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ヤンデレ化阻止のために継娘へ愛を注いだら、公爵家が浄化されて冷血公爵まで無自覚に攻略していました  作者: 宮野夏樹
1章 悪妻、愛を注いで公爵家を浄化する

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第28話 残すもの、託すもの


 翌朝。


 グラウエン公爵邸の厨房では、朝の忙しい時間帯であるにもかかわらず、いつもとは違う緊張感が漂っていた。


「……奥様?」


 料理長は目を丸くし、己の目の前で真剣な面持ちで分厚い手記を開くアルテミアを見つめた。


「はい。早朝からすみません。少し、料理長にお願いしたいことがありまして」

「もちろんでございます、奥様。何なりとお申し付けください」


 アルテミアは柔らかく微笑んだ。


 だが、その笑顔の奥には、どこか痛々しいほどの寂しさが滲んでいた。


「私が……この家を離れることになった後も、ルッカちゃんや公爵邸の皆さんが健やかに過ごしていけるように、引き継ぎをしておきたくて」

「…………」


 料理長の顔が固まった。手にしていた包丁を置き、恐る恐る尋ねる。


「……離縁……でございますか?」

「ええ。まだ決まったわけではありませんけれど……旦那様が書類をご用意された以上、私もしっかり現実に向き合わなきゃいけないと思っているんです」


 アルテミアは努めて明るくうなずいた。


「大丈夫ですよ!  私がいなくなったからって、ルッカちゃんの好きなごはんが食べられなくなったり、生活が滅茶苦茶になったら困りますから!」

「…………」


 料理長は言葉を失った。


 この屋敷に嫁いできてから、アルテミアは何度も厨房へ足を運んでくれた。


 料理人たちの手間暇を心から労い、食材について学び、ルッカが何を好むのか、どうすれば楽しく残さず食べられるかを、一つひとつ熱心に覚えていたのだ。


 だからこそ、彼女の口から出た「いなくなった後」という言葉が、重く悲しく胸に刺さる。


「まず、ルッカちゃんの好きな料理の配合とコツをまとめました」

「……こちらでございますか」


 ノートには、細かな文字でびっしりと書き込まれていた。


 ───蜂蜜を少し入れたあたたかいミルク。

 ───出汁をきかせた、柔らかく焼いた卵料理。

 ───苺のジャムを少しだけ塗ったトースト。

 ───喉に詰まらせないよう、小さく切った一口サイズのパン。


 そして、その横には料理長が見覚えのない特製の配合が記されていた。


「……これは?」

「クッキーのレシピです。ルッカちゃんがすごく気に入ってくれたので、私がいなくなっても同じ味を作ってあげてほしくて」

「……奥様がお作りになった、あのクッキーですね」

「ええ。あと、こちらは食欲がない日用のお粥。こっちは雷が鳴った日、不安を和らげるための少し甘いスープ……」


 料理長はうなずきながらも、堪えきれなくなったように深く息を吐いた。


「奥様。……本当に、旦那様と離れるおつもりなのですか?」


 アルテミアの手がぴたりと止まった。


 胸元にそっと手を当てる。そこにはもう、あの結納のネックレスはない。


「……分かりません。本当は……したくありません。この家が、皆さんが、大好きですから」


 本音が零れ落ちる。料理長が息を呑むと、アルテミアは寂しげに目を伏せた。


「でも、旦那様がそれを望まれているなら、私はそれを尊重しなきゃいけません。だけど……ルッカちゃんまで傷つけるわけにはいかないんです。だから、私が去っても誰も困らないようにしたいんです」


 料理長は深々と頭を下げた。


「……承知いたしました。レシピはお預かりいたします。ですが……このレシピは、奥様ご自身がいつでも厨房に戻って来られるよう、大切に保管させていただきます」

「え……?」

「ルッカ様が愛しておられるのは、奥様の手料理でございます。ですから……私どもはいつでも、奥様のお戻りを歓迎いたしますよ」

「……料理長……ありがとうございます……っ」


 アルテミアの瞳に、温かな涙が溜まった。




 続いて、アルテミアは執務室へと向かった。


 デスクに向かっていた執事ベルトランが、すっと立ち上がる。


「奥様。お待ちしておりました」

「ベルトラン。少し相談が……これを、お願いしたいんです」


 アルテミアが差し出したのは、夜通し書き上げた一冊のノートだった。


 ベルトランが静かにページをめくる。


「ルッカ様の……生活記録、でございますか」

「はい。食事や睡眠のサイクル、遊びや教育の記録。それから……雷が鳴った夜や、悪夢を見た時の対応。甘えたい時の接し方を細かく書きました」

「……奥様。ここまでなさる必要が、ございますか?」

「必要です」


 アルテミアは迷いのない瞳で告げた。


「私が去った後も、ルッカちゃんに寂しい思いをさせたくありません。あの子はようやくここを『お家』だと思えるようになったんです。だから……この温かい家を壊したくないんです。私がいなくなったからって、昔の冷たかった公爵邸に戻るなんてこと、絶対にしたくありません」


 窓の外では、庭園で侍女と一緒にお花に水をやっているルッカの姿が見える。


「……ルッカちゃんが幸せなら、それでいいんです」


 ベルトランは拳を強く握りしめた。


 叫び出したかった。『違うのです、奥様。旦那様はあなたを追い出そうとしているのではない。お飾り妻の契約を破棄し、あなたを本当の愛する妻として迎え直したいのです』、と。


 だが……ヴェンツェル自身が「まだ自分の口から直接伝えていない」と言っていた。傷つき眠り続ける公爵に代わって、自分が勝手に真実を明かすわけにはいかない。


「……かしこまりました。この記録は、私が責任を持ってお預かりいたします」


 ベルトランは深くお辞儀をした。


「ただし……これは公爵邸の『至高の財産』として大切に保管させていただきます。奥様がここにいらっしゃる間も、そしていつまでも。ルッカ様を守るための、大切な宝物ですから」

「……はい。よろしくお願いします」


 アルテミアは感謝を込め、執務室を後にした。




 その頃。


 廊下の物陰に、小さな影がひとつぽつりと立っていた。


「…………」


 小さな胸をぎゅっと服の上から握りしめるルッカ。


 幼い耳に、先ほどの言葉が恐ろしい毒のように残っていた。


 ───私が離縁された後も。

 ───私がいなくなっても。


(お母様……?)


 昨日から、お母様の様子がどこかおかしかった。


 いつも優しく笑って抱きしめてくれるけれど、何かを整理している。何かを残して、遠くへ行ってしまおうとしている。


 幼いルッカの察知能力は、大人が思う以上に鋭かった。


(いなくなるの……?  お母様……わたしを置いて、いなくなっちゃうの……?)


 声にならない悲鳴が、小さな胸の中で渦巻いていた。




 同じ頃、主寝室。


 ベッドの上のヴェンツェルは、未だ深い暗闇の夢の中にいた。


 静かな呼吸。だが、夢の中の彼は必死に叫んでいた。


『お父様』

『旦那様……さようなら』

「待て……!  待ってくれ、アルテミア!!」


 去っていく二人の背中。手を伸ばしても、届かない。


 胸を裂くような絶望と恐怖が、冷酷だった公爵の心を打ちのめす。


(違う……!  私が渡したあの書類は、お前を捨てるためのものなどではない……! お前を『お飾り』の縛りから解放し、私の愛する『本当の妻』になってほしいのだ……!)


「アルテミア……行かないでくれ……!!」


 必死の叫び。眠る彼の指先が激しく痙攣する。


 だが……その声が現実のアルテミアに届くことはなかった。




 夕方。自室の窓辺に立つアルテミア。


 胸元にはもうないネックレス。けれど、手記を書き終えた心には、不思議な静けさがあった。


 庭でこちらを見つけたルッカが、ぱっと顔を輝かせて手を振る。


「お母様ー!」

「ルッカちゃーん!」


 アルテミアも最高の笑顔で手を振り返し、階下へ駆け下りて娘を力いっぱい抱きしめた。


「お母様?」

「ううん……なんでもないよ。今日もルッカちゃんは、世界一可愛いね」

「えへへっ!」


 嬉しそうに笑うルッカ。


 だが、抱きしめ返すルッカの小さな腕には、これまでにないほどの強い力がこもっていた。


(絶対……いかないで。お母様、お願いだからいかないで……!)


 互いを想うがゆえに深まっていく、すれ違いの泥沼。


 眠り続ける公爵が目覚めた時、この交差する愛はどのような結末を迎えるのか───。

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