第25話 切れたネックレスと、母娘の約束
翌朝。
グラウエン公爵邸の朝は、いつもと変わらぬ穏やかさで明けた。
眩しい陽光が廊下に差し込み、厨房からは香ばしい焼き立てパンの匂いが漂う。
何一つ変わらない日常。───ただ一つ、アルテミアの手の中にある「それ」を除いては。
「壊れちゃったわけじゃ……ないのよね」
自室のドレッサーの前で、アルテミアは手の中の銀色の鎖を見つめていた。
昨日、庭園で不吉な音とともに弾け飛んだネックレス。
宝石にも留め具にも傷はない。ただ、華奢な銀の鎖がぷつりと半ばで切れているだけだ。
「お母様? なにつくってるの?」
パタパタという足音とともに、寝間着姿のルッカが部屋に駆け込んできた。
「あら、ルッカちゃん。おはよう。……ううん、何かを作っていたわけじゃないの。これ、昨日切れちゃったネックレスを見つめていただけよ」
「あ! お父様がくれたやつ……! 壊れちゃったの?」
ルッカが心配そうに眉を八の字にする。アルテミアは慌てて優しく微笑みかけた。
「ううん、大丈夫。鎖が切れちゃっただけだから、職人さんに頼めばすぐ元通りになるわ。……お父様が帰ってきたら、直った綺麗なネックレスを見てもらいましょうね」
「うん! お父様、早く帰ってくるといいね!」
「ええ、本当ね……」
ルッカを抱き上げて微笑み返しながらも、アルテミアの胸の深層にある暗いざわめきは消えなかった。
昨夜からずっと、理由のない不吉な予感が胸を締めつけている。
強くて頼もしい夫のことだ。事故など起きるはずもない───そう自分に言い聞かせても、一度生じたざわめきは波紋のように広がるばかりだった。
「お母様、ぎゅーってして!」
「ふふっ、はい、ぎゅーっ!」
甘えてくるルッカの温もりを腕の中に抱きしめ、アルテミアは小さく息を吐いた。
「ねえ、ルッカちゃん。お父様が帰ってきたら、何からしようか?」
「えっとね! 最初に『おかえりなさい』って言ってお顔を見るの! それからお絵描きと、鬼ごっこ!」
「また鬼ごっこ? 旦那様、また手加減なしで本気で走っちゃうかもしれないわよ?」
「お父様速いから楽しいの! それでね……最後は、三人でおいしいご飯をいっぱい食べるの!」
弾けるような笑顔で答えるルッカ。その純粋な言葉に、アルテミアの心が温かな光で満たされていく。
(そうね。私は何を不安がっているのかしら。旦那様は絶対に帰ってきてくださるわ)
その頃。王都からグラウエン公爵領へと続く街道。
「───止まれッ! 警戒せよ!」
騎士の鋭い叫びとともに、遠征部隊の馬車が停止した。
馬上で険しい顔を浮かべたヴェンツェルが、静かに進み出る。
「何事だ」
「前方に王都警備隊の簡易検問所が設置されています。一連の事件の残党が潜伏している恐れがあるとのことで、街道が一時封鎖されているようです」
「……足止めか。鬱陶しいな」
ヴェンツェルは苛立ちを隠さず不機嫌に眉をひそめた。
一刻も早く屋敷へ帰り、アルテミアの笑顔を見たい。ルッカを抱きしめたい。その一心で馬を走らせてきたのだ。
「旦那様」
側近が馬を並べ、密かに声を潜めた。
「お体に障ります。昨日の暴走魔導炉を抑え込んだ際の傷口……お召し物の下で、また血が滲んでおられるのでは?」
「……浅いと言ったはずだ。問題ない」
低い声で短く返す。
実際には、昨日の暴走魔導力による強烈な反動と瓦礫の衝撃で、右脇腹の傷口は深く開き、全身の筋肉が断続的に悲鳴を上げていた。動くたびに激痛が奔る。
だが、ここで足を止めるわけにはいかない。
アルテミアに、余計な心配をかけたくない。ルッカに、痛々しい姿を見せて怯えさせたくない。
(早く……何事もなかったかのような顔で、あの家に帰るのだ)
手綱を強く握り直したその時───!
「閣下! 報告です! 残党の幹部1名が検問の隙を突いて裏の森へ逃亡! 民家に迫りつつあります!」
「なんだと……!?」
紫紺の瞳が、一瞬で冷酷な猛禽の光を宿した。
「追うぞ! 奴を逃せば、領民に被害が出る!」
「旦那様、ですがそのお体で───!」
「構うな! 家族と領民を脅かす危険を、芽のうちに摘み取らぬ道理はない!」
ヴェンツェルは痛みを気迫でねじ伏せ、馬の腹を蹴った。
同刻───グラウエン公爵邸、応接室。
「奥様、修理を依頼いたしました宝飾職人からの返答でございます」
執事ベルトランが恭しく差し出した書類を、アルテミアは受け取った。
「職人が言うには、メインの宝石や台座には一切の傷が無く、鎖の交換だけで完全に元通りになるとのこと。ご安心くださいませ」
「……よかった。本当にありがとうございます、ベルトラン」
安堵の息を漏らしながら、アルテミアは手元に置いた小さな箱を愛おしそうに撫でた。
ヴェンツェルから贈られた、唯一の結納品。
最初は政略結婚の形だけの品だと思っていたけれど、今ではこの家で積み重ねてきた大切な思い出そのものだ。
「早く、旦那様に見せてあげたいわ……」
「ふふ、きっと公爵閣下も、奥様がそれほど大切に身につけてくださっていると知れば、お喜びになりますな」
そこへ───パタパタと慌ただしい足音が響き、応接室の扉が勢いよく開いた。
「お母様! お母様っ!! お父様からのお手紙!」
「えっ……!?」
息を切らしたルッカの手には、グラウエン公爵家の漆黒の封蝋が施された一通の書簡。
「今朝、早馬の使者が届けてくれたの!」
「まあ……!」
アルテミアは跳ね起きるように手紙を受け取り、震える指先で封を切った。
中に滑り出てきたのは、ヴェンツェルらしい、無骨で飾りのない短文。
『一連の任務はすべて終了した。近日中に帰還する。待っていなさい』
「……もう、相変わらず素っ気ないんだから」
アルテミアの目からぽろりと溢れ出たのは、安堵の涙だった。
「お母様、なんて書いてあったの!?」
「もうすぐ、お父様が帰ってくるって! 任務が無事に終わったそうよ!」
「やったぁぁぁ!! お父様が帰ってくるー!」
ルッカがピョンピョンと跳ね回り、ベルトランも目元を緩ませて深く頭を下げた。
手紙を胸に固く抱きしめ、アルテミアは窓の外の澄み渡る青空を見上げた。
(よかった……本当に、無事だったのね。私の思い過ごしだったんだわ)
不安は完全に吹き飛んだ───そう信じて疑わなかった。
だが、アルテミアは知らなかった。
この手紙が書かれたのは「昨日」であり、今まさにヴェンツェルが、己の命を削って激闘の渦中にいることを。
夕暮れ時。街道脇の深い森の中。
「ハァ……ハァ……くそっ、公爵家の狗どもめ……!」
追いつめられた残党の男が、血走った目で立ちふさがる樹々を見渡していた。
その背後から、落ち葉を踏み散らす足音が迫る。
「そこまでだ」
「……ひっ!?」
樹々の影から姿を現したのは、深紅の血で軍服を染めたヴェンツェルであった。
「な、なんだその姿は……お前、死にかかっているじゃないか!」
「黙れ。我が領の土を踏み、民を脅かそうとした罪……万死に値する」
「ふざけるな! 道連れにしてやるーっ!!」
男が懐から取り出したのは、自爆用の高濃度魔導結晶。怪しい光が膨れ上がる!
「危険です、旦那様! お下がりを!」
「下がっていられるかッ!」
ヴェンツェルは迫る爆風に対し、避けるどころか自ら踏み込み、強大な魔力の壁を展開した。
ドゴォォォォォ───と凄まじい轟音が響く!!
凄まじい衝撃波が森を揺らす。騎士たちを爆風から庇い切ったヴェンツェルだったが、その代償としてまともに衝撃を浴び、激しく木々に叩きつけられた。
「グハッ……!?」
口から鮮血が吐き出され、膝から崩れ落ちる。
「旦那様ーッ!!」
「……逃がすな……拘束しろ……」
意識が遠のきそうになる中、ヴェンツェルは凄まじい執念で男を指さした。騎士たちが雪崩れ込み、残党を完全に制圧する。
静撃が戻った森の中で、ヴェンツェルは血に汚れた手で必死に上体を起こそうとした。
「旦那様、動かないでください! 傷が……傷が開いて大量出血が!」
「……構うな……馬を出せ……」
「無茶です! 今すぐ応急手当を───」
「……帰るのだ……」
ヴェンツェルは落ちていた手綱を固く握りしめた。
朱に染まる夕空を見上げる。あの屋敷でも、今頃アルテミアとルッカがこの夕焼けを見ているだろうか。
(待っている……私を待っているのだ……)
血の気が引いていく身体を奮い立たせ、冷血公爵は立ち上がった。
ただ、二人の待つ「家」へ帰るために。
公爵邸。夕闇が包み込み始めた窓辺で、アルテミアはふと胸元を押さえた。
「……? なにかしら、この違和感……」
手紙を読んで安心したはずなのに、箱にしまった切れたネックレスが、まるで警鐘を鳴らすように胸の奥で重く冷たく存在感を主張している。
「お母様? お空、きれいだね」
「……ええ、そうねルッカちゃん」
アルテミアは不安を隠し、ルッカの小さな手を優しく握りしめた。
「お父様、明日は帰ってくるかなぁ?」
「ええ。きっと……笑顔で『ただいま』って帰ってくるわ。だから私たちも、とびきりの笑顔で迎えてあげましょうね」
「うんっ!!」
母娘は互いに微笑み合い、夕闇の空に祈りを捧げる。
だが───二人はまだ知らない。
命がけで帰還しようとしているヴェンツェルの身体が、すでに限界を超えて悲鳴を上げていることを。
そして、切れたネックレスが暗示する「本当の波乱」が、目と鼻の先まで迫っていることを───。




