十四歳。
東京マルイのガスブローバック、ブローニング・ハイパワー。
彼は今日も待っていた。
待つことに関して、佐伯はすでに熟練の域に達していた。
朝、公式サイトを確認する。
昼休み、公式サイトを確認する。
帰宅後、公式サイトを確認する。
寝る前、公式サイトを確認する。
この一連の動作は、歯磨きや入浴と同じように、生活の一部になっていた。
違いがあるとすれば、歯磨きは虫歯を防ぎ、入浴は体を清潔にするが、公式サイトの確認は何の健康効果も保証しないことくらいだった。
「……まあ、心の健康にはいい」
佐伯はそう結論づけた。
誰に説明する必要もない。
1 予約開始、午前十時
その日、佐伯は夢を見た。
東京マルイの公式サイトに、新製品情報が掲載されている。
そこには、見慣れた文字が並んでいた。
ブローニング・ハイパワー ガスブローバック
佐伯は息をのんだ。
製品写真。
スペック表。
価格。
発売予定日。
そして、予約開始日時。
午前十時。
「十時か……」
夢の中の佐伯は、冷静だった。
社会人として、当然のことだ。
予約開始が午前十時なら、九時五十分にはパソコンの前に座る。回線を確認し、ログインが必要なら事前に済ませる。クレジットカードも手元に置く。
完璧な計画だった。
ところが、画面の隅に時計が表示された。
午前九時五十九分。
佐伯は息を止めた。
五十八秒。
五十九秒。
午前十時。
クリック。
画面が切り替わった。
予約受付終了。
「早すぎるだろォォォッ!」
佐伯は叫んだ。
そこで目が覚めた。
隣で妻が寝返りを打った。
「……うるさい」
「すまん」
佐伯は布団の中で正座した。
夢だった。
まだ発売されていない。
予約も始まっていない。
そもそも、予約開始日時など発表されていない。
彼は額を押さえた。
「……予行演習だ」
誰も頼んでいない予行演習だった。
2 予約戦争への備え
その日の昼休み、佐伯は掲示板に書き込んだ。
佐伯:もしハイパワーの予約が始まったら、仕事中でも対応できるように準備しておくべきだろうか。
すぐに返信がついた。
名無しさん:仕事をしろ。
佐伯は無視した。
名無しさん:予約開始日に有給を取る。
名無しさん:まだ発売発表すらないぞ。
名無しさん:だからこそ、今から有給の理由を考えておくんだ。
佐伯はうなずいた。
なるほど。
理由は重要だ。
「私用のため」では少し弱い気がする。
しかし、正直に「長年待ち望んでいたエアソフトガンの予約に備えるため」と書くわけにもいかない。
いや、書いてはいけないという規則はないかもしれない。
ただ、上司がどういう顔をするかは想像できた。
佐伯はスマートフォンのメモ帳を開いた。
『有給休暇取得理由・候補』
一、私用。
二、家庭の事情。
三、重要な予定。
四、人生における重大な節目。
「四は違うな……」
五十四歳の男は、真剣な顔でメモを削除した。
そのとき、田中が後ろを通りかかった。
「佐伯さん、何を消したんですか?」
「いや、人生設計だ」
「……そうですか」
田中は、もう聞き返さなかった。
3 予備マガジン問題
帰宅すると、妻が郵便物を仕分けていた。
「あなた宛ての郵便、ここに置いておくわね」
「ありがとう」
佐伯は郵便物を受け取りながら、ふと思った。
本体が発売された場合、予備マガジンは何本必要だろう。
一本で十分なのか。
いや、遊ぶ頻度によっては複数本あったほうが便利かもしれない。
しかし、最初から買いすぎるのも考えものだ。
本体価格が仮に四万円なら、マガジンや周辺用品を合わせて五万円を超える可能性もある。
もちろん、価格はまだ発表されていない。
製品そのものが存在するかどうかも、公式には何も分からない。
佐伯は電卓を取り出した。
「本体が四万円として……」
「あなた」
「はい」
「何を計算してるの?」
「予算だ」
「何の?」
「……未来の」
妻は電卓を見た。
画面には、五万二千八百円と表示されていた。
「未来って、ずいぶん具体的なのね」
「計画性が大切だからな」
「その計画、いつ実行するの?」
「発売されたらだ」
「発売されなかったら?」
佐伯は黙った。
妻は微笑んだ。
「じゃあ、そのお金は貯金しておきましょうね」
「……それも悪くないな」
佐伯は電卓を片づけた。
妻の言うことは、いつも正しい。
正しいのだが、どうも夢がない。
いや、夢はある。
ただし、家計簿の中にある夢だった。
4 同志の決意
その夜、掲示板では新たな議論が始まっていた。
名無しさん:もし発売されたら、最初に何をする?
名無しさん:箱を開ける。
名無しさん:ガスを入れる。
名無しさん:説明書を読む。
名無しさん:まず説明書を読め。
名無しさん:いや、箱を開けた瞬間に泣く可能性がある。
佐伯は笑いながら書き込んだ。
佐伯:俺はまず、箱を開ける前に深呼吸すると思う。
返信がついた。
名無しさん:五十代の深呼吸。
名無しさん:健康第一。
名無しさん:興奮して血圧上がるなよ。
佐伯は苦笑した。
健康診断の結果が頭をよぎった。
最近、医師からは適度な運動を勧められている。
妻からは夜更かしを注意されている。
そして、掲示板の同志たちからは血圧を心配されている。
自分は一体、何を待つ集団に所属しているのだろう。
佐伯は考えた。
答えは簡単だった。
ハイパワーを待つ集団だ。
それ以外の説明は不要である。
5 夢の続き
寝る前、佐伯は公式サイトを開いた。
新製品情報。
更新なし。
彼は画面を見つめた。
かつては、更新がないたびに落胆していた。
最近は少し違う。
更新がないことを確認しても、以前ほど気持ちは揺れなくなった。
待つことに慣れたのかもしれない。
それとも、待つこと自体が日常になってしまったのか。
佐伯はスマートフォンを置いた。
「……まあ、いいか」
明日も仕事がある。
住宅ローンもある。
健康診断の再検査も忘れてはいけない。
そして、東京マルイの新製品情報を確認するという、極めて重要な日課もある。
佐伯は布団に入った。
目を閉じる。
今夜こそ、予約開始の夢は見たくない。
予約が殺到して買えない夢も困る。
発売発表が延期される夢など、考えたくもない。
できれば、何も起こらない夢がいい。
そう思った瞬間、彼の頭の中に、あの黒い箱が浮かんだ。
佐伯は目を開けた。
「……まだだ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
ただ、その言葉を口にすると、妙に落ち着いた。
彼はスマートフォンを充電器につないだ。
明日の朝も、確認する。
何度でも確認する。
そして、いつか本当に予約開始の知らせが届いたなら。
そのときこそ、長年の準備が役に立つはずだった。
もちろん、予約開始がいつになるのかは、誰にも分からない。
佐伯修一、五十四歳。
今日もまた、存在しない予約開始日に備えて眠りについた。




