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ヤンデレ化阻止のために継娘へ愛を注いだら、公爵家が浄化されて冷血公爵まで無自覚に攻略していました  作者: 宮野夏樹
1章 悪妻、愛を注いで公爵家を浄化する

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第27話 揺れる心と、残される家


 朝。


 窓の外が白み始めても、アルテミアは一睡もできていなかった。


 ベッドの傍らに置いた椅子に深く腰掛け、両手で固く握りしめた一枚の書類。


 それを何度も、何度も、穴があくほど読み返していた。───『婚姻契約解消合意書』。


 昨日、執事ベルトランから手渡されたヴェンツェルからの意思表示。


 そこには、自分たちが結婚した当時に交わした「お飾り妻としての契約」を正式に終了させる旨が記されていた。


 紙の末尾には、ヴェンツェルの流麗な署名と、格式高い当主印章。


「…………」


 アルテミアは書類から視線を外し、ベッドで静かに横たわる夫を見つめた。


 過酷な戦いの末に負った痛々しい傷。極度な疲労と出血。


 それらによって、彼は未だ深い眠りから目を覚ます気配はない。


「……どうして」


 絞り出すような小さな呟きが、静かな部屋にぽつりと落ちた。


 胸の奥が、壊れそうなほどきゅっと締め付けられる。


 自分は、どこで間違えてしまったのだろう。


 ヴェンツェルのことを怖がっていたわけではなかった。嫌っていたわけでもない。


 むしろ……最近の自分は、彼の存在があまりにも大きくなりすぎて戸惑っていたくらいなのだ。


 顔を合わせると心臓がうるさく跳ねて、うまく目を見られなくなる。


 彼がふと見せる柔らかい笑みに胸が熱くなり、ルッカと楽しそうに遊ぶ姿を見るたびに、自然と幸せで頬が緩んでいた。


 けれど───自分が真っ赤になって目を逸らすたび、彼はどこか寂しそうで、傷ついたような顔をしていた。


(あんな顔をさせて……私が避けていると、嫌われていると思わせてしまったの……?)


 ふと、胸元へ手を伸ばした。


 いつも身につけていた、あの繊細なシルバーネックレス。


 彼から結婚初日に結納の品として贈られた大切な宝物。


 昨日、彼が負傷したであろうまさにその瞬間に、突如として断ち切れた鎖。


(……これだったのね)


 掌の中に残った切れ端を思い出し、アルテミアは痛む胸を押さえた。


 あの瞬間、雷に打たれたように全身を駆け巡った恐ろしい胸騒ぎ。


 ネックレスが切れたのは───ヴェンツェルとの「夫婦の絆」が終わろうとしていた不吉な予兆だったのだ。


「……嫌だ」


 ぽつり。


 自分でも驚くほど素直で、惨めな声が漏れ出た。


 「……嫌よ……っ」


 アルテミアは手紙を固く胸に抱きしめ、ギュッと目を閉じた。


 離縁。


 その言葉が頭の中で恐ろしく響く。


 ヴェンツェルと別れる。公爵夫人ではなくなる。この温かい屋敷を出ていく。


 ……自分一人のことだけなら、我慢して受け入れることもできただろう。


 元々、この結婚はお互いの利害が一致しただけの契約結婚。自分はお飾り妻。そういう条件で嫁いできたのだから、捨てられたところで彼を責める資格なんてない。


 けれど───。


「……ルッカちゃんは……どうなるの……?」


 娘の名前を思い浮かべた瞬間、胸がちぎれそうなほどの激痛が走った。


 ルッカ。たった五歳の、傷ついた幼い女の子。


 この屋敷へ来て、ようやくトラウマから解き放たれ、心の底から笑えるようになった。甘えられるようになった。


 怖い時に「怖い」と素直に泣けるようになった。


 そして何より、ここを、この二人を『本当の家族』だと信じ始めていたのに。


(私がいなくなったら……あの子はどうなるの……!?)


 想像してしまった。




 朝、ルッカが目を覚ます。侍女が優しく着替えを手伝ってくれる。


 でも、そこに自分はいない。


『……お母様は?  お母様はどこ?』


 半泣きで尋ねるルッカに、屋敷の者たちはなんて答えるのだろう。


 『奥様はもういません』なんて地獄のような言葉を、あの子に聞かせることになってしまう。


「……っ……無理……そんなの、絶対に無理……!」


 涙がボロボロと溢れ出した。


 またあの子の幼い心に、「大好きだったお母様に捨てられた」なんて残酷な傷を刻むなんて、絶対に嫌だ。


 あんなに苦しんで、頑張って、ようやく癒えてきた笑顔を奪うことなんて、できるはずがない。


「……私が、しっかりしなきゃ」


 アルテミアは涙を指先でぬぐい、静かに立ち上がった。


 ベッドの上のヴェンツェルを見る。彼は何も知らない顔で、穏やかな呼吸を繰り返している。


「……旦那様。離縁すること自体は……私が我慢すればいいことです」


 震える声で、眠る彼に語りかける。


「私は大人ですもの、平気です。元々お飾りの契約だったんですから、泣いたってちゃんと立ち上がれます」


 自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。だが───。


「でも、ルッカちゃんは違います。あの子に……もう『いなくなる大切な人』を作りたくないんです」


 その瞬間、アルテミアの瞳に、哀しみを超えた強い決意の光が宿った。


 離縁がヴェンツェルの絶対の意思ならば、自分はそれを受け入れよう。


 けれど……出ていく前に、私にはやるべきことがある。


(……私がいなくなっても、この子が、この屋敷が……二度とあの冷たかった頃に戻らないようにしなくちゃ)


 自分が去った後も、ルッカが寂しい思いをしないように。


 ヴェンツェルとルッカが、二人でも温かく笑い合って暮らしていけるように。


 アルテミアは机に向かい、羊皮紙と一本の万年筆を取り出した。


 震える指先でインクを浸し、紙に文字を刻み始める。


 『ルッカちゃんの生活と、大切な約束事について』


 ───朝食は無理に食べさせず、食欲がない日は好きなものを少量ずつ。


 ───雷が鳴る夜は、絶対に一人にしないで抱きしめてあげること。


 ───怖いと言ったら否定せず、「大丈夫」と優しく背中をさすること。


 ───甘えたい仕草を見せたら、仕事の手を止めてしっかりと抱きしめること。


 ───眠れない夜は、お気に入りの絵本を静かな声で読んであげること。


 ───上手にお絵描きやお手伝いができたら、大げさなくらい褒めてあげること。


 ───泣いてしまった時、決して叱らずに理由を優しく聞いてあげること。


 カリカリと筆音が部屋に響く。


 書いている最中も、胸の奥が張り裂けそうに痛かった。


 本当なら……明日も、明後日も、十年後も、自分がずっと隣でやってあげたかった。成長を見守りたかった。


 ───けれど。


 「……私が去った後も、ルッカちゃんには、世界で一番幸せでいてほしいから……」


 ぽとり、と手記の上に一粒の大粒の涙が落ち、インクを滲ませた。


 アルテミアは慌てて目元を拭い、再びペンを走らせる。


 ルッカの食事の好み。体調を崩しやすい季節の変わり目のケア。


 公爵邸の使用人たちの得意分野と、それぞれの配慮すべき点。


 冷徹だった公爵邸が、ようやく「温かな我が家」になったのだ。その温もりを、自分が去った後も残していくために。


 それが、母親として、そしてひと時の妻として自分が遺せる最後の愛だった。




 その頃。


 ベッドの上で眠り続けるヴェンツェルの意識は、暗く深い夢の底にあった。


 誰もいない、冷たく寂しい荒野。


 遠くから、愛おしい声が届く。


『お父様!』

「……ルッカ……?」

『旦那様……』

「……アルテミア……!」


 二人の声を追いかけ、ヴェンツェルは必死に闇の中を走る。


 だが、どれだけ足を伸ばしても、二人の背中は遠ざかっていくばかりだ。


『さようなら、旦那様』

「待て……!  待ってくれ、アルテミア!!」


 届かない。手が届かない。


 冷酷だった己の心臓が、見たこともない恐怖で激しくのたうち回る。


「行かないでくれ……!  私は……私はお前たちと……あのあたたかい家へ帰るのだ……!!」


 眠るヴェンツェルの指先が、絶望に抗うようにぴくりと動いた。


 だが、現実のアルテミアはそれに気づくことはない。


 彼女はただ、夜が明けるまで休むことなく、己が去った後の「家族の未来」のための筆を走らせ続けていた。


 彼女のこのあまりにも健気で懸命な準備こそが───目覚めを待つヴェンツェルが最も恐れ、最も拒むであろう「最悪の未来」を引き寄せてしまっているとも知らずに。

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