第32話 手作りタルトと「頑なな拒待」
「毒など食うか!」
目の前に差し出された皿を見て、ゼノヴィス・ド・ゼーヴェンは勢いよくそう吐き捨てた。
皿の上に乗っているのは、焼きたての苺タルト。 サクサクの生地の上に、甘く煮た果実と、とろりとしたクリームが乗っている。表面には艶やかな蜜が塗られ、まだほんのりと温かな湯気が立っていた。
見るからに美味しそうだ。少なくとも、アルテミアにはそう見えた。
(……警戒心、強っ! でも可愛い……!)
アルテミアは、目の前の小さな王子を見つめた。 昨日、騎士たちを引き連れて公爵邸へ乗り込んできた第二王子。ヴェンツェルを腑抜けにした悪女などと自分を散々に罵っていた少年だ。
その正体は、まだ六歳。 豪奢な衣装に身を包み、王族らしく背筋を伸ばしているものの、その姿はどう見ても小さな子供だった。
(それに……ふふふ)
アルテミアの脳裏に、前世で遊び倒した乙女ゲーム『恋するアルケミスト(恋アル)』の知識が蘇る。
ゼノヴィス殿下は、ゲーム本編の主人公の攻略対象…設定にて、「成長したヒロイン・ルッカの未来のパートナー(公式正史ペア)」として絶大な人気を誇る男の子なのだ!
(未来の義理の息子(予定)が、こんな幼少期から我が家でツンツンしているなんて……尊すぎて拝みたい!)
オタクの血を必死で押し殺すアルテミアの横で、給仕を務めていた侍女のチセラが、そっと耳元で囁いた。
「お嬢様、あのお召し物の刺繍……王宮のかなり厳格な派閥のお召し物です。おやつひとつ取っても、かなり厳しいマナー教育と毒見の仕込みを受けさせられているご様子ですね」
「……ありがとう、チセラ」
流石はアルテミアの頼れる忠臣であり、屋敷の情報を鋭く観察するチセラだ。アルテミアは深く頷き、ゼノヴィスの目を見た。
きつく吊り上がったターコイズブルーの瞳。 そこに浮かんでいるのは、高飛車な怒りだけではない。 周囲の大人の都合に振り回されてきた怯え、警戒、そして——誰にも甘えられない寂しさ。
(……ああ。この子は、誰も信じられないんだ)
「では」
アルテミアはにこりと微笑んだ。
「毒見をいたしましょうか?」
「……何?」
「私が先に食べます」
「…………」
アルテミアはフォークを取り、タルトを一口。
「ん〜〜〜〜! 美味しいです!」
「…………」
「果実が甘酸っぱくて、クリームの甘さとよく合います。チセラ、厨房の料理人さんに『今日も素晴らしい仕事です』とお伝えして頂戴」
「かしこまりました、アルテミア様」
チセラが恭しく一礼する。ゼノヴィスは、じっとアルテミアの口元を見ていた。
「……本当に、何もないのか? 苦しくなったり……倒れたりしないのか」
小さな声だった。
「しませんよ。どうぞ」
アルテミアは皿を押し出した。しかし───。
「いらぬ!」
即答だった。
「食べませんか?」
「食べぬ! 知らぬ! 毒など私には効かぬ……いや! 効かぬから食わぬのだ!」
自分が何を言っているのか分からなくなっているゼノヴィスに、アルテミアは無理に勧めなかった。ただ皿を引き戻す。
「では、私がいただきますね」
「…………」
ゼノヴィスは、じーっと見ている。 食べたいのだろう。けれど、食べられないのだ。
第二王子という立場。周囲の大人は自分を利用しようとする者ばかり。嫌だと言えば「王子なのだから我慢しなさい」と叱られ、失敗すれば「第二王子として恥ずかしい」と責められる。 だから、最初から誰も信じない。全部拒絶する。
「お母様」
突然、ルッカが口を開いた。
「ゼノヴィス様、ほんとは食べたいんだと思います。ずっと見てるもん」
「ち、違う! 見てなどいない!」
「見てたよ」
「見ておらぬ!」
始まった。5歳と6歳の泥沼の言い争いである。 アルテミアは苦笑しながら、優しく静止した。
「ルッカちゃん。ゼノヴィス殿下が食べたくなるまで、待ってあげようね」
「……はい!」
ゼノヴィスが驚いたように目を丸くする。
「な、なぜ余に食べろと言わぬ! 余は王子だぞ! 余に逆らうのか?」
「逆らっていませんよ。王子殿下でも、嫌なものは嫌でいいと思います。食べたいときに食べて、食べたくないときは食べない。私は、そのくらい自由でいいと思います」
「…………っ」
あまりにも当たり前のように言われて、ゼノヴィスは言葉を失った。
「そんなことを言う者など……いなかった。余は何でもできねばならぬのだ。失敗など許されぬのだ……!」
小さな拳が震えている。 愛されるために、完璧でいなければならない。その強がりは、かつて心を閉ざしていたルッカやヴェンツェルとも重なっていた。
アルテミアはそっと立ち上がり、温かい紅茶を淹れ直した。
「はい、どうぞ。飲みたくなければ、飲まなくても大丈夫です。ここでは、誰も殿下に無理強いしませんから」
ゼノヴィスはカップを見て、アルテミアを見て、ルッカを見た。 小さな手がゆっくり伸びる。けれど、カップの直前で止まり、ぎゅっと引かれた。
「……今日は飲まぬ! タルトも食わぬ! 毒が入っているかもしれぬからな!」
「はい」
「……明日なら、食べるかもしれぬ!」
「はい?」
顔を真っ赤にするゼノヴィスに、アルテミアは破顔した。
「では、明日もお待ちしていますね。明日は別のお菓子にしましょうか?」
「……勝手にせよ!」
そう叫んで、小さな王子は騎士たちを引き連れて帰っていった。
屋敷の扉が閉まると、チセラがクスクスと笑いながら紅茶を下げた。
「アルテミア様、殿下のあの様子……明日も間違いなくお見えになりますね」
「ええ。チセラ、明日はもう少し小さめで、一口で食べやすい焼き菓子を用意してもらえるかしら?」
「かしこまりました。殿下の威信を守りつつ食べられるよう、厨房と相談して参ります」
頼もしい侍女を見送り、アルテミアはルッカの頭を撫でた。
「ルッカちゃん、明日も仲良くしてあげてね」
「うん! ルッカ、あの子のいじわる、全然こわくないもん!」
その頃、屋敷を出たゼノヴィスは、真っ赤な耳を隠すように歩いていた。 護衛の騎士が恐る恐る尋ねる。
「殿下……明日は、本当にお召し上がりになるのですか?」
「か、監視だ! 悪党女の化けの皮を剥がすための監視である! 決して、お菓子が目的ではない!」
「は、はあ……」
騎士は何も言わなかった。 ただ、小さな王子が明日を心待ちにしていることだけは、見なかったことにしてあげるのだった。




