第一章 その男、五十二歳
佐伯修一、五十二歳。
都内の中堅企業に勤める、ごく平凡な会社員である。
課長という肩書きはついているが、部下から尊敬されているかどうかは定かではない。上司からは便利に使われ、若手社員からは少し面倒な人だと思われている。住宅ローンはまだ残っており、妻との会話は必要事項が中心になった。健康診断では血圧とコレステロールの数値について、医師からありがたい説教を頂戴している。
つまり、どこにでもいる五十二歳の男だった。
ただし、一つだけ普通ではないことがある。
彼は、ブローニング・ハイパワーという拳銃を愛していた。
ベルギーの銃器メーカー、FNが生み出した名銃。二十世紀の軍用拳銃史に名を残し、世界各国で使用され、長い歴史を歩んできた傑作である。
修一がその存在を知ったのは、中学生の頃だった。
当時、彼は銃の図鑑を何度も読み返した。ページの端が擦り切れるまで眺めた。特に好きだったのが、ブローニング・ハイパワーだった。
曲線を描くスライド。引き締まったシルエット。無駄のない機能美。
少年だった修一は、その写真を見ながら思った。
いつか、これを手にしてみたい。
もちろん、本物の話ではない。
日本で暮らす普通の少年に、実銃を所有する機会などない。そもそも彼が欲しかったのは、銃そのものというより、その形と機構を自分の手で確かめることだった。
時は流れた。
中学生は高校生になり、大学生になり、社会人になった。
就職活動に失敗しかけ、なんとか会社に入り、結婚し、子供が生まれ、家を買った。子供は成長して家を出た。気がつけば、頭には白いものが混じり、駅の階段では若い頃より息が切れるようになっていた。
人生には、いろいろなことがあった。
だが、ブローニング・ハイパワーへの愛情だけは、しぶとく残っていた。
問題は、日本である。
日本は銃器に対する規制が厳しい国だ。修一は法を破ってまで本物を手に入れようなどとは考えたことがない。彼が求めているのは、合法的に楽しめるエアソフトガンだった。
しかも、ただのエアソフトガンではない。
ガスブローバック方式。
引き金を引けばBB弾が発射され、スライドが後退し、次弾の装填動作を再現する。実銃の作動を模した、あの一連の動き。
あれをブローニング・ハイパワーで味わいたい。
それが修一の夢だった。
そして彼には、メーカーについて譲れない条件があった。
東京マルイ製であること。
これだけは、どうしても譲れなかった。
*
十月某日、午前六時四十分。
修一は目覚まし時計が鳴る三分前に目を覚ました。
五十二歳ともなると、早起きは努力ではなく、身体の仕様変更によって実現する。
彼は布団の中で天井を見つめた。
今日は何の日だったか。
燃えるゴミの日ではない。妻の誕生日でもない。結婚記念日は先週終わった。彼は花を買い忘れ、帰宅後にコンビニのプリンを差し出すことで、なんとか危機を回避した。
だが、今日は違う。
東京マルイの新製品情報が更新されるかもしれない日だった。
修一は、ゆっくりと上半身を起こした。
枕元のスマートフォンを手に取る。
画面を点灯させる。
公式サイトを開く。
更新はない。
当然である。まだ午前六時四十分だ。
修一は画面を閉じた。
そして、三秒後にもう一度開いた。
更新はない。
さらに五秒後、もう一度開いた。
やはり、ない。
「……まあ、そうだろうな」
誰に言い訳しているのか、本人にも分からなかった。
「あなた、朝から何してるの?」
寝室の向こうから妻の声がした。
「いや、ちょっと確認を」
「何を?」
「情報を」
「何の?」
「新製品の」
沈黙が落ちた。
妻は、それ以上質問しなかった。
結婚二十七年。彼女は、夫に対してどこまで質問しても無駄なのかを、経験によって正確に理解していた。
修一は布団から出て、洗面所へ向かった。
鏡に映った男は、どう見ても五十二歳だった。
目の下には薄い隈があり、髪の生え際は後退し、腹回りには本人が認めたくない変化が起きている。
彼は鏡の中の自分に向かって、小さくうなずいた。
「まだいける」
何がいけるのかは、あえて考えなかった。
*
午前八時十五分。
通勤電車は混雑していた。
修一はつり革につかまりながら、スマートフォンを開いた。
東京マルイ公式サイト。
新製品情報。
更新なし。
彼は画面を閉じた。
電車が揺れた。
もう一度開いた。
更新なし。
隣に立つ若い男性が、ちらりと画面を見た。修一は反射的にスマートフォンを胸元へ引き寄せた。
別に、恥ずかしいものを見ているわけではない。
しかし五十二歳にもなると、自分の趣味を他人に見られることに、妙な羞恥心が生まれる。
若い頃なら、銃の図鑑を持ち歩いていても平気だった。今では、電車内で製品情報を確認しているだけで、何か重大な秘密を隠しているような気分になる。
もっとも、彼が隠しているのは、東京マルイのハイパワーがまだ発売されていないという、世界中の誰もが知っているわけでもない事実だった。
いや、正確には、誰も気にしていない事実だった。
修一だけが気にしていた。
それで十分だった。
*
午前九時。
会社に到着した修一は、いつものようにパソコンを起動した。
メールが二十七件。
そのうち、すぐに対応が必要なものが八件。
部下からの相談が三件。
上司からの、要するに今日中に何とかしろという依頼が一件。
修一はコーヒーを飲んだ。
そして、ブラウザの別タブで東京マルイの公式サイトを開いた。
仕事と趣味の優先順位について、彼は明確な見解を持っていた。
仕事は生活のために必要である。
趣味は人生のために必要である。
したがって、仕事を優先することはあっても、趣味を忘れる理由にはならない。
これは修一が長年の会社員生活を通じて到達した、独自の哲学だった。
もちろん、誰にも話したことはない。
話せば、余計な心配をされるからだ。
午前九時十二分。
更新なし。
修一はメールを一件処理した。
午前九時二十七分。
更新なし。
修一は部下の資料に赤字を入れた。
午前九時四十三分。
更新なし。
修一は会議の準備をした。
午前十時。
更新なし。
彼は椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げた。
「……焦るな」
誰も焦っているとは言っていなかった。
午前十時七分。
更新なし。
午前十時八分。
更新なし。
午前十時九分。
修一は、ついに自分自身に問いかけた。
なぜ、ここまで待っているのか。
ほかにも趣味はある。映画も見る。音楽も聴く。若い頃には釣りもした。最近は健康のために歩くことを勧められているが、これは趣味ではなく医師からの業務命令に近い。
それでも、ハイパワーだけは別だった。
いつか発売されるかもしれない。
発売されないかもしれない。
そんなことは分かっている。
分かっているのに、期待してしまう。
期待して、落胆する。
落胆して、次の発表を待つ。
それを何年も繰り返している。
合理的かと問われれば、合理的ではないだろう。
しかし、人生のすべてが合理的でなければならないとしたら、いったい何のために人は生きているのか。
修一はそう考えた。
そして、考えたことをすぐに忘れた。
新製品情報のページを更新したからである。
*
午後零時十五分。
昼休み。
修一は会社近くの定食屋で、日替わり定食を食べていた。
焼き魚、味噌汁、ご飯、小鉢。
健康診断の結果を受けて、揚げ物を控えるようにしている。
隣の席では、若い会社員二人がスマートフォンを見ながら話していた。
「次の新製品、何が出ると思う?」
「知らねえ。最近、いろいろ出てるじゃん」
修一の箸が止まった。
耳が、勝手にそちらを向いた。
「やっぱ新しいガスブロかな」
「ありそう」
修一は味噌汁を飲んだ。
彼らの会話に割って入るつもりはなかった。
五十二歳の男が、見知らぬ若者に向かって「ところでブローニング・ハイパワーはどう思う?」などと尋ねたら、どうなるか。
想像するだけで、十分に恐ろしい。
しかし、耳は聞いていた。
「まあ、何が来るか分からないよな」
そうだ。
何が来るか分からない。
だからこそ、新製品発表には意味がある。
修一は食事を終え、会計を済ませた。
店を出る直前、スマートフォンを取り出した。
東京マルイ公式サイト。
更新なし。
「……午後に期待だな」
彼は会社へ戻った。
午後の仕事が待っていた。
そして、もしかしたら、奇跡も。
もっとも、修一は奇跡という言葉を軽々しく使う男ではなかった。
ただ、東京マルイがガスブローバックのブローニング・ハイパワーを発売することについてだけは、少しばかり期待値の設定が甘かった。
その日の午後、彼は二十六回、公式サイトを確認した。
更新はなかった。
帰宅後、妻にその話をした。
「出なかったの?」
「出なかった」
「そう」
「でも、まだ分からない」
「何が?」
「未来だ」
妻は箸を置いた。
「修一さん」
「何だ」
「明日、病院に行く日よ」
彼は固まった。
「……何の病院だ?」
「健康診断で再検査って言われたでしょう」
修一は、しばらく黙っていた。
それから、静かにスマートフォンを手に取った。
東京マルイの公式サイトを開く。
更新はなかった。
彼はうなずいた。
「よし」
「何がよしなの?」
「明日も確認できる」
妻は、深く、深くため息をついた。
五十二歳。
住宅ローン残り十七年。
再検査の予定あり。
新製品発表、未定。
それでも佐伯修一は、諦めなかった。
彼には、まだ夢があった。
東京マルイがガスブローバックのブローニング・ハイパワーを出すまで、彼はやめない。
たとえ、妻が呆れようとも。
部下に知られようとも。
健康診断の数値が悪化しようとも。
そして、たとえ東京マルイの担当者が、この世のどこかで彼の存在を一度も認識しないまま定年を迎えようとも。
彼は待つ。
ただ、待つ。
明日も。
来年も。
もしかしたら、定年後も。
そのとき、彼はまだ生きているだろうか。
それは、医師にも分からない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
佐伯修一は、翌朝も目覚まし時計が鳴る三分前に目を覚ます。
そして、スマートフォンを手に取る。
東京マルイの公式サイトを開く。
更新はない。
彼は、うなずく。
「まだだ」
そして、今日も会社へ向かうのである。




