第29話 「お父様、大っ嫌い」
朝。
グラウエン公爵邸は、どこかピンと張りつめた静けさに包まれていた。
ヴェンツェルが深手を負って帰還してから、数日。
命に別状はないと医師は太鼓判を押しているものの、未だに彼の意識は戻らない。
主寝室の大きなベッドには、痛々しい包帯を巻かれたヴェンツェルが静かに横たわっている。その傍らにはアルテミア。そして───。
「…………」
小さな椅子にちょこんと腰掛けたルッカの姿があった。
だが、以前のような無邪気で明るい笑顔はない。
「……お母様」
「どうしたの、ルッカちゃん?」
「……今日も、お父様……おきないね」
「そうね。……きっとね、お父様は命がけで頑張って、とってもお疲れなのよ。だから、もう少しだけお休みしているのね」
アルテミアは優しく微笑んだ。けれど、その笑顔がどこか痛々しく無理をしていることを、ルッカは見逃さなかった。
「……お父様、痛いのかな」
「少しは痛いかもしれないわね。でも、大丈夫。お医者様もしっかり診てくれているし、私たちもずっとお隣にいるもの」
「……うん」
ぽつりと返事をするルッカ。その声には、かつてのような安心感は全く含まれていなかった。
昼下がり。
アルテミアはルッカと一緒に庭へ出た。
いつもなら、二人でお花を摘んだり、絵を描いたりして過ごす穏やかな時間。
最近ではそこにヴェンツェルも加わり、輪投げをしたり、鬼ごっこをしたり、焼き立てのクッキーを食べたりしていた。ほんの少し前まで、それが三人にとって最高の『当たり前』だったのだ。
だからこそ、ルッカは何度もアルテミアの顔を不安そうに見上げていた。
「どうしたの? ルッカちゃん」
「……お母様」
「うん?」
「最近のお母様……変だよ」
アルテミアの花を摘む手が、ピタリと止まった。
「変……かしら?」
「変だよ!」
ルッカは小さな両手を胸の前でギュッと握りしめる。
「前はね……『お父様が起きたら、三人で一緒に遊ぼうね』って言ってたのに……最近は、全然言わない」
「…………」
「それに……お父様の部屋にいるときのお母様、すごく悲しそう。私には笑ってくれるけど……本当は、泣きそうなの……?」
五歳の幼子に、大人の契約や離縁の話なんて理解できるはずもない。
けれど、ルッカの鋭い感性は、大好きな母親が発する「別れの気配」を正確に察知していた。
アルテミアは固まった。そして、静かに息を吐くと、ルッカの小さな手包み込んだ。
「……ルッカちゃん。少しだけ、大事なお話をしましょうか」
ふたりは庭の木陰にあるベンチに腰を下ろした。
「お母様ね……お父様と、離縁することになったの」
「……りえん……?」
「そう。……お父様と、お母様が……バイバイすることになったのよ」
「……っ! なんで……!? なんでバイバイするの……!?」
ルッカの大きな瞳が動揺に揺れ、一瞬で涙が溜まっていく。
その問いに、アルテミアは苦しく胸を痛めながらも、穏やかに言葉を繋いだ。
「……お父様がね、それを望んでいるからよ」
「お父様が……? お母様のこと、きらいになったの……?」
「いいえ、そういうわけじゃないと思うわ。でもね、お父様には公爵様としての色々なお考えがあるの。お母様はね、お父様の気持ちを一番に尊重してあげたいの」
アルテミアは自分に言い聞かせるように、ルッカの髪を優しく撫でた。
「だから……お母様がいなくなった後も、ルッカちゃんが淋しくないように、料理長さんやベルトランにルッカちゃんの好きなものを全部教えておいたからね。だから、大丈夫よ」
「……やだ……っ」
小さな、悲痛な声だった。
「え……?」
「やだぁっ! お母様がいなくなるなんて、絶対にやだあぁぁっ!!」
ルッカはバタバタと首を振り、ポロポロと涙を溢れさせた。
「お母様とお父様と、三人でいるのがいい! 三人で遊ぶって……お父様、約束したもん! なのに……どうしてお母様をバイバイさせるの……っ!?」
「ルッカちゃん……ごめんね……ごめんね……」
アルテミアは涙を流すルッカを固く抱きしめた。
本当なら───自分だって、ずっとここにいたい。この温かい家で、ルッカの成長を見守り、冷たかった男が時折見せる不器用な優しさに胸を躍らせていたかった。
けれど、ヴェンツェルが離縁を望んでいる以上、自分に留まる権利はないのだと、彼女は自分を殺して納得させようとしていた。
その日の夕方。
ヴェンツェルの主寝室。アルテミアは一人、眠り続ける彼の傍らに座っていた。
「……ヴェンツェル様。今日、ルッカちゃんが泣いていましたよ」
静寂に包まれた部屋で、虚空へ向かって語りかける。
「貴方が目を覚ましたら、きっとあの子は喜びます……。でも……」
胸元へ手を遣う。そこにはもう、彼からもらった結納のネックレスはない。
事件の最中に切れ直したものの付ける気にはなれなかったネックレス、そして突きつけられた『婚姻契約解消合意書』。
やっぱりあのネックレスが切れたのは、二人の絆が終わるという神様からの宣告だったのだろう。
「……さようならを言う準備は、ちゃんと整えましたから……」
アルテミアが寂しげに苦笑した、その時だった。
「…………っ」
ベッドの上のヴェンツェルの指先が、ピクッと大きく動いた。
「……え?」
「……アル……テミア……」
掠れた、けれど確かに聞き覚えのある低い声。
薄っすらと開かれた紫紺の瞳が、焦点を結びながらアルテミアを捉える。
「ヴェンツェル様……!? 意識が……! 良かった……本当に良かった……っ!」
アルテミアは破顔し、目元に涙を溜めて彼の無事を神に感謝した。
ヴェンツェルは弱々しく手を伸ばし、彼女の頬に触れようとする。
「……泣くな……無事だ……」
「泣いてなんていません! 安心しただけです……っ」
まさにその時───。
バタンと大きな音を立てて、寝室の扉が叩き開かれた。
「お父様……っ!!」
「ルッカ……!」
涙で顔をグシャグシャにしたルッカが飛び込んできた。
ヴェンツェルは安堵の笑みを浮かべ、愛娘へ声をかけようとした。
「心配をかけたな、ルッカ。お父様はもう大丈夫───」
「……お父様なんて、大っ嫌い!!!!」
「……ッ!?」
ヴェンツェルの動きが凍りついた。
致命傷を負った時以上の衝撃が、彼の心を撃ち抜く。
「ル、ルッカ……? 大嫌いとは……どういうことだ……?」
「お父様なんて大嫌い! お母様がいなくなるって言ったもん! お父様がお母様を追い出すって言ったもん! バイバイなんて嫌だぁぁぁっ!!」
ルッカが叫びながら激しく泣きじゃくる。
ヴェンツェルの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「……何……? 追い出す……? 一体なんの話だ……アルテミア……!?」
驚愕の表情で自分を見つめてくる夫に、アルテミアは毅然と、けれど切なく答えた。
「そのままの意味です。あなたがベルトランを通じて私に手渡したでしょう? 『婚姻契約解消合意書』を……!」
「な……ッ!?」
ヴェンツェルは絶句し、必死に混濁した記憶を手繰り寄せた。
死線を潜り抜け、意識を失う直前に自分は何をした?
そうだ。ベルトランに指示して、あの書類をアルテミアに渡したのだ。
……だが!
「……ち、違う!! 違うぞアルテミア!!」
ヴェンツェルはガバッと起き上がろうとして激痛に顔を歪めたが、構わず叫んだ。
「私は離縁など望んでいない!! 私は……あの『お飾り妻』という不条理な契約を破棄したかったのだ!!」
「……え……?」
アルテミアが呆然と目を見開く。
「私は……お前を縛り付けていたあの冷たい契約を終わらせ、ただの『お飾り』ではなく……私の『本当の妻』としたかったのだ!!」
静まり返る部屋。
「……え? え……? ……離縁、じゃない……?」
「当たり前だ!! 誰が妻を手放すものか!! 私はお前に、ルッカの母親としてだけでなく……私の妻として、ずっと隣にいてほしいのだ!!」
死に瀕した男の、あまりにも必死な告白。
「…………」
アルテミアは数秒間、固まった。そして───。
「〜〜〜〜〜っっっ!! 紛らわしいんですよぉぉぉぉぉ受け取り側の気持ちも考えてくださいよバカぁぁぁぁっ!!」
顔を真っ赤にしたアルテミアが、ベッドの上の公爵に向かって叫んだ!
「私っ、私っ、てっきり捨てられたんだと思って……っ! ルッカちゃんが悲しまないように夜通し引き継ぎノート書いて……泣くのを必死で我慢してたのにぃぃぃっ!!」
「ぐ、す、すまない……! 私の説明不足だ……申し訳ない……!」
百戦錬磨の冷酷公爵が、半泣きの妻に全力で頭を下げている。
その様子を、ポカンと口を開けて見ていたルッカが、涙を拭いながら尋ねた。
「……お父様? お母様……いなくならないの……?」
ヴェンツェルはアルテミアを真っ直ぐに見つめ、優しく語りかけた。
「ああ。お母様はいなくならない。……いや、私の我が侭ではなく……アルテミアが、ここにいたいと望んでくれるなら……だが」
アルテミアは真っ赤な顔のまま、ボロボロと溢れる涙を拭った。
「……いたいですよ……っ! ここに……ルッカちゃんの隣にいたいに決まってるじゃないですか……っ!」
「お母様ぁぁぁぁっ!!」
「ルッカちゃんっ!」
ルッカがアルテミアの胸に飛び込み、二人は抱き合っておいおいと泣いた。
ヴェンツェルは胸を撫で下ろし、心から安堵したように息を吐いた。
「……本当に、よかった……」
「……ふんっ。ヴェンツェル様のバカ」
「……すまない」
「……でも、お帰りなさいませ。ヴェンツェル様」
涙を拭ったアルテミアが、満面の笑みを咲かせる。
ヴェンツェルもまた、見たこともないほど柔らかく微笑んだ。
「……ああ。ただいま、アルテミア」
───だが。
ルッカがふと、ヴェンツェルの顔を覗き込んだ。
「ねぇ、お父様」
「何だ? ルッカ」
「お顔、すごく赤いよ? お熱出たの?」
「…………っ!?」
顔をリンゴのように赤く染めたヴェンツェルが固まる。
「お顔赤い! お耳も赤い! お母様に『妻になって』って言ったから?」
「ル、ルッカ……っ、余計なことを言うな……っ!」
冷血公爵、五歳児の純真無垢なツッコミに完全敗北───。
部屋の中に、久しぶりの温かく弾けた笑い声が響き渡った。
切れたネックレスの真実、そして「本当の夫婦」としての新たなスタート。
グラウエン公爵家に、本当の春が訪れようとしていた。




