第30話 未来の攻略対象王子からの予告状
───数日後。
グラウエン公爵邸には、以前の重苦しい沈黙が嘘のような、温かく穏やかな空気が流れていた。
「お父様、こっちー!」
「待て、ルッカ。庭でそんなに走ると転ぶぞ」
「だいじょうぶー!」
「大丈夫ではない。先ほども転びかけたばかりだろう」
「お父様が助けてくれたもん!」
「……そうだが、怪我をしてからでは遅い」
「じゃあ、次も絶対にお父様が助けてね!」
「……まったく、仕方がないな」
眩しい陽光が差し込む庭園を駆けるルッカの後ろを、ヴェンツェルがどこか目元を緩めながら歩いている。
かつて「戦場の死神」と恐れられ、一切の感情を殺していた男の面影はそこにはない。
「ルッカちゃん、転んだらお膝が痛くなっちゃうから、気をつけるのよ〜」
庭のベンチから、手作りのタルトと紅茶を準備したアルテミアが声をかける。
「はーい! お母様ー!」
元気に手を振るルッカ。その光景を横で見守っていた執事ベルトランが、感慨深そうに目元を緩めた。
「奥様、本日のお菓子も素晴らしい焼き上がりでございますな」
「ふふ、ありがとうございますベルトラン。旦那様も、最近はルッカちゃんと一緒にお菓子を召し上がってくださるから作り甲斐があります」
「ええ。昔の旦那様からは想像もつかない『温かな家庭』でございます」
そんな二人の会話に気づき、ヴェンツェルがルッカの手を引いて歩み寄ってきた。
そして、ごく自然な動作でアルテミアの持っていた重いトレーを受け取る。
「重いだろう。私が持つ」
「えっ、い、いいですよ! これくらい私が……!」
「持つと言っている」
「……はい、ありがとうございます」
アルテミアが大人しくトレーを渡すと、ルッカが嬉しそうにパチパチと手を叩いた。
「お父様、お母様のお手伝いしてる! えらーい!」
「……そうか」
ヴェンツェルの口元がかすかに緩む。アルテミアも思わず吹き出した。
「ふふっ。旦那様、最近ルッカちゃんのことになると本当に過保護で、素直になられましたよね。以前は『子供の世話は使用人に任せればいい』なんて仰っていたのに」
「……以前の私は愚かだった」
あまりにも即答だった。アルテミアが目を丸くする。
「……潔いですね」
「事実だからな。私はもう、二度とお前たちと過ごす時間を無駄にしたくない」
さらりと吐き捨てられた甘い言葉に、アルテミアの頬が瞬く間に真っ赤に染まる。
「っ……も、もう、旦那様ったら……!」
「お父様、お顔赤い! お母様も赤い!」
「ルッカちゃん、それは言わない約束よ……っ!」
誰もが微笑み、幸福な笑い声が庭園に響き渡る。
───その時だった。
「報告いたします! 公爵閣下、王宮より特使が到着いたしました!」
若い使用人が、切迫した様子で庭へと駆け込んできた。
「王宮から……?」
ヴェンツェルが眉をひそめる。
「緊急の軍務か?」
「いえ……それが、王太子殿下の御名……ではなく、第二王子ゼノヴィス殿下からの『親書』とのことでございます」
「ゼノヴィス殿下……?」
アルテミアが首を傾げた。
「第二王子様って……お幾つなんですの?」
「今年で六歳になられるはずだ。……だが、なぜあの子供が私に直接手紙など……」
不審に思いながらも、ヴェンツェルは使用人から羊皮紙を受け取った。
王家の紋章が入った豪華絢爛な封筒。だが、そこに書かれた宛名と本文は───お世辞にも上手とは言えない、力任せで拙い筆跡だった。
「……どれ」
ヴェンツェルが手紙を開き、目を通す。
隣からアルテミアもこっそり覗き込んだ。
そこには、六歳児の尊大な自尊心と変な正義感が爆発した、驚くべき文章が綴られていた。
『偉大なるグラウエン公爵ヴェンツェル殿へ!
俺は第二王子ゼノヴィス・ド・ゼーヴェンである!
王太子から話を聞いたぞ!
かつて帝国を恐れさせ、誰よりも冷酷で格好良かったお前が、最近すっかり腑抜けになったと!
娘と遊び、花を飾り、挙句の果てには菓子作りにまで手を出していると聞いた!
あり得ん! 許しがたい!
お前は俺の憧れの英雄なのだぞ!
お前をそんな腑抜けに変えたのは、新しく嫁にきたという“お飾り妻”の悪党女に違いない!
その女がお前を毒し、洗脳しているのだ!
安心しろ、ヴェンツェル!
俺様がその悪党女の化けの皮を剥がし、公爵家から永遠に叩き出してやる!
そして、ルッカという娘は俺の舎弟にして守ってやる!
近いうちに俺様自ら公爵邸へ乗り込み、その悪人妻を成敗してやるから覚悟して待っておけ!
以上!』
「………………」
静まり返る庭園。
読み終えたヴェンツェルは、手紙を握りつぶしそうなほど顔を大きく歪め、不機嫌そのものの低音で呟いた。
「……王太子殿下。余計な吹き込みを……あとで絶対に許さん……」
遠く離れた王宮で、王太子が盛大にくしゃみをしたことだろう。
一方、手紙を覗き込んでいたアルテミアはというと───。
「まあ……っ!」
両手を頬に当て、瞳を輝かせていた。
「まあまあ! なんて可愛らしいお手紙でしょう……!」
「……可愛らしい……だと?」
ヴェンツェルが呆然と妻を見る。
「ええ! だって、自分を『俺様』なんて言っちゃって! ヴェンツェル様に憧れていて、悪党から助けてあげようと一生懸命なんでしょう? 6歳児の尊大で不器用な正義感だなんて、愛おしすぎます!」
「……アルテミア、お前は『悪党女』と書かれて成敗すると言われているのだぞ?」
「ふふ、私成敗されちゃうみたいですね! 困りましたねぇ!」
全く困っていなさそうな満面の笑みである。
「でも、ヴェンツェル様。第二王子様は、それだけ貴方のことを格好いいヒーローだと思っていらっしゃるのね」
「……はぁ。あの子どもは昔から私を追い回しては『俺を鍛えろ』『強い男とは何か教えろ』とうるさかったのだ。私をなんだと思っているのか……」
頭を押さえるヴェンツェル。
だが、その様子を見つめていたルッカが、ぷくーっと頬を膨らませた。
「お父様」
「どうした、ルッカ?」
「この『ぜのびす』って王子様、お母様をいじめるの?」
「いや、いじめさせはしないが……」
「ルッカ、この王子様きらい! お母様を追い出すなんて許さないもん! 舎弟にもならないもん!」
小さな拳をギュッと握りしめて怒るルッカ。
ヴェンツェルは愛娘の頭を優しく撫でた。
「安心しろ。ルッカを誰の舎弟にもさせんし、アルテミアを追い出そうとする者がいれば、相手が王子だろうと私が叩き切る」
「旦那様、王子相手に穏やかじゃない物言いはやめてください!?」
アルテミアが慌ててツッコミを入れる。
ベルトランは静かに手紙を回収しながら、くすりと微笑んだ。
「しかし、これは近いうちに賑やかになりそうですな。第二王子殿下が本当に乗り込んで来られたら……」
「ええ!」
アルテミアはうきうきした様子で手を打った。
「その時は、とびきり美味しい甘いタルトをたくさん焼いてお出迎えしなくっちゃ! 6歳のお子様なら、きっと苺のタルトが喜ばれますわね!」
「……アルテミア、相手は一応『刺客』のつもりで来るのだぞ」
「あら、美味しいお菓子を食べたら、誰だって笑顔になっちゃいますよ?」
誇らしげに胸を張るアルテミア。
ヴェンツェルは呆れつつも、そんな彼女の温かい眩しさに、胸の奥が熱くなるのを止められなかった。
不器用で、尊大で、憧れの英雄を奪われたと思って突っかかってくる未来の攻略対象第二王子殿下。
彼が公爵邸に殴り込んできた時、一体どんな大騒動が巻き起こるのか。
そして───間違いなく、彼もまたアルテミアの作る甘い手料理と、ルッカの無邪気さと、変わってしまった(しかし幸福そうな)ヴェンツェルの姿に毒抜かれていくのだろう。
「……さて、ルッカ。王子が来る前に、お絵描きの続きをするか」
「うん! お父様、お母様の顔書いてー!」
「よし、任せろ。私の妻は世界一美しいからな、上手く書かねば」
「もうっ、旦那様ったら……!」
高らかな笑い声が、再び庭園に満ちていく。
冷たかった公爵邸に訪れた本当の春。
不器用な愛に包まれた家族の日常は、これからやってくる賑やかな珍客をも巻き込んで、どこまでも温かく続いていくのだった。
(第一章 完)




