【第1章・番外編】もう一人のお母様
───グラウエン公爵家には、今では三人分の笑い声がある。
庭を駆け回る小さな足音。それを追いかける、少し慌てた女性の声。
そして、その二人を眺めながら、時折低く微笑む男の声。
ほんの少し前まで、冷たい静寂に包まれていたこの屋敷にはなかったものだ。
帰る場所を持つ者だけが見せる、穏やかな温もり。
ヴェンツェル・フォン・グラウエンは執務室の窓辺に立ち、眩しい陽光に照らされる庭園を静かに見下ろしていた。
「お母様、見てー!」
「まあ、上手! 昨日よりずっと綺麗にお花が描けているわ!」
「ほんと? お父様にも見せてあげようかな!」
「ええ、きっと喜んでくださるわ」
嬉しそうに胸を張るルッカと、その隣で優しく目を細めるアルテミア。
その光景を眺めながら、ヴェンツェルの胸の奥に、深く沈めていた遠い記憶が静かに蘇っていた。
今の妻とは違う。
けれど、確かにかつて自分の隣にいた、もう一人の女性の記憶が。
彼女の名は、エリシア・フォン・アーデルハイト。
淡い金茶色の髪と、春の朝露のような柔らかな緑の瞳を持つ、控えめで物静かな侯爵令嬢だった。
幼い頃から二人は許嫁だった。家格も釣り合い、周りは誰もが「幸せな夫婦になる」と疑わなかった。
二人は互いを嫌っていたわけではない。
むしろ───逆だった。
大切だった。大切すぎたのだ。だからこそ、致命的なすれ違いを生んだ。
『ヴェンツェル様。お忙しいのでしょう? 私のところへ無理にいらっしゃらなくても大丈夫です』
『……そうか』
『はい。私は平気ですから』
体調の悪い自分を気遣わせまいと、エリシアは「私は大丈夫」と微笑み続けた。自分は迷惑をかけないことで、多忙な夫を支えようとしたのだ。
一方のヴェンツェルもまた、軍務や領地経営に追われる己の重圧に彼女を巻き込むまいと、必死で己を律していた。
彼女に負担をかけないよう、弱音を吐かず、極力距離を置くことで守ろうとした。
二人とも、相手を深く思いやっていた。
なのに───互いに「踏み込まない配慮」を重ね続けた結果、二人の間には決して埋まらない冷たい溝ができていった。
結婚し、やがてルッカが生まれた。難産を乗り越え、愛娘を抱いたエリシアは、ベッドの上で弱々しく微笑んだ。
『ルッカ……とても可愛い名前です。……ヴェンツェル様、ありがとうございます』
なぜ、夫婦なのに礼を言われるのか。
なぜ、彼女は一度も「寂しい」「もっと一緒にいたい」と言ってくれないのか。
ヴェンツェルは胸に引っかかる違和感を覚えながらも、踏み込む勇気を持てないまま、ただ「無理をするな」としか言えなかった。
ルッカが三歳になった頃、エリシアの身体は急速に弱まり、命の灯火を消した。
最期の言葉は、『ルッカを……お願いします』。握りしめた彼女の手は、もう二度と温かくならなかった。
『……エリシア。私は……お前に、何ひとつしてやれなかったな』
冷たくなった妻の前で、ヴェンツェルは生まれて初めて弱音を吐いた。
だが、その言葉が彼女に届くことは二度となかった。
失意と後悔のなか、後妻を求める周囲の声にヴェンツェルは心を閉ざした。
「もう二度と、誰かを巻き込みたくない」
だからこそ、彼は「契約結婚」を選んだ。愛情を求めず、期待せず、ただ役割だけを果たす関係。それならば、誰もエリシアのように傷つかずに済むはずだった。
───男爵家の令嬢、アルテミア・マルキオの釣書を見るまでは。
都合のいい契約相手として迎えたはずの彼女は、ヴェンツェルの冷たい予想を、その圧倒的な温もりで跡形もなく打ち砕いていくことになるのだった。
───現在。
「お母様」
「ん?」
ルッカの声で、ヴェンツェルは過去の暗闇から引き戻された。
庭のベンチ。アルテミアの膝の上に、ルッカがちょこんと座っている。
「ねえ、ルッカちゃん」
アルテミアはルッカの柔らかい髪を撫でながら、静かに語りかけた。
「今日はね……あなたを産んでくれた、もう一人のお母様のお話をしてあげようか」
「……もうひとりのお母様?」
ルッカが不思議そうに首を傾げる。
「ええ。とても優しくて、綺麗で、ルッカちゃんのことが世界で一番大好きだったお母様よ。あなたが生まれた時、とっても喜んでいたの」
「……ほんと?」
「ええ。だからね、ルッカちゃんにはお母様が二人いるのよ」
アルテミアは少し照れたように、けれど慈愛に満ちた瞳でルッカを見つめた。
「一人は、天国からずっとルッカちゃんを見守ってくれているお母様。そしてもう一人は……今、ルッカちゃんの隣で抱きしめているお母様」
「……! じゃあ、どっちもルッカのお母様?」
「そうよ。二人ぶん、いっぱいいっぱい愛されているの」
「……えへへ! どっちも大好き!」
無邪気に笑うルッカを、アルテミアは愛おしそうにぎゅっと抱きしめた。
その光景を離れた場所で見つめていたヴェンツェルは、胸の奥が激しく締め付けられるのを感じていた。
アルテミアは、自分の立場を守るために前妻の存在を消そうとはしなかった。それどころか、亡きエリシアの愛ごと受け入れ、ルッカに「あなたは二人のお母様に愛されている」と教えたのだ。
(……エリシア)
心の中で、かつての妻に深く頭を下げる。
(お前が命がけで遺した娘は……こんなにも温かい人に愛されている)
そして同時に、ヴェンツェルは己の愚かさを噛みしめていた。
傷つけないために距離を置くことが正解なのではない。大切だからこそ手を伸ばし、不器用でも言葉を重ねて踏み込んでいくことこそが「家族」なのだと、アルテミアが教えてくれた。
「……アルテミア」
ヴェンツェルはゆっくりと二人の方へ歩み寄った。
「旦那様?」
振り返ったアルテミアに、ヴェンツェルは静かに、けれど真摯に告げた。
「……ありがとう。ルッカを……そして、この家を大切にしてくれて」
「まあ……当たり前じゃないですか」
アルテミアは一瞬驚いたように目を丸くし、それからふわりと花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
「だって、私たちはもう『本当の家族』なのですから」
「……そうだな」
ヴェンツェルは胸の奥のつかえていたものが溶けていくのを感じながら、二人の頭を優しく撫でた。
言葉を恐れず、今度こそ逃げずに手を伸ばし続ける。かつて守れなかった過去の悔根を抱いたまま、目の前にいる大切な二人を、生涯をかけて愛し抜くのだと。
(……エリシア。私に免じて、空から見守っていてくれ)
今度こそ、築いてみせる。二人のお母様に愛された愛娘と、愛おしい妻と共に。
夕暮れ時のグラウエン公爵家に、三人分の温かな影が並んで伸びていた。
(第1章・番外編 完)




