⑶ 落し所
次の日の昼休み、碧からメールが届いた。
『昨日は大変ご迷惑をお掛けしてしまったようです。本当に申し訳ありませんでした。
本日の昼食時、皆さんとお会いしたかったのですが、私の主任から昼食を誘われましたので、そちらへ行けなくなりました。
本当に申し訳ありません』
私は『了解しました』とだけ返信し、その日は4人でテーブルを囲んだ。
みんなは何も聞いて来ない。
リーダー君が場を盛り上げようと話題を提供した。
「昨日テレビでやってたんですが、インドや中国の優秀な小学校では、子供達に掛け算9×9(九九)ではなく、19×19の掛け算を暗記させてるって……」
その話に、綾乃が発言した。
「ええ? 掛け算が9×9なのは10進法を使っているからですよね?」
そしてインテリ君も発言した。
「そんなの頭に入れたら、数の連続性とか規則性に目が向かなくなってしまう」
……ここに碧がいたら、何てコメントするのだろう?
綾乃が私に聞いて来た。
「それって、主任はどう思います?」
「うん。きっとインドや中国の優秀な学校での数学は、20進法を使ってるんじゃない?」
一同沈黙した。
ああ、やはり私は、このチームで仕事したい。
改めてそう思った。
・・・・・・
次の日、常務取締役の名前で異動命令が通達された。
一、第1研究所研究員 水瀬碧 第3研究所チーム・ストロベリーへ異動。
二、第3研究所チーム・ストロベリー 第1研究所へ常駐。
常駐……つまりストロベリーは第3研に籍を置いたまま、仕事場を第1研に移す。
そう来たか。
やはり第1研では碧の参加を前提にしたプロジェクトが、既に動いているのだろう。
まあ、ぎりぎりの落し所だろう。
しかし、碧が優秀な研究員である事はわかるが、会社がそこまでして……
私が知らない事、まだ何かあるようだ。
碧からメールが届いた。
「今後ともよろしくお願い致します」
ストロベリーのメンバーは全員大喜びである。
よかった……本当に良かった。
・・・・・・
第3研への碧の異動と、チーム・ストロベリー第1研への常駐(引っ越し)は、8月1日付となっている。
急ではあるが4日後である。
我々チーム・ストロベリーはこの第3研からの引っ越し作業を始めた。
単に仕事場を移動するだけである。
書類の整理、及び実験機材、測定器等の移動準備が完了したのは、職場移動日の1日前だった。
精密機器の移動は専門の方にお願いする。
それ以外は我々で運ぶ。
移動の為に梱包してしまうともう仕事は出来ない。
気の早いリーダー君は水瀬女史の歓迎会をしましょうと言い出した。
「いゃあ、正式に異動するのは明日からだから」
私がそのように伝えると、インテリ君が、また訳の解らない事を言い出した。
「では、今日は水瀬女史の歓迎会、予行練習という事で」
何かみんなテンションが高い。
「じゃあ、水瀬さんに連絡してみる」
碧にメールすると即座に「行きます」との返信が来た。
皆のテンションが更に上がった。
「じゃあ、何処かお店、予約します」とリーダー君が言った。
「オシャレなお店にしましょうよ」と綾乃が言いだした。
「静かな個室で予約しましょう」とインテリ君が検索しはじめた。
私は明里にメールして帰りが遅くなる事と夕飯いらない事を伝えた。
会社を定時で退社して、予約した店へ向かった。
予約した店は10畳ぐらいの畳敷きの個室で、懐石料理の店だった。
一足遅れて碧が到着した。
碧は我々4人に向かって正座して、手を付いて頭を下げて言った。
「今後ともよろしくお願い致します」
我々4人も慌てて正座した。
「こちらこそよろしくお願い致します」と言ってお辞儀した。
私はみんなに伝えた。
「まあ、正式には明日からなので、ただ、明日からはこういった堅苦しいのは止めにしましょう」
料理が運ばれてきた。
綾乃は私の横にくっついて、日本酒を注いでくれる。
こんなところ見たら、リーダー君もインテリ君も、おもしろくないだろう。
彼らを見ると、碧が二人にお酒注ぎながら会話している。
二人とも上機嫌。
ああ、さすが大人の女性だ。
2時間ぐらい満喫して店を出た。
潰れるような飲み方をする人はいないのでまったく手がかからない。
5人で駅まで歩いた。
その間に私は碧に訊ねた。
「この前、上司に昼食を誘われた時、何か言われましたか?」
「いえ、ただ、申し訳なかったって、何度も何度も頭を下げられました」
「……そうですか」
駅に着いてそのまま解散した。
その後、碧からメールが届いた。
『私の異動の件で、大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。
それと、以前、明里さんのお話しをして頂いた時「私にも可能性あるのですね」等と言ってしまいましたが、あの時の話は、どうか忘れて下さい。
これからは仕事上でのパートナーとして、お付き合い頂ければ幸いです。
今後ともよろしくお願い致します』
このメールの中の『忘れて下さい』の部分をどのように解釈したら良いものか……
碧は自分の中で、気持ちの整理を進めている。
そのように解釈した。
私は碧に返信した。
『了解しました。こちらこそ、よろしくお願いします』
その時の碧は、私への想いを抑え込んでいた。
そして碧の想いを、私は知らなかった。
もしも、おじさんが明里さんと出会う前に、碧さんと会っていたら……
もしも、おじさんが去年、社員旅行に参加していたら……
別の今が、あったのかもしれません。
次回:(第8章 終話)チーム・ストロベリー




