第三章 同志よ、どこにいる
佐伯修一は、インターネットを信用していなかった。
正確に言えば、信用している情報と、信用していない情報があった。
天気予報は参考にする。ニュースは複数の媒体を読む。健康に関する情報は、なるべく医療機関の発信を確認する。
そして、東京マルイの新製品に関する情報は、公式発表があるまで信じない。
これだけは徹底していた。
なぜなら、彼は過去に何度も期待し、何度も落胆してきたからである。
「次こそ来る」
「いや、今度こそ来る」
「このタイミングで出さなかったら、いつ出すんだ」
そうした言葉を、彼は人生で何度口にしただろう。
数えるのはやめた。
数えたところで、ハイパワーが発売されるわけではない。
そんなある夜、修一は検索エンジンに、ある言葉を入力した。
東京マルイ ブローニング・ハイパワー 発売予定。
検索結果は、いつもと大差なかった。
公式情報はない。
確かな発売予定もない。
希望的観測と、過去の議論と、同じ話題を何度も繰り返す掲示板が並んでいる。
修一は画面を眺めた。
そのとき、一つの投稿が目に入った。
『東京マルイからガスブロのハイパワーが出るまで待つスレ』
修一の指が止まった。
スレッドの最終更新は、三日前だった。
彼は椅子に座り直した。
「……同志か」
その言葉は、思ったより自然に口から出た。
*
スレッドを開くと、最初の投稿にはこう書かれていた。
『いつか出ると信じて待っています。もう何年になるのか分かりません』
修一は、深くうなずいた。
分かる。
よく分かる。
次の投稿。
『新製品発表のたびに期待して、違う製品だと分かるたびに静かにブラウザを閉じています』
修一は、スマートフォンを胸に当てた。
分かる。
痛いほど分かる。
さらに次の投稿。
『妻に、そんなもの一生出ないと言われました』
修一は、思わず笑った。
どこの家庭も同じなのか。
それとも、妻という生き物には、夫の趣味がいつまでも実現しないことを見抜く特殊能力でも備わっているのか。
彼は返信欄を開いた。
何を書こうか。
「私も同じです」
ありきたりだ。
「長年待っています」
それもありきたりだ。
「東京マルイの製品開発には、さまざまな事情があるでしょう。私たちは公式発表を尊重し、静かに待ちましょう」
……誰だ、お前は。
修一は文章を消した。
そして、こう書き込んだ。
『私も待っています。五十二歳です。いつか出ると信じています』
送信。
たった三行だった。
しかし、投稿ボタンを押したあと、修一は妙な達成感を覚えた。
自分以外にも、同じ夢を抱えている人間がいる。
それだけで、少しだけ心強かった。
五分後、返信がついた。
『五十二歳なら、まだ若いですよ』
修一は画面を見つめた。
まだ若い。
五十二歳の自分に向けられた言葉としては、久しぶりに聞いた気がした。
会社では、若手に「昔はよかった」と言うと煙たがられる。
健康診断では、年齢相応の注意事項が増える。
妻からは、最近、老眼鏡の置き場所について注意されるようになった。
しかし、インターネットの向こう側には、彼を若いと言ってくれる人がいた。
修一は、もう一度返信を書いた。
『ありがとうございます。まだまだ待ちます』
送信。
その夜、彼はいつもより少しだけ気分よく眠った。
*
翌日。
修一が会社に着くと、部下の田中が声をかけてきた。
「課長、昨日、何かいいことありました?」
「なぜだ」
「機嫌がいいので」
「そうか?」
「はい。いつもより穏やかです」
修一は考えた。
インターネットの掲示板で、同じ夢を抱える人間と出会った。
たったそれだけのことだ。
だが、説明するのは難しい。
会社の部下に向かって、「東京マルイのハイパワーを待っている同志が見つかった」と報告したところで、相手がどう反応するかは分かりきっている。
修一は、こう答えた。
「昨日、少し有意義な交流があってな」
「へえ。仕事関係ですか?」
「いや、個人的なことだ」
「そうですか。よかったですね」
田中は、それ以上聞かなかった。
修一は、田中の背中を見送った。
若者というのは、案外、他人の趣味に寛容なのかもしれない。
あるいは、単に興味がないだけかもしれない。
どちらでもよかった。
修一はパソコンを起動した。
メールを確認した。
会議資料を開いた。
そして、ブラウザの別タブで掲示板を開いた。
新しい返信が三件ついていた。
彼は思わず身を乗り出した。
『私も五十代です。待っています』
『自分は四十代ですが、ハイパワーが出るまでは死ねません』
『二十代です。皆さんのような先輩方の執念を見習いたいです』
修一は、画面を見つめた。
四十代。
五十代。
二十代。
世代を超えた連帯。
銃器の趣味が、こんな形で人間を結びつけるとは思わなかった。
彼は返信欄を開いた。
『皆さん、頑張りましょう』
送信。
その瞬間、上司が背後から声をかけた。
「佐伯君」
「はいっ!」
修一は、人生で最も速くブラウザを閉じた。
「今の会議資料、まだかね」
「ただいま作成中です」
「昨日から頼んでいるやつだよ」
「承知しております」
「午後までに頼むよ」
「はい」
上司は去っていった。
修一は、ゆっくりと息を吐いた。
同志との交流は、人生を豊かにする。
しかし、勤務時間中にやると、評価を下げる可能性がある。
これは大きな発見だった。
彼は自分の手帳を開き、メモした。
『掲示板の確認は昼休みと帰宅後に限定する』
書いた本人が、翌日には守れなくなる種類の決意だった。
*
その週末。
修一は、掲示板の同志たちと初めて長いやり取りをした。
話題は、東京マルイがもしハイパワーを発売したら、という仮定の話だった。
『最初は黒いモデルがいい』
『いや、軍用らしい仕上げがいい』
『箱を開けた瞬間、泣くかもしれない』
修一は、最後の投稿を読んで、深くうなずいた。
泣くかもしれない。
いや、泣くだろう。
五十二歳の男が、新しいエアソフトガンを手にして泣く。
妻は何と言うだろう。
息子はどう思うだろう。
会社の田中に知られたら、翌日から「課長、ハイパワー届きました?」と毎朝聞かれるかもしれない。
それでも、泣くだろう。
彼は、その場面を想像した。
箱を開ける。
中には、長年待ち続けたブローニング・ハイパワーが入っている。
スライドに手を添える。
その重さを確かめる。
そして、五十二歳の男は、少年時代の自分に戻る。
修一は、目を閉じた。
いい。
実にいい。
そのとき、妻が声をかけた。
「あなた、何をニヤニヤしてるの?」
修一は目を開けた。
「いや、ちょっと未来を想像していた」
「老後のこと?」
「まあ、そんなところだ」
「退職金の計算でもしていたの?」
「違う」
「じゃあ、何?」
修一は、答えなかった。
妻は、夫の顔をしばらく眺めた。
「……また、あれ?」
修一は沈黙した。
「東京マルイ?」
さらに沈黙した。
妻は、呆れたように笑った。
「本当に好きなのねえ」
修一は、静かにうなずいた。
「ああ」
その返事には、いつもより少しだけ、力がこもっていた。
*
月曜日。
東京マルイの新製品情報が更新された。
修一は、朝の通勤電車でその知らせを見つけた。
公式サイトの更新。
新製品情報。
彼の心臓が、少しだけ速くなった。
来たか。
ついに来たか。
いや、落ち着け。
期待しすぎるな。
期待しすぎると、違ったときの落胆が大きい。
彼は自分に言い聞かせた。
そして、ページを開いた。
新製品は、別のモデルだった。
ブローニング・ハイパワーではなかった。
修一は画面を見つめた。
電車の揺れが、遠くなった。
周囲の乗客の声が、聞こえなくなった。
彼は、静かにスマートフォンを閉じた。
それから、窓の外を見た。
東京の街が流れていく。
人々は働き、学校へ向かい、買い物をし、それぞれの生活を送っている。
世界は何も変わらない。
東京マルイの新製品が一つ発表された。
ただ、それだけのことだった。
修一は、深く息を吸った。
そして、掲示板を開いた。
同志たちの投稿が、すでに並んでいた。
『違ったか……』
『次に期待』
『まだ慌てる時間じゃない』
修一は、思わず笑った。
そうだ。
まだ慌てる時間じゃない。
彼は返信欄を開いた。
『皆さん、次があります』
送信。
それから、スマートフォンをポケットにしまった。
五十二歳。
会社員。
住宅ローンあり。
再検査あり。
趣味仲間、数名。
そして、夢が一つ。
修一は、いつもの駅で電車を降りた。
会社へ向かう道を歩きながら、彼は思った。
自分は、いつまで待つのだろう。
来年か。
五年後か。
十年後か。
あるいは、最後まで出ないのか。
分からない。
それでも、彼にはもう一つ、楽しみができていた。
新製品発表を待つこと。
そして、同じように待っている人たちと、結果を報告し合うこと。
発売されなかったという知らせでさえ、誰かと共有できる。
それは、思っていたより悪くなかった。
修一は、会社の自動ドアをくぐった。
スマートフォンが震えた。
掲示板から通知が届いていた。
『ところで皆さん、東京マルイがハイパワーを出すとしたら、いくらまでなら買いますか?』
修一は立ち止まった。
そして、真剣な顔で考え始めた。
その日、彼は午前中の仕事をほとんど進められなかった。




