第4話 忠臣チセラとの再会と快適な朝
翌朝。アルテミアは、いつになく早起きをして厨房へ突撃していた。
「パンケーキを作ります!」
「…………」
突然の公爵夫人の降臨に、料理人たちがぽかんと口を開ける。
「……奥様自ら、お作りになるので?」
「はい! ふわっふわのやつです! 旦那様にも『好きにしろ』とお墨付きをいただきました!」
「承知いたしました! どうぞお好きなだけお使いください!」
即座に快諾して頭を下げる料理長。長年使用人の領分だった厨房に公爵夫人が入るのは異例だったが、アルテミアの明るい笑顔に毒気を抜かれてしまったようだ。
そこへ───。
「お嬢様……! ご実家からのお荷物をお持ちしました!」
おだんご頭にエプロンドレス姿の少女───専属侍女のチセラが飛び込んできた。アルテミアが実家から連れてきた、数少ない味方である。
「チセラ! 荷物ありがとう!」
「あの……お嬢様。なんだかものすごく、雰囲気が変わられました……? 今日の笑顔……まるで前世で徳を積んだみたいです!!」
チセラは目を細めてアルテミアを注視した。以前のお嬢様は、没落寸前の実家に気を病み、公爵家への嫁ぎ先でもおどおどと何でも我慢していたはずなのだ。
「……そう?」
「はい! 今のお嬢様、すごく楽しそうです! 冷血公爵様の噂を聞いて心配だったんですけど……」
「あー、ヴェンツェル様ね。顔面国宝だけど冷たいよ。……でもね、チセラ」
アルテミアはチセラの耳元へ顔を寄せ、声を潜めた。
「私、お飾り妻なんだって」
「…………はい?」
「だからね! 働かなくていい! 夫婦関係もゼロ! 衣食住は完全保障の神ニート生活スタートなの! 働かなくていいって……それもう、天国の制度じゃん……!」
「…………」
一瞬フリーズしたチセラは、静かに拳を握りしめた。
「……最高では? ニートって言葉は存じ上げませんが」
「でしょう!?」
「最高です!! 私、今のお嬢様のほうが何千倍も好きです! 一生ついていきます! 一緒に公爵家を裏から支配しましょう!」
「え? 今なんて言った?」
「気のせいです! さあお嬢様、パンケーキを作りましょう!」
主従の枠を超えた爆速の固い握手。二人はさっそく、前世仕込みのノウハウで極上のふわふわパンケーキを焼き上げた。
「ふわっ……しゅわっ……!」
「お嬢様、これ……雲ですか……?」
「美味しい〜っ!!」
「お、美味しすぎますお嬢様……!」
厨房で焼き立てのパンケーキを頬張り、顔を見合わせて大はしゃぎする二人。
その楽しげな光景を、厨房の外から静かに見つめる男がいた。
執事のベルトランである。
「…………」
奥様の行動を観察していたベルトランは、そっと胸元に手を当てた。
(……何ということだ。……この笑い声を、どれほど待ち望んでいたことか)
胸の奥が、じんわりと温かい。
仕事中毒の旦那様、部屋に閉じこもるルッカ様、使用人同士の派閥争い。重苦しい空気に包まれていた公爵邸で、ここ数年一度も聞いたことがなかった「心からの笑い声」が響いている。
(奥様……あなた様はもしや……)
長年胃薬を手放せなかった執事の瞳に、救世主を見るような光が宿った瞬間だった。
昼過ぎ。図書室に戻ったアルテミアは、『貴族名鑑』を開いていた。
グラウエン公爵家のページ。
当主ヴェンツェル・フォン・グラウエン。そして───その横に記された、たった一行の記録。
『ルッカ・フォン・グラウエン(五歳)』
それ以外、何もない。
(……ルッカちゃん)
アルテミアの胸が痛む。愛を知らず、暗闇の中で誰にも抱きしめられないまま成長し、やがて歪んだ愛情に狂っていく少女。
「……そんな悲惨な未来、絶対にあげない」
アルテミアは力強く本を閉じた。
ここが『恋するアルケミスト』の世界なら。この広いお屋敷のどこかに、今も一人で震えている天使がいるはずだ。
「待っててね、ルッカちゃん」
アルテミアは優しく微笑み、前を見据えた。
「……あなたはもう一人じゃない。お母さんが絶対に守る」
こうして。チセラとベルトランを無自覚に巻き込みながら、アルテミアの「推し救済計画」は次なるステップへと動き出すのだった。




