第23話 冷血公爵の留守番妻と、初めての「お願い」
ヴェンツェルが王都へ向かってから、五日目。
公爵邸は、かつての静けさが嘘のように温かな活気に満ちていた。
「お母様、今日もお庭でお絵描きして、お菓子作って、ぜーんぶする!」
「ふふっ、ルッカちゃんは欲張りさんねぇ」
「だって、お父様が帰ってくるまで、いっぱい遊ぶんだもん!」
朝食の席で無邪気に笑うルッカを見つめ、アルテミアの胸がじんわりと熱くなる。
以前なら「お父様がいない」という状況だけで顔を曇らせ、捨てられる恐怖に怯えていた小さな少女が、今は「指切りしたから大丈夫!」と笑顔で信じて待つことができるようになっている。
(ルッカちゃん、本当に強くなったなぁ……)
しかし、長年積み重ねられた心の傷というものは、そう簡単に消え去るものではない。
その小さなフラッシュバックは、午後の穏やかな厨房で突然訪れた。
「ルッカちゃん、クッキーの型抜き、とっても上手よ!」
「お花のかたち! お父様にあげるの!」
楽しそうに生地を丸めていたその時───。
「奥様、追加の小麦粉をお持ちし───きゃっ!?」
手伝いに入った新人侍女が足を滑らせ、作業台の角に小麦粉の袋を激しくぶつけてしまった。
───ドサッ!!
大きな音とともに大量の白い粉が舞い散り、床が一瞬で真っ白に染まる。
その音を聞いた瞬間、ルッカの顔からさっと血の気が引いた。
「───っ! ご、ごめんなさいっ!!」
「ルッカちゃん!?」
「ごめんなさい! 私、ちゃんとするから! 捨てないで! 叩かないで……ッ!」
ガタガタと小さく体を震わせ、頭を抱えて縮こまるルッカ。
小麦粉を落としたのは侍女なのに、「何か失敗した=自分が怒られる、罰せられる」と脳と体が反射的に思い出してしまっているのだ。
アルテミアは胸を締めつけられながら、すぐさま床に膝をつき、ルッカの小さな体を優しく抱きしめた。
「ルッカちゃん、大丈夫よ。今のはルッカちゃんのせいじゃないわ」
「……でも、壊れちゃった……汚れちゃった……っ」
「いいのよ。落としちゃったら、掃除すればいいの」
「……お、怒らない……? 失敗したのに……?」
涙目で顔を上げるルッカに、アルテミアは満面の笑みを向けた。
「怒るわけないでしょう! たかが小麦粉よ? ルッカちゃんが小麦粉を一万袋ぶちまけてお屋敷を真っ白にしたとしても、お母様はルッカちゃんを絶対に嫌いにならないわ!」
「い、一万袋……!?」
「ええ。さすがにそんな大量の小麦粉の掃除はベルトランが白目を開いちゃうかもしれないけれどね」
「ふふっ……くすっ!」
アルテミアのお茶目な冗談に、ルッカから思わず小さな笑い声が漏れた。
アルテミアはルッカの手を取り、優しく微笑みかける。
「失敗はね、悪いことじゃないの。人間だもの、誰だって失敗するわ。だから、そんなことでルッカちゃんが責められる必要なんてどこにもないのよ」
「……ほんとう?」
「本当よ。だから、一緒にお掃除しましょうか!」
侍女が涙を浮かべて「申し訳ございません奥様……!」と深々と頭を下げるのに対し、アルテミアは「誰にでも失敗はありますよ」と爽やかに返した。
(この屋敷では「失敗しても怒鳴られない」という当たり前の優しさが、少しずつ浸透し始めている)
その日の夕方。庭園の花壇にて。
「お母様、ここに植えるの?」
「そうよ。小さな白い花。お父様が帰ってくるまでに、綺麗に咲くといいわね」
ルッカはぽんぽんと小さな手で土を叩き、「お花さん、お父様が帰ってくるまで頑張ってね」と優しく話しかけていた。
そして、少しだけ恥ずかしそうに下を向きながら、アルテミアの裾をギュッと掴んだ。
「……お母様」
「なあに、ルッカちゃん?」
「お願いがあるの……。お父様が帰ってくるまで……お母様と、毎日いっしょに寝てもいい……?」
小首を傾げるルッカの瞳には、ほんの少しの不安が混ざっていた。
「……邪魔じゃない……?」
その言葉に、アルテミアの胸が痛む。
五歳の子供が、母親に甘えることすら「自分は邪魔かもしれない」と配慮しているのだ。
アルテミアはルッカの頬を両手で包み込み、まっすぐ目を見つめた。
「邪魔なわけないでしょう! ルッカちゃんが甘えてくれて、お母様はとっても嬉しいのよ。抱っこしても、何回名前を呼ばれても、わがままを言っても、全部全部うれしいの!」
「……ホント……?」
「本当よ! だから今日からずっと、一緒のお布団で寝ましょうね!」
「……わぁぁん! お母様、大好きぃ!」
ルッカは弾かれたようにアルテミアの胸へ飛び込み、ぎゅっと抱きついた。
遠くからその光景を見守っていたベルトランは、そっと目元を拭った。
(……ルッカ様が、ご自分の『欲』を口にできるようになられた……。奥様は本当に、このお屋敷の救いでございますな)
その夜。アルテミアのベッドの中。
絵本を二冊読み終え、とろんと重くなった瞼をこすりながら、ルッカが小さく呟いた。
「……お父様が帰ってきたらね、また三人で鬼ごっこしたいな」
「ええ、そうね。今度は旦那様にも手加減してもらいましょうね」
「それでね……お父様と、お母様と……ずっと、ずーっと一緒がいいの」
それは、かつて自分の存在を消すように生きてきたルッカが、初めて口にした未来への『願い』だった。
「……うん。ずっと一緒にいようね。絶対に離れないわ」
「……ふふ、お母様、だいすき……」
「私も大好きよ、ルッカちゃん」
安心しきった顔で、小さな寝息を立て始めるルッカ。
アルテミアはその愛おしい頭を静かに撫で続けた。
(急がなくていいのよ。少しずつ、『愛されている』って信じられるようになればいいんだから……)
一方───同じ頃、王都。皇宮直属の魔導研究室。
「……公爵閣下。これで【四日】不眠不休で作業されています。せめて一時間の仮眠を……」
側近の騎士が悲壮感漂う顔で訴えるが、ヴェンツェルは書類から目を逸らさない。
「問題ない」
「大問題です! 人間の限界を超えております!」
「……黙れ。一刻も早くこの件を片付けねばならんのだ」
ヴェンツェルの瞳は、恐ろしいほどの集中力で苛烈に冴え渡っていた。
魔導機関の異常発生。行方不明の元宮廷魔導士。
そして、ヴェンツェルが解き明かした真実───これは破壊工作ではなく、帝国の全魔導炉の制御権を強奪するための【書き換えプログラム】だったのだ。
「相手の狙いは分かった。敵の潜伏先もほぼ特定した。……明日、一気に叩き潰す」
「は、はっ!」
冷酷かつ迅速に指示を飛ばすヴェンツェル。
だが、彼が立ち上がった拍子に、胸ポケットから一枚の紙切れが床へ滑り落ちた。
「おや……? 閣下、落とし物が」
「触るな」
素早い手つきでそれを拾い上げるヴェンツェル。
そこには、王都へ発つ直前にルッカが描いてくれた、歪だが温かい『三人で手を繋ぐ家族の絵』があった。
(……ルッカ。アルテミア)
絵を見つめる冷血公爵の目元が、ほんのわずかに、けれど確かな熱を帯びて柔らかく緩む。
(待っていろ。……明日にはすべてを終わらせ、お前たちの元へ帰る)
かつて戦うことしか知らなかった男の胸に宿った、揺るぎない「帰るべき場所」。
冷血公爵ヴェンツェルは、家族との約束を果たすため、決戦の地へと足を踏み出すのだった。




