第35話 ヴェンツェルの嫉妬とちびっ子の警戒
ゼノヴィス・ド・ゼーヴェンが、公爵邸へ通い始めてから十日ほどが経った。
その間、彼が口にする言葉はほとんど変わっていない。
「悪党女! 今日こそ化けの皮を剥がしてやるぞ!」
「はい。今日も張り切って監視してくださいね、殿下」
「余は褒められているのか!?」
「もちろんですわ」
「…………ならばよい!」
毎日のように出されるサクサクの焼き菓子と温かい紅茶。 庭を散歩すればアルテミアが手配した日よけの帽子が差し出され、疲れが見えればふわふわのクッションが差し出される。ゼノヴィスが何かを調べたいと言えば、アルテミアは「厨房ならチセラに案内させますね」「この棚も怪しいかもしれません」と嬉々として協力する始末だ。
結果。
「……本当に、何も怪しいところがない」
今日もゼノヴィスは、応接室のソファで深々と腕を組み、難しい顔をしていた。
「そうですか?」
「ああ。使用人の動きも、料理も、庭も、すべて普通だ。……お前は悪党なのだろう!? もっと裏で毒を仕込むとか、ヴェンツェルを洗脳するとかあるだろう!」
「洗脳はしていませんよ」
「では、なぜヴェンツェルはお前の言うことばかり聞くのだ! お前が『ルッカちゃんはもう寝る時間です』と言えばすぐに部屋へ連れていき、『寒いです』と言えば暖炉を強くする! ほら見ろ、洗脳だ!」
「それは単に、旦那様が優しくて気配りがお上手なだけですわ」
「嘘をつけ! 父上から『ヴェンツェルは冷血な男だ』と聞いているぞ!」
ゼノヴィスがキーキーと反論していると、ふいに低く静かな声が背後から響いた。
「───何の話だ」
「あ、お帰りなさい、ヴェンツェル」
振り返ると、政務から戻ったばかりのヴェンツェルが立っていた。 軍服姿のまま手袋を外す姿は相変わらず絵になるが、その紫紺の瞳はまずアルテミアを捉え、次いで隣に座るゼノヴィスへと向けられる。
「……またいるのか」
「成敗……ではなく、調査に来ているのだ!」
「そうか。好きにしろ」
あまりに淡々とした返答に、ゼノヴィスはキーッと爪を立てんばかりに立ち上がった。
「お前は騙されているのだ! この悪党女は毎日余に菓子を食わせ、茶を飲ませ、帰る時には必ず『また明日』と言うのだぞ! だから怪しいのだ!」
「……怒る理由がない。妻だからな」
「〜〜〜っ!?」
ぴたりとゼノヴィスの動きが止まる。 アルテミアの心臓も、どきりと跳ね上がった。
(……『妻だからな』って、サラッと言った!? 旦那様の無自覚な破壊力がすごすぎる……!)
そこへ、廊下からすっと忠臣侍女のチセラが現れた。
「お旦那様、新しいお茶をお持ちいたしました。お嬢様、焼き菓子の追加も厨房から届いております」
「ありがとう、チセラ」
アルテミアが微笑むと、ヴェンツェルの表情がほんの僅かに柔らかくなった。 ゼノヴィスはその一瞬の変化を、持ち前の鋭い観察眼で見逃さなかった。
「…………お前」
「何だ」
「お前、最近おかしくないか?」
「何がだ」
ゼノヴィスはヴェンツェルとアルテミアを往復して見つめ、人さし指をビシッと突きつけた。
「前はもっと冷たかった! だが最近は、この女がいると顔が怖くなくなる! しかも……この女が他の者や余と楽しそうに話していると、急に機嫌が悪くなる!」
「…………」
ヴェンツェルの整った眉が、ぴくりと跳ねた。
「殿下。……余計な観察をするな」
「やっぱりそうだ! お前、この女を取られるのが嫌なんだろう! 骨抜きにされているぞ!」
「違います殿下! 旦那様がそんな……っ!」
慌てて否定するアルテミアだったが、ヴェンツェルは無言のまま、すっとアルテミアの椅子のすぐ隣へと歩み寄った。 まるで、ゼノヴィスの視線から彼女を隠すかのように、自然な動作で身を乗り出している。
そして───ヴェンツェルの白皙の耳先が、ほんのりと朱に染まっていた。
(……ちょっと待って。旦那様、耳が赤くなってる!? 嘘でしょ、これってまさか……【無自覚な嫉妬】ってやつ!?)
前世のオタク知識が脳内で乱舞する。 乙女ゲーム『恋アル』におけるヴェンツェルは、冷徹で感情を表に出さない氷の公爵。しかし、アルテミアと出会ったことで「独占欲」という未知の感情に戸惑う姿は、ファンを狂わせた名シチュエーションだ。
ゼノヴィスがニヤリと勝ち誇った顔をする。
「ははーん! やっぱり洗脳されている!」
「違います! 単に……その、お部屋の空気が少し温かいだけですわ!」
「お前まで顔が赤くなっているではないか!」
「それは殿下が変なことをおっしゃるからです!」
応接室で繰り広げられる、大人と子供の泥沼の言い争い。 チセラはお茶をトレイに乗せたまま、完璧な侍女の佇まいで静かに問いかけた。
「……お嬢様。お茶をお置きして、私は退室した方がよろしいでしょうか」
「置いて! お茶置いてチセラ!」
「かしこまりました、お嬢様」
チセラは何事もなかったかのように優雅にお茶を置くと、フッと小さな笑みを残して下がっていった。
ゼノヴィスは腕を組み、最後にフンと鼻を鳴らした。
「……まあいい。余はこの屋敷を毎日調査する! そしていつか必ず、お前の化けの皮を剥がしてやるからな!」
「はいはい、頑張ってくださいね。明日も美味しいお菓子を用意してお待ちしております」
「……ふん! タルトの調査もまだ終わっていないからな!」
捨て台詞を残し、小さな王子は真っ赤な顔で去っていった。
馬車が見えなくなった廊下で、ヴェンツェルがぽつりと呟く。
「……アルテミア」
「はい、旦那様?」
「明日も、殿下は来るのか」
「ええ、きっと来ますね。殿下もすっかりこの屋敷を気に入ってくださったみたいで」
「…………そうか」
ヴェンツェルは窓の外を冷ややかな瞳で見つめながら、不満そうに眉をひそめた。
「……少し、困るな」
「?」
「……私の妻の時間を、なぜあのような子供に削られねばならんのだ」
「え……?」
アルテミアがパチクリと目を丸くする。 ヴェンツェル自身、まだその感情が「嫉妬」だと自覚していない。だが、妻の周囲に次々と集まってくる子供たち(と、その愛らしさに夢中になる妻)に対して、フツフツと不機嫌さを募らせていることだけは確かだった。
(旦那様の無自覚な独占欲……ごちそうさまです!!)
心の中でガッツポーズを決めるアルテミアと、自覚のないまま妻の肩を抱くヴェンツェル。 公爵邸の賑やかで甘やかな日々は、まだまだ波乱を含みながら続いていくのだった。




