第二章 新製品発表と家庭の危機
佐伯修一は、病院が嫌いだった。
正確に言えば、病院そのものが嫌いなのではない。待合室で名前を呼ばれるまでの時間と、医師が検査結果を見ながら発する「少し気になる数値があります」という言葉が嫌いだった。
その日も、医師は検査結果を眺めていた。
「佐伯さん、運動していますか?」
「通勤で歩いています」
「それは運動というより、移動ですね」
修一は黙った。
医師は続けた。
「食生活も気をつけてください。睡眠も大事です。ストレスをためないように」
「はい」
「何か、楽しみにしていることはありますか?」
修一は、ほんの少しだけ考えた。
「あります」
「それはいいですね。趣味は大事ですから」
「東京マルイの新製品発表です」
医師のペンが止まった。
「……そうですか」
医師はそれ以上、何も聞かなかった。
修一は、医師の沈黙を理解ある態度だと解釈した。
実際には、次の患者の予約時間を気にしていただけだった。
*
帰宅すると、妻が夕食の準備をしていた。
「病院、どうだった?」
「運動しろと言われた」
「でしょうね」
「食事にも気をつけろと」
「でしょうね」
「ストレスをためるなとも言われた」
妻は包丁を止めた。
「あなた、何か心当たりがあるの?」
「ない」
「本当に?」
「俺は毎日、平穏に暮らしている」
「朝から新製品情報を何十回も確認している人が?」
「情報収集だ」
「先週、会社の会議中にも見ていたでしょう」
修一は、ぎくりとした。
「なぜ知っている」
「あなた、会議の議事録を家のプリンターに置き忘れたでしょう。余白に『ハイパワー、まだか』って書いてあったわよ」
修一は目を閉じた。
あれは、議事録ではなかった。
会議中に思いついた重要事項のメモだった。
少なくとも、本人の中では。
「仕事と趣味は別だ」
「そうね」
「仕事は仕事。趣味は趣味だ」
「そうね」
「だから、仕事中に趣味の情報を確認しても、趣味を仕事に持ち込んでいるわけではない」
妻は夫を見た。
「あなた、今、自分で何を言っているか分かってる?」
「分かっている」
「じゃあ、明日から夕食後に三十分歩いて」
「……それは別の問題だ」
「同じ問題です」
修一は反論しなかった。
健康診断の数値は、東京マルイの新製品情報よりも厄介だった。
更新ボタンを押しても改善しない。
*
翌週、会社で事件が起きた。
修一の部下である三十二歳の田中が、課長席の前に立っていた。
「課長、ちょっとよろしいですか」
「何だ」
「先ほどの会議資料なんですが」
「うん」
「最後のページに、妙な文字が入っていまして」
修一は嫌な予感がした。
「妙な文字?」
「はい。『ガスブロ、ハイパワー、東京マルイ』と」
沈黙。
修一はパソコンの画面を見た。
確かに書いてあった。
資料を作成している途中、別のウィンドウで検索した情報を、誤って貼り付けたらしい。
「……それは」
「新しいプロジェクトですか?」
「違う」
「では、何でしょう?」
修一は考えた。
正直に言うべきか。
適当にごまかすべきか。
課長としての威厳を守るべきか。
五十二歳の男としての尊厳を守るべきか。
最終的に、彼はこう答えた。
「個人的な研究だ」
田中は、感心したようにうなずいた。
「さすが課長。仕事以外にも研究熱心なんですね」
「まあな」
「ところで、ハイパワーって何ですか?」
修一の目が輝いた。
「ブローニング・ハイパワーという拳銃があってだな」
そこから二十分、田中は課長の話を聞くことになった。
設計の歴史。
軍用拳銃としての評価。
各種モデルの違い。
そして、なぜ東京マルイからガスブローバック製品が出ることを期待しているのか。
田中は、最初の五分こそ興味深そうに聞いていた。
十分後には、時計を見ていた。
十五分後には、上司からのメールを確認していた。
二十分後、修一は言った。
「分かったか?」
「はい。すごくよく分かりました」
「そうか」
「つまり、課長は東京マルイからハイパワーが発売されるまで、待ち続けるわけですね」
「そうだ」
「何年くらいですか?」
「分からん」
「いつ出るか分からないのに?」
「そうだ」
田中は、少し考えた。
「課長」
「何だ」
「それ、すごいですね」
修一は満足そうにうなずいた。
「分かるか」
「いえ、すごいというか……人生、楽しそうですね」
修一は、返事に困った。
人生が楽しいかどうか。
そんなことを、真剣に考えたことはなかった。
ただ、待つものがある。
それだけで、明日も起きる理由になる。
そう考えると、悪くない人生なのかもしれない。
もっとも、その感慨は三秒で終わった。
田中が言ったからである。
「課長、ところで、会議資料の修正は今日中ですよね?」
修一は時計を見た。
午後三時四十分。
締め切りは午後五時。
「……戻れ」
「はい?」
「仕事に戻れ!」
田中は逃げるように席へ戻った。
*
その日の夜。
修一は、夕食後の散歩に出かけた。
妻に命じられたからである。
家の近所を三十分歩く。
スマートフォンはポケットに入れておいた。
最初の十分は、健康について考えた。
次の十分は、住宅ローンについて考えた。
最後の十分は、東京マルイについて考えた。
結局、何も改善していない。
帰宅すると、妻がテレビを見ていた。
「歩いてきたの?」
「三十分」
「えらいじゃない」
「医師の指示だからな」
「それでも、やらないよりいいわ」
修一はソファに座った。
スマートフォンを取り出す。
東京マルイ公式サイト。
更新なし。
彼は画面を閉じた。
少し考えて、もう一度開いた。
更新なし。
「……そうか」
「何が?」
「いや、何でもない」
妻はテレビの音量を少し下げた。
「あなた」
「何だ」
「もし、東京マルイが最後までハイパワーを出さなかったら、どうするの?」
修一の指が止まった。
それは、考えないようにしていた質問だった。
発売されるかもしれない。
発売されないかもしれない。
そんなことは、最初から分かっている。
だが、妻の口から言われると、急に現実味を帯びてくる。
「……そのときは」
「そのときは?」
「そのとき考える」
妻は笑った。
「便利な言葉ね」
「そうだな」
「あなたらしいわ」
修一は、少しだけ気が楽になった。
人間は、すべての問題に答えを用意しておく必要はない。
明日考えればいいこともある。
来年考えればいいこともある。
そして、東京マルイがいつか出してくれるかもしれない製品については、今日、結論を出す必要などない。
彼はスマートフォンを置いた。
テレビでは、ニュースが流れていた。
世界ではさまざまな事件が起きていた。政治家が発言し、株価が動き、遠い国では戦争が続いていた。
その一方で、五十二歳の男は、ガスブローバックのブローニング・ハイパワーを待っていた。
世界は広い。
人間の悩みもさまざまだ。
その中で、修一の悩みは、おそらくかなり平和な部類に入る。
彼は、そう思った。
そして、スマートフォンをもう一度手に取った。
東京マルイ公式サイト。
更新なし。
「まだだ」
彼は言った。
妻は、もう何も言わなかった。




