第3話 冷血公爵の拍子抜け
翌朝。アルテミアは、人生で───いや、二度目の人生で初めて、とんでもなく清々しい朝を迎えていた。
「…………」
目を開けると、見知らぬ豪華な天蓋。カーテンから差し込む柔らかな朝日。
前世では、朝は地獄だった。目覚まし三度スヌーズ、布団から出たくない、会社に行きたくない。それが今や───。
「おはようございます、奥様」
「おはようございます!!」
最高の朝である。
ヴェンツェルとの昨夜のやり取りを思い出し、アルテミアの口元が自然と緩む。
『私は君に妻としての役割以上を求めない』
『夫婦としての営みも必要ない』
『私への感情も不要だ』
(……最高かよ!!)
心の中でガッツポーズを決めるアルテミアに、メイドが不審そうに首を傾げた。
「あの……本日のご予定はいかがなさいますか?」
「特にありません! 今日は一日、この素晴らしいお屋敷を探検します!」
「探検、ですか……?」
「はい!」
前世では会社と自宅の往復だけだった社畜人生。それが今や、働かなくても誰も怒らない公爵夫人。
(素晴らしい……! これぞ自由! これぞ神ニート生活……!)
朝から一人で噛み締める深すぎる感動に、メイドは何とも言えない表情を浮かべるのだった。
一方、執務室。
ヴェンツェルは山積みになった書類を前に、羽ペンを走らせていた。領地の税収報告、蒸気機関工場の生産性、国境警備に軍部からの書簡。
いつも通りの日常。何も変わらない───はずだった。コンコン、と扉が叩かれ、執事のベルトランが入ってくる。
「旦那様。奥様より、本日のご予定についての確認がございます」
「好きにさせろ」
書類から目を逸らさずに短く答える。ベルトランは一礼したものの、なぜかすぐには退出せず、静かに控えていた。
「……何か問題でも?」
「いえ。それでは失礼いたします」
静かに扉が閉まる。再び書類に目を落としたヴェンツェルだったが───数秒後、ピタリとペンが止まった。
「…………」
なぜだ。なぜ自分は、あの女が何をしているのか気になっている?
昨夜、自分の言葉を聞いたアルテミアは、心底嬉しそうに「ありがとうございます」と微笑んだ。あれが演技には到底見えなかったことが、どうしても引っかかる。
(……不可解な女だ)
苦々しく眉根を寄せ、ヴェンツェルは無理やり意識を仕事へ引き戻した。
その頃、アルテミアは天国にいた。
「図書室……! 恋愛小説まである……天国なの!?」
天井まで届く本棚の山に目を輝かせ、気づけばあっという間に半日が経過。
さらに午後には、美しい庭園と温室を発見していた。
「ハーブに野菜に薬草……! この薬草!! これ、前世なら高級スーパーでしか見ないやつ!! すごい、これ料理に使えそう!」
前世で培った知識が疼く。パンケーキ、スープ、焼き菓子……。
「……何か作ってみようかな!」
パッと表情を華やがせ、鼻歌交じりに花に触れるアルテミア。
───そんな彼女の姿を、離れた場所から見つめる影があった。
執務の合間に、たまたま庭を横切っただけのヴェンツェルである。決して、妻の様子を見に来たわけではない。……絶対に。
(……本当に、楽しそうだな)
自分と距離を置いているからこそ、彼女はあれほど輝いているのだ。
(……そういうことか)
なぜか胸の奥が冷たく冷えるのを感じ、ヴェンツェルは視線を逸らした。
自分に干渉されない方が、あの女にとって都合がいい。合理的で結構なことだ。
「旦那様?」
背後からベルトランに声をかけられ、ヴェンツェルはハッとする。
「……庭を通っただけだ」
「左様ですか」
「何か用か」
「奥様ですが、明日から厨房を使いたいとおっしゃっております」
「……好きにさせろ」
つっけんどんに言い捨て、踵を返すヴェンツェル。
その背中を見送りながら、長年仕えてきた老執事は、主人の微妙な変化に気づいていた。
(……旦那様。もしや奥様のことが、相当気になっていらっしゃるのでは? ……もはやこれは……恋では?)
ベルトランは心の中でそっと胃薬をしまった。もちろん、高すぎる主人の自尊心を考慮し、口には出さない。
残されたヴェンツェルは、誰もいなくなった庭園を見つめ、苦々しく吐き捨てた。
「……馬鹿馬鹿しい」
(……庭を通っただけだ。決して、妻の様子を見に来たわけではない)
自分で自分に言い聞かせるような声だった。
その夜。ベッドに転がったアルテミアは、明日のおやつ作りに胸を躍らせていた。
「明日はパンケーキ作ろうかな!」
そして、ふと脳裏に思い浮かべる。
最推しの継娘───ルッカ・フォン・グラウエン。灰銀の髪に琥珀色の瞳をした、小動物のように愛らしい5歳の少女。
原作では誰からも愛されず、人間不信の果てに重度のヤンデレへと落ちていった可哀想な子。
「……絶対に、あんな悲惨な未来にはさせない」
アルテミアは布団を強く握り締めた。
「美味しいおやつ! 暖かいお家! 溢れんばかりの褒め言葉! そして無償の愛!! これでヤンデレフラグは完全粉砕よ! ルッカちゃん……絶対に守る。あなたの人生は、もう誰にも壊させない」
一人完璧な計画に頷くアルテミア。
しかし、彼女はまだ知らなかった。この「無自覚な爆速攻略計画」によって、一番最初に落とされるターゲットが───胃薬を手放せない苦労人執事、ベルトランであることを。




