第26話 帰ってきた家族、眠る公爵
深夜。
グラウエン公爵邸の玄関ホールは、重苦しい静寂と張り詰めた緊張感に包まれていた。
夕食の時間はとうに過ぎているにもかかわらず、煌々と燭台に明かりが灯されている。
廊下を行き交う使用人たちはみな口数を少なくし、何度も、何度も大きな壁時計を見上げていた。
「……まだ、お戻りになりませんね」
侍女のチセラが、溢れ出そうな不安を堪えるように呟いた。
「ああ。だが……旦那様は必ずお戻りになる」
執事ベルトランもまた、固い表情で重厚な扉の向こうを見つめている。
その隣には、祈るように両手を胸の前で合わせるアルテミア。そして───。
「…………」
小さな身体をあたたかい毛布に包んだルッカが、じっと玄関を見つめて立っていた。
「ルッカちゃん」
アルテミアはそっと屈み込み、娘の華奢な肩を抱きよせた。
「もうこんなに遅い時間よ。ルッカちゃんはお部屋のベッドで待っていましょうか?」
「……やだ。ここで待つ」
「でも、おめめが半分閉じているわ。眠いでしょう?」
「……お父様が帰ってくるまで、ぜったい待つの」
健気なルッカの瞳には、譲れない強い意思が宿っていた。
アルテミアは切なそうに眉を下げたが、その真っ直ぐな想いを拒むことなど到底できなかった。
「……そうね。じゃあ、一緒にお迎えしましょう」
「うん……!」
握りしめられた小さな手が、心細そうにアルテミアの指をぎゅっと握り返す。
「お母様……お父様、大丈夫かなぁ」
「大丈夫よ。旦那様はとっても強くて、凄絶なまでに格好いい人だもの。約束は絶対に破らないわ」
ルッカを安心させるように優しく微笑みながらも、アルテミア自身、胸の奥で渦巻く暗い胸騒ぎを必死で抑え込んでいた。
───大丈夫。きっと無事。事件は終わったと手紙にあった。なら、あとは無事に帰ってくるだけ。
そう、信じていた。その時だった。
「───来ました! 馬車です!!」
門番の叫び声が夜の静寂を破った。
「お父様……! お父様だーっ!」
パッと顔を輝かせたルッカが駆け出そうとするのを、アルテミアが慌てて追いかける。
ギィィィ……と重苦しい音を立てて大扉が開かれ、冷たい夜風がホールになだれ込んできた。
闇の向こうから現れた一両の馬車。荒い息を吐く馬の引き手を取り、御者が急いで扉を開け放つ。
「旦那様をお連れいたしました! 早く、担架をーっ!」
「……っ!?」
アルテミアの心臓が跳ね上がった。
馬車から担架が運び出される。その上に横たわっていたのは───血と煤に汚れ、ぐったりと目を閉じたヴェンツェルの姿だった。
顔色は青白く、裂けた軍服の間からは痛々しい包帯が覗いている。
「お父様……!? お父様ーっ!!」
「待って、ルッカちゃんっ!」
ショックのあまり駆け寄ろうとするルッカを、アルテミアは咄嗟に抱き止めた。自分自身の体がガタガタと震えているのが分かる。
「大丈夫……大丈夫よ、ルッカちゃん。旦那様は……生きて帰ってきてくださったわ。ちゃんと……帰ってきたのよ」
自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐアルテミア。
その瞬間、抱きしめられたルッカの目からポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「お父様ぁ……っ!」
「奥様!」
付き添っていた側近の騎士が、その場に固く膝をついた。
「ご報告いたします! 首謀者および残党は完全に鎮圧、拘束いたしました! ……ですが、最後の抵抗から領民と配下を庇われ、旦那様が負傷されました……!」
「……命に……命に別状は……!?」
「ございません! 医師の見立てでも、生命に関わるものではないとのことです。ただ……極度の魔力消費と出血により、お気を失っておられます」
「……あ……よかった……っ」
安堵の言葉が漏れた瞬間、アルテミアの膝から一気に力が抜け落ちた。
「奥様ッ!」
ベルトランが慌ててその身体を支える。
「すみません……安心したら、急に……」
アルテミアは涙で揺れる瞳で、担架の上の夫を見つめた。
冷徹で、無敵で、いつだって完璧だったあの人が、傷つき疲弊して倒れている。
それでも───生きて、自分たちの元へ帰ってきてくれた。
「……本当に、おかえりなさいませ……旦那様……」
細い声が、夜のホールに静かに溶けていった。
寝室。
医師による治療と処置が終わり、室内には穏やかなキャンドルの灯りだけが満ちていた。
「傷口は縫合いたしました。深手ではありますが、元々の生命力が非常に強い方です。ですが……過酷な疲労と過剰な魔力使用が重なっております。しばらくは目を覚まさないでしょう」
「……どのくらい、眠り続けられるのでしょうか」
「人によりますが……今夜一晩、あるいは丸一日ほどかと」
「分かりました。ありがとうございます」
医師を送り出し、アルテミアはベッドの脇にそっと腰掛けた。
静かに呼吸を繰り返すヴェンツェル。いつもなら隙のない鋭さで輝く紫紺の瞳は閉じられ、灰銀の髪が無防備に枕に散っている。
「……旦那様」
アルテミアはそっと、傷ついた大きな手に自分の手を重ねた。
「お疲れ様でした。約束通り……無事に帰ってきてくださって、本当に……ありがとうございます」
返事はない。けれどアルテミアは、溢れ出す想いを語りかけた。
「ルッカちゃん、ずっと待っていたんですよ。『お父様が帰ってくるまで寝ない』って聞かなくて……」
「……お母様」
ふと振り返ると、扉の隙間からルッカがそっと覗き込んでいた。
「ルッカちゃん。おいで」
トコトコと歩み寄ってきたルッカは、ベッドの上の父親を見ると、小さな両手でヴェンツェルの大きな手を包み込んだ。
「……お父様。かえってきてくれて、ありがとう」
幼い、けれど温かな声。
「また、いっぱい遊ぼうね。お絵描きも、輪投げも……鬼ごっこも、三人でお菓子を作るのも……ぜんぶ、またしようね」
小さな口からこぼれる約束の数々。言いながら、ふあぁ、とルッカが小さな大きな欠伸をした。限界だったのだろう。
「ふふ……ルッカちゃん、偉かったわね。今日はお休み。お父様が起きたら、全部一緒にやりましょうね」
「……うん。おやすみなさい、お父様……」
愛おしい娘を侍女に預け、部屋を見送ったアルテミアは、再び静まり返った寝室でヴェンツェルと二人きりになった。
「本当に……無茶ばかりするお方ですね」
冷たくなった夫の手を、自分の両手で包み込んで温める。生きて側にいてくれることへの感謝と愛おしさが、胸いっぱいに広がる。
その時だった。
コンコン、と控えめなノックとともにベルトランが入ってきた。
「奥様。……旦那様から、事前にお預かりしていたものがございます」
「え……? 旦那様から?」
「はい。『屋敷に戻ったら、何よりも先に奥様へ直接渡してほしい』と、出発前に固く仰せつかっておりました」
ベルトランが差し出したのは、公爵家の漆黒の封蝋が施された、上質な羊皮紙の書簡。
「……ありがとうございます」
アルテミアは不思議に思いながらそれを受け取った。
多忙な彼が、自分に残した書類。
今後の屋敷の管理についてだろうか。それとも、もしもの時の手続きだろうか。
震える指先で封を切り、中に折りたたまれた紙を広げる。
そこには、格式高い公爵家の紋章とともに、はっきりとこう印字されていた。
───『婚姻契約解消合意書』。
「…………え?」
アルテミアの思考が、真っ白にフリーズした。
(……え? こん……いん……けいやく……かいしょう……?)
指先が急速に冷たくなっていく。穴があくほどその文字を見つめる。
そこには、二人が結婚した当時に交わした「お飾り妻としての契約」を正式に破棄し、解消するための条項が、完璧な法的文書として記載されていた。
「……どう……して……?」
血の気が引いていく。眠るヴェンツェルの穏やかな寝顔を振り返る。もちろん、答えなど返ってくるはずもない。
(……解消……? 私との結婚を……終わりにするというの……?)
先日まで、あんなに温かな時間を過ごしていたのに。
三人で笑い合い、ルッカを抱きしめ、「家族」になれたと思っていたのに。
命がけで戦い、傷ついて帰ってきた彼が、自分に遺した最後の意思が───「契約の解消」?
(私は……旦那様にとって……一体、何だったの……?)
固く握りしめられた羊皮紙が、アルテミアの指の中で痛々しく歪んだ。
切れたネックレス。
理由のない不吉な胸騒ぎ。
そのすべてが、最悪の形で目の前に突きつけられたような気がした。
静かな寝室に、ヴェンツェルの穏やかな寝息だけが虚しく響く。
芽生えてしまった暗い疑念と絶望を胸に抱いたまま、アルテミアの長い夜は更けていくのだった。




