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第四章 いくらまでなら買うか

月曜日の朝、佐伯修一は通勤電車の中で、ひとつの重大な問題に直面していた。


東京マルイのガスブローバック、ブローニング・ハイパワー。


まだ発売されていない。


発売予定も発表されていない。


そもそも東京マルイが開発しているという情報すらない。


それなのに、佐伯には悩みがあった。


いったいいくらまでなら買うべきなのか。


いや、買うべきなのかではない。


いくらまでなら、買えるのか。


五十二歳にもなれば、住宅ローンもある。食費もある。光熱費もある。年に一度の健康診断では、医者から「もう少し運動してください」と言われる。


そして妻は、先月から電気代の値上がりを気にしている。


そんな家庭に、突然ガスブロのハイパワーがやって来たらどうなるか。


佐伯は考えた。


いや、正確には、やって来る予定すらないハイパワーのために、すでに家計のシミュレーションを始めていた。


スマートフォンを開き、電卓アプリを起動する。


本体価格、二万円。


いや、最近の製品価格を考えれば、三万円でもおかしくない。


三万五千円。


四万円。


佐伯の指が止まった。


四万円。


四万円あれば、家族で少し良い食事ができる。妻が前から欲しがっていたバッグの足しにもなる。


だが、ハイパワーはどうだ。


何十年も待ち続けた銃である。


食事は食べれば終わる。バッグは使えば傷む。しかしハイパワーは、そこにあるだけで幸福をもたらす。


少なくとも佐伯は、そう信じていた。


「……四万円までだな」


彼は小さくつぶやいた。


その直後、電卓に表示された数字を見て、もう一度つぶやいた。


「いや、五万円までなら……」


通勤電車の窓に、五十二歳の男の顔が映っていた。


その顔は、住宅ローンを抱えた中間管理職の顔というより、国家予算を編成する財務官僚の顔に近かった。


⸻


昼休み。


佐伯は、例の掲示板を開いた。


スレッドのタイトルは、相変わらずだった。


『東京マルイからガスブロのハイパワーが出るまで待つスレ』


新しい書き込みが増えていた。


〈名無しさん〉

仮に出たとして、いくらまでなら買う?


〈名無しさん〉

三万円台なら即買い。


〈名無しさん〉

四万円でも買う。待った年月を考えたら安い。


〈名無しさん〉

五万円でも買う。ただし嫁には三万円と言う。


佐伯は思わず吹き出した。


危険な発言だった。


家庭内の価格交渉において、虚偽申告は重大なリスクを伴う。


佐伯は返信した。


〈佐伯五十二歳〉

私は四万円までを想定しています。ただし、実際に発売された場合は仕様によります。マガジンの価格も重要です。


送信してから、少し考えた。


仕様。


そうだ。価格だけではない。


金属パーツの質感はどうか。スライドの動きはどうか。グリップの形状はどうか。実銃の雰囲気をどこまで再現しているか。


そして何より、東京マルイのガスブローバックとして、撃って楽しいものになっているか。


佐伯は、まだ存在しない製品について、すでに購入者レビューの評価基準を作り始めていた。


〈名無しさん〉

佐伯さん、まだ出てませんよ。


佐伯は画面を見つめた。


「……知ってるよ」


誰も聞いていないのに、彼は答えた。


⸻


その夜、佐伯家の食卓では、カレーライスが出された。


妻は福神漬けを添えながら言った。


「そういえば、今月は何か買う予定あるの?」


佐伯のスプーンが止まった。


これは尋問ではない。


世間話だ。


普通の人間なら、何も考えずに「特にないよ」と答えるところだろう。


しかし佐伯は、普通の人間ではなかった。


「……いや、今のところは」


「その間は何?」


「間なんかないよ」


「あるわよ」


妻はカレーを食べた。


佐伯は慎重に言葉を選んだ。


「仮に、だよ」


「うん」


「仮に、ずっと欲しかったものが発売されたとする」


「車?」


「いや、もっと小さいもの」


「時計?」


「いや、もっと……」


妻はスプーンを置いた。


「ガスガン?」


佐伯は黙った。


結婚二十数年。


妻の洞察力は、もはや捜査機関の域に達していた。


「東京マルイのハイパワー?」


「……まだ何も発表されていない」


「質問に答えてないわよ」


佐伯は咳払いをした。


「仮に発売されたら、購入を検討する可能性はある」


「いくら?」


来た。


ついに来た。


佐伯は心の中で姿勢を正した。


「仕様にもよるけど、四万円くらいなら……」


妻は何も言わなかった。


「いや、もちろん、家計に負担がかからない範囲で」


まだ何も言っていない妻に対し、佐伯は勝手に答弁を続けた。


「必要なら、昼食代を少し節約するとか、ほかの趣味の出費を抑えるとか」


「あなた、ほかに何の趣味があるの?」


「……」


佐伯は考えた。


ない。


いや、正確にはある。


ハイパワーの発売を待つこと。


しかし、それを趣味として申告すると、家庭内予算委員会の議事録に不利な記録が残りそうだった。


「まあ、いいわ」


妻は立ち上がった。


「本当に発売されたら、そのときに考えましょう」


佐伯は目を見開いた。


「そのときに?」


「そうよ。まだ出てもいないんでしょう?」


正論だった。


完璧な正論だった。


佐伯は反論できなかった。


妻は食器を流しに運んだ。


その背中を見ながら、佐伯は思った。


――そのときに考える。


それは、かつて自分が妻に言った言葉ではなかったか。


人間は、いつか自分の言葉に追いつかれる。


そして佐伯修一は、ついに家庭内で自分自身の発言に敗北した。


⸻


翌朝。


佐伯は掲示板を開いた。


スレッドでは、価格論争がさらに激化していた。


〈名無しさん〉

本体四万円、予備マガジン二本で一万円。合計五万円か。


〈名無しさん〉

ガス代も忘れるな。


〈名無しさん〉

交通費もある。ショップに買いに行くなら電車賃だ。


〈名無しさん〉

買ったあとにケースが欲しくなる。


〈名無しさん〉

お前ら、まだ存在しない銃で破産する気か。


佐伯は最後の書き込みを見て、しばらく黙っていた。


破産。


その二文字は、五十二歳の男にとって軽い言葉ではない。


住宅ローン。


老後資金。


健康診断。


そして、存在しないハイパワー。


佐伯はゆっくりと返信欄を開いた。


〈佐伯五十二歳〉

皆さん、冷静になりましょう。まずは発売発表を待つべきです。


送信した。


そして三秒後、別の書き込みをした。


〈佐伯五十二歳〉

ちなみに、皆さんはブラックとシルバーのどちらが欲しいですか?


送信。


佐伯は満足そうにうなずいた。


冷静さを取り戻したように見えて、何ひとつ取り戻していなかった。


その日の午後、彼は会社のパソコンで予算表を作成した。


本来なら、来期の部門経費をまとめるための表だった。


ところが、画面の右端には、いつの間にか別の項目ができていた。


「ハイパワー購入想定予算」


佐伯は慌てて消した。


誰にも見られていない。


大丈夫だ。


彼は保存ボタンを押した。


ファイル名は、


『来期予算案_最終版_本当の最終版.xlsx』


だった。


五十二歳。


中間管理職。


住宅ローンあり。


健康診断の再検査あり。


そして、発売予定のないガスブロのために、家計の予算を考える男。


その夜、佐伯は東京マルイの公式サイトを開いた。


新製品情報。


更新なし。


彼は画面を見つめた。


「……まあ、急がなくていい」


自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


「こっちは、予算を組む時間がある」


そして、いつもの言葉を口にした。


「まだだ」


その言葉には、昨日よりも少しだけ、財務的な重みが加わっていた。

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