第十三話「ユノとつばさ」
朝、上野川優乃は送られてきたメッセージを読んでため息をついた。
チャットのメッセージ欄は、SHOWの言葉を最後に止まっている。
「いきなり誘ってゴメンな。大学生だって忙しいもんな。でも大会の時期は夏休みだと思うから、マジで出てほしいんだ。連絡待ってる」
SHOWは文末に謝っているような顔文字をつけていた。
「全ッ然! わかってない……!」
優乃は頭を抱えた。
どうやらSHOWは、ユノが暇人扱いされたから怒っていると考えているようだ。
網走翔にしてみれば、エリートの男子大学生を演じているユノの気持ちなどわかるはずがないのだが、優乃は構わずSHOWの見当違いの謝罪に腹を立てていた。
「なんでそうなるかなぁ? 僕がそんなことで怒るはずないじゃないか。まったく! とんだニブチンだよ!」
優乃は立ち上がると、部屋の隅に置いてある姿見の前に向かった。
ゆっくりとカバーをめくると、そこには制服姿で佇み、静かな闘志に燃える自分の姿があった。
短い前髪をわずかに整え、優乃は拳を握った。
必要なのは、覚悟だ。
敵を前にして戦う覚悟であり、手を引かせるための戦略だ。
知らない人と会うのは苦手だった。誰かと話すのも得意じゃない。
しかしもうそんなことは言っていられない。
上野川優乃は鏡の前で頬を叩き、戦いの場へ向かう覚悟を決めた。
「相手がいくら強敵だって、僕は引き下がらない」
頬を叩く。
「気合を入れるんだ」
再び叩く。痛い。
「SHOWを暗黒タイピング大会には、出させないぞ」
頬が腫れそうなので、叩くのはやめた。
代わりに大きく深呼吸をする。
「SHOWのパートナーは、僕なんだから」
嘘だらけの世の中である。
ネットもリアルも、嘘が溢れている。
しかしこの気持ちは、本物だ。
振り返ると、優乃はリュックを背負って家を出た。
上野川優乃は、白鳥つばさに会いに行くと決めた。
強い風の日だった。春の雲がちぎれるように流れていた。
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白鳥つばさとの待ち合わせ場所は、優乃の家から電車で三十分ほどの駅前の公園だった。結構近いところに住んでいるみたいだ。
電車に乗る際、駅前でクラスメイトたちを見かけた。
男女合わせて六人のグループで、これからみんなで遊びに行くようであった。
優乃に絡んでくるクラスメイトもいた。
放課後、学校以外の場でクラスメイトに会うのはなんとなく気まずい。
特に、先日は昼休みに大騒ぎを引き起こしただけに、余計だった。
「…………っ」
優乃は相手を見ないようにして通り過ぎた。
クラスメイトも優乃に気づいたようだったが、声はかけてこなかった。
六人は互いに目配せをして、なにかささやき合っていた。
「あいつ、いるよ……」
「ほら……だ」
「……気をつけないと」
こちらに向けた言葉に、優乃はつい視線を送ってしまう。
流れていく人並みの隙間を縫って、クラスメイトの一人と視線が合った。
クラスメイトはビクリと肩を震わせると、慌てて目をそらした。
その瞳には、なにかに怯えるような鈍い光があった。
あの昼休みから、向けられ続けた目線だった。
優乃もすぐに視線をそむけて、そのまま改札をくぐった。
「そりゃそうだよね」
優乃は自分のスマホの挙動を乗っ取った得体のしれないクラスメイトだ。
こつこつとホームへ続く階段を降りながら、優乃は思う。
別のやり方があったんじゃないか、と。
ちょっかいを出してくるあっちが悪いとは思う。
優乃の学校生活における敵に近い立場だった。
それはそうだけど、もっと別の方法もあったような気もする。
わからないが、最善ではなかった。
力を誇示して黙らせる以外の、もっといい方法が――。
僕は僕自身の力を、いつもロクなことに使ってない。
遊び半分で企業のコンピューターに侵入してみたり、監視システムに偽情報を送りつけてシステムを混乱させてみたり。
楽しい遊びではあったが、それが楽しかったのも、SHOWにチャットで結果を伝えているときだった。SHOWは冗談半分で信じていなかったかもしれないけれど。
「ぜんぶ本当のことなんだぜ? SHOW」
電車がゆっくりとホームに入ってきた。
優乃はリュックを前に抱えて乗り込んだ。
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駅前の公園はすぐに分かった。
朝から人で賑わっている。
指定された場所は噴水前のベンチだった。
優乃が向かうと、ベンチには先客がいた。
ジャージ姿の女が、バッグを枕に腕で顔を覆って寝転がっている。
髪を染めているし、ヤンキーだろうか。
座って待ちたかったが、仕方ない。
優乃はベンチが見えるように、噴水の周りをぐるりと歩くことにした。
約束の時間まではまだ数分ある。
優乃はベンチからあまり離れないようにしつつ、公園をぶらりと回った。
約束の時間が迫ってくる。ベンチの近づく人間はいなかった。
白鳥つばさ……! まさか現れないの!?
約束の時間になった。
その瞬間だった。
大きなアラーム音がなった。
ベンチで寝転んでいるジャージ女からだった。
ジャージ女は跳ねるように起き上がる。
枕にしていたバックから、バタバタとスマホを取り出してアラームを切った。
二十代前半の若い女だった。ピンクと金髪の髪が乱れている。
胸には大きく「しらとり」の刺繍があった。
優乃はまじまじとジャージ女を見た。
ピンクと金髪の髪に……しらとり……?
目の下にくまがある。写真で見た印象より、ずっと疲れているように見える。
しかし。優乃の視線は、刺繍が入った大きな胸部に向かった。
つ、強い……!!
間違いない! こいつが……!
「白鳥つばさ……!」
声に出すと、ジャージ女改め白鳥つばさは、優乃に気づいた。
寝起きでぼんやりしていたつばさの目が、覚醒に合わせて輝きを増していくようだった。それにしても、外で人と会うのにジャージ姿とはふざけた格好だ。
白鳥つばさは一流企業に勤めている人間である。それなりの常識があるなら、おかしな格好にも、待ち合わせ場所で寝ていたことにも理由があるはずだ。
その辺の事情から話し始めるのだろうか、と優乃は思った。
違った。
つばさは優乃を見て、すべてを察したように頷くと、すくと立ち上がった。
「私は天才配列屋の白鳥つばさ! SKY配列で世界を救うために戦いましょう!」
びしっと手を差し出してきた。
つばさはボサボサ髪で目にくまを作り、ジャージ姿にも関わらず、自信に満ちた笑顔でまっすぐ優乃を見つめている。
なるほど。とんでもない女だ。
聞いていたよりも、ずっと。
SHOWも初対面のときは、虚を突かれた思いがしたと言っていたような気がする。
とにかく。
負けるわけにはいかない、と優乃は思った。
気圧されるな。
気合を入れろ。
陰キャの上野川優乃は今じゃない。
僕は、戦いに来たんだ。
「ぼ、僕は天才ハッカーユノ! 今日はお前に言いたいことがあって来た!」
優乃はビシッとつばさを指差した。
片手は腰に当てている。
つばさにペースを握られてはいけない。
負けるもんか。
傲岸不遜のユノになるんだ。
互いに沈黙し、二人の間には風が吹いた。
つばさは手を引っ込めなかった。
少し驚いたように眉を上げる。
「ハッカー……?」
つばさは呟いた。
自信に満ちた笑顔が、引いていく。
気づけば、差し出されたつばさの手は固く握られていた。
視線を交わした優乃は、たじろいだように顎を引いた。
つばさの瞳には、猜疑の色があった。
「まさかあなたが……タイパー狩りなの?」
つばさは言った。
優乃には何のことだかわからなかった。
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網走翔は昼前に起きると、真っ直ぐ机に向かい、タイピングを始めた。
六畳一間の一室に、パチパチとタイピング音が響いた。
タイピングをしながらも気になっていたのは、昨夜出会ったあの男のことだった。
見た目は物腰柔らかい若者だが、恐ろしく速いタイパーだった。
ラーメン屋の男。
穏やかな笑顔の中に、恐ろしいほどの修練が潜んでいる。
日常生活で、翔が速いと感じるタイパーはまずいない。業務で必要なレベルのタイピング速度と競技として戦うタイピング速度は全くの別物なのだ。
街を歩いていても、あれほどタイパーには出会わない。
タイピング大会のときだけ、どこに潜んでいたのかというくらい怪物じみたタイパーたちが姿を現すが、あの若者はそれに匹敵している。
そんなやつが、偶然ラーメン屋で、隣の席に座るものだろうか。
網走翔には、相対した人間のタイピング能力が分かる直観のようなものがあった。前にそのことをユノに話したら、「またバカなことを」と笑われたが、翔はこの勘を信じていた。
例外だったのは湯浅朝城くらいだ。
確かに翔は湯浅朝城を弱いと見誤っていた。彼もまた恐ろしいタイパーだった。しかし、強いと見誤ることは無いと翔は考えていた。強いと感じた相手が、弱かったことはない。
現在、SKY配列でタイピングをしている、翔は思う。
自分はまだまだQWERTY配列の頃の速度には及ばない。
しかしあの男は、QWERTY配列でも勝てるかどうかわからない。
あるいは、QWERTY配列の自分を超えているかもしれない。
そういう強さを秘めているように見えた。
近所のラーメン屋にあんなヤツがいるとは。
ふっと笑いが漏れた。
あの男の出現は、偶然なのか、なにか意味があるのか。
そんなことはどうでもいい。
「戦ってみたいな。あいつと」
翔はキーを叩き続けていた。
不思議な高揚が、翔の全身から溢れていた。
あの男は大会に出るだろうか。
暗黒タイピング大会に出れば、ああいうヤツらがたくさんいるのかもしれない。
まだ知られていない、闇のタイパーたちが、たった一つの配列を決めるために雌雄を決するのだ。
求められるのはタイピング速度と正確さ。
実にシンプル。
誰よりも速く、ただ疾く、精密に――。
自分が生きてきた意味と、想いを同じくする者同士が、全力で相討つ日が迫っている。翔が生きている間に、暗黒タイピング大会が開催されることはもうないだろう。
悔いは残したくない。
「もっと速く、もっともっと疾く正確ならないと――!」
中途半端な力で、舞台には立てない。
それは暗黒タイピング大会に出場する他のタイパーたちのためであり、SKY配列を奉じる白鳥つばさのためでもあり、何よりも自分のためだ。
網走翔は決意を新たにタイピングを続けるのだったが。
ピコン!
「うわぁあ!」
傍らに置いていたスマホが鳴った。
翔のスマホは滅多に鳴らないので、マナーモードも切っており、音量も最大だった。
「びっくりしたぁ。いきなり鳴るんだもんな」
スマホはいきなり鳴るものである。
「誰からだろう」
翔はタイピングを中断して、スマホを触る。
近頃は友人とも連絡を取ってないので、スマホは本当に滅多に鳴らないのだ。
アプリの通知はうるさいからすべて切っていた。
一件のメッセージがある。
白鳥つばさからだった。
「網走くん! 新しい仲間が見つかったよ! 網走くんにも会ってほしいから、今日会えるかな?」
昼時を過ぎた時間だった。
そういえば、起きてから何も食べてなかったことを翔は思い出した。
つばさからのメッセージを見ると、お腹がなった。
会えば毎回奢られているので、ついにメッセージを見ただけで食欲が湧いてくるようになっていた。
よくない兆候だと思いつつ、翔は「すぐに行く」とメッセージを返した。
つばさは昨日、女子中学生タイパーに会うと言っていた。
うまくいったということだろうか。
自分を呼ぶとき「翔くん」ではなく、「網走くん」になっていたのは、少し気になった。距離が遠くなったような気がする。
やっぱりバッサーって呼んだ方がいいのだろうか。
どうも恥ずかしいんだよなぁ。
そんなことを考えつつ、翔は家を出た。
陽が高い。
アパートの前の木がざわざと揺れていた。
次回投稿は11月1日を予定しています。
よろしくお願いします。




