第22話 冷血公爵、娘を妻に託す
「皇太子殿下からの極秘勅命でございます!」
その言葉が廊下に響き渡った瞬間。
ヴェンツェルの顔から、先ほどまでの「妻に契約破棄がしたいのに邪魔される」という情けないほど切実な表情が瞬時に消え去った。
代わりに現れたのは───帝国軍事顧問にして『戦場の死神』と恐れられる、冷徹な公爵の顔だった。
「……見せろ」
「はっ!」
側近の騎士が懐から取り出したのは、漆黒の封蝋が施された書簡。
皇室の紋章、そして緊急時のみに使用される特殊な黒蝋。それを見た瞬間、ヴェンツェルの紫紺の瞳が鋭く細められた。
封を割り、書面へ素早く目を走らせる。
「……王都で、魔導機関の異常事故が連続して発生しているな」
「はい。単なる老朽化や操作ミスでは説明がつかない規模で……」
「三日前に帝都南区で魔導炉が一時停止。翌日には軍用輸送網の制御が暴走。そして昨夜、皇宮直属の魔導通信網が一部遮断された……フッ、完璧な順序だ。何者かが意図的に魔導技術そのものへ攻撃を仕掛けている」
ヴェンツェルは冷ややかな声で断じた。
「皇太子殿下より直々の調査および鎮圧の命が出た。……今すぐ王都へ発つ」
「ハッ! 直ちに遠征の準備を整えます!」
騎士が疾走していく背中を見送りながら、ヴェンツェルはそっと自分の胸ポケットに手を伸ばした。
指先が触れるのは、一通の紙───『婚姻契約改定案』。
(……またしても、告げられなかったか)
己の間悪さに苦笑しつつも、公爵としての顔を崩さない。
だがその時、タタタッと廊下に響く小さな足音が聞こえた。
「お父様! どこか行くの?」
駆け寄ってきたのは、ルッカだった。
ヴェンツェルはその場にすっと膝をつき、目線を5歳の娘と同じ高さまで下げる。
「……少しだけ、王都へ行かなければならない。仕事だ」
「いつ帰ってくるの……?」
不安そうに首を傾げるルッカ。
以前のヴェンツェルなら「仕事が終わればだ」と冷淡に答えていただろう。だが今は、帰りを待つ娘の存在が胸を締めつけるほど愛おしい。
「できるだけ早く帰る。……ルッカ、約束だ」
「ゆびきり!」
差し出された小さな小指。ヴェンツェルは戸惑いながらも、己の大きな小指をそっと絡めた。
「……指切り、だな」
「うん! ゆびきりげんまん!」
「……ルッカ。私がいない間、お母様の言うことをよく聞くんだぞ。……それと」
ヴェンツェルは少しだけ言葉を詰まらせ、不器用に娘の頭に手を置いた。
「怖いことがあったら、我慢しなくていい。寂しいときは寂しいと言え。泣きたいときは……泣いて構わない」
「……お父様?」
ルッカがぱちぱちと瞬きをする。
「なんだか今日のお父様、へん!」
「……父親らしいことを言ってみただけだ」
ふいっと視線を逸らす冷血公爵。ルッカが「ふふっ!」と楽しそうに笑う。その姿を見ていたアルテミアが、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「旦那様。……ルッカちゃんは任せてください」
「アルテミア」
「安心してお仕事に行ってきてくださいね。ルッカちゃんと一緒にお留守番していますから」
「……頼む」
ヴェンツェルは立ち上がり、妻の瞳をまっすぐに見つめた。伝えたい言葉は山ほどあったが、今は胸の奥に仕舞い込む。
「……帰ってきたら、また三人で遊ぼう」
「ええ! 今度はクッキーじゃなくて、もっと美味しいお菓子を作りましょうね!」
「……楽しみにしている」
自然と口から出た言葉に、ヴェンツェル自身が驚いていた。
二人を残し、王都へ向かって歩き出す。数歩進んで振り返ると、アルテミアの隣で元気に手を振るルッカの姿があった。
「お父様ー! いってらっしゃーい!」
ヴェンツェルは静かに手を振り返した。その瞳には、二度と消えることのない「家族」への情愛が宿っていた。
ヴェンツェルが発ってから、三日が過ぎた。
「お母様! 見て見てー!」
公爵邸の庭園。ルッカが色鮮やかなお花を両手いっぱいに抱えて走ってくる。
「まあ綺麗! ルッカちゃんが摘んでくれたの?」
「うん! お父様が帰ってきたら、あげるの!」
「ふふっ、きっと大喜びするわね」
かつてのルッカなら、父親が不在になれば「自分は捨てられたのかもしれない」と怯え、部屋の隅で膝を抱えていただろう。だが今のルッカは、「帰ってくるお父様」を信じて目を輝かせていた。
……けれど。夜になり、ベッドに入ると、小さな胸にふっと寂しさが押し寄せてくる。
「……お母様」
「なあに、ルッカちゃん?」
「……お父様、いつ帰ってくる?」
「そうねぇ。お仕事が片付いたら、飛んで帰ってくるわ」
「……ちょっとだけ、寂しい」
窓の外を見つめるルッカに、アルテミアは優しく微笑み、ベッドの隣に腰を下ろした。
「そっか。じゃあ今夜は、お母様がルッカちゃんを限界まで甘やかす『甘やかしデー』に決定ね!」
「甘やかしデー……?」
「そう! 何をしても怒らないし、ルッカちゃんの願い事をなんでも叶えちゃう日!」
アルテミアはルッカを膝の上に抱き上げ、よしよしと髪を撫でた。
「お父様がいなくて寂しいときはね、我慢しなくていいの。『寂しい』って泣いていいし、怖かったら『怖い』ってお母様に抱きついていいんだよ」
「……ほんと?」
「ほんと。ヴェンツェル様もね、出かける前に言っていたのよ。『ルッカが寂しがっていたら甘えさせてやってくれ』って」
「お父様が……?」
「そうよ。お父様はね、ルッカちゃんとの約束を守るために、今すごーく頑張ってお仕事をしているの。だから、安心して待っていていいのよ」
ルッカはキュッとアルテミアの服の胸元を掴み、そこに顔を埋めた。
「……お父様、あいたい」
「うんうん」
「……ちょっとだけ、帰ってこなかったらどうしようって怖かった」
「大丈夫。絶対に帰ってくるわ。お母様が保証する!」
アルテミアはギュッと小さな身体を抱きしめた。
「ルッカちゃんにはね、お母様もいる。ベルトランも、チセラも、屋敷みんながいる。そして遠くには、ルッカちゃんを大好きな『お父様』がいるの。一人じゃないのよ」
「……うん! お母様といっしょに、お父様を待つ!」
「ええ、一緒に待とうね!」
その夜、ルッカはアルテミアの腕の中で、恐怖から解き放たれたように穏やかな寝顔で眠りについた。
翌日には「お父様に見せる!」と言って、三人で手を繋ぐ幸せそうな家族の絵を完成させたのだった。
(ルッカちゃんが『帰ってくる人を信じて待つ』ことを覚えた……! これで雷雨のトラウマは完全に克服ね!)
アルテミアは愛おしそうに娘の頭を撫でながら、ふと窓の外───王都の方角を見つめた。
(……旦那様。無事に帰ってきてくださいね)
自分の胸の奥で芽生えた「彼を待つ愛おしさ」に、アルテミア自身はまだ気づいていない。
同じ頃───王都、皇宮地下の極秘魔導研究区画。
「……これは」
ヴェンツェルの前に立ちはだかるのは、見慣れぬ怪しげな漆黒の魔導演算装置。
そこに刻まれていたのは、ゼーヴェン共同推進王国の失われつつある古代紋様と、異常な密度の魔力回路だった。
「ヴェンツェル」
影から現れた皇太子が、厳しい表情で一束の極秘資料を手渡す。
「今回の魔導暴走を引き起こした主謀者……この研究者の名に見覚えはあるか?」
ヴェンツェルは資料に目を走らせた。
「……まさか。これは、数年前に追放された元宮廷魔導士……」
「そうだ。奴はゼーヴェンの裏組織と手を組み、帝都全体の魔導炉を暴走させようとしている。……ヴェンツェル、頼めるか?」
「言われるまでもありません」
ヴェンツェルは冷酷な眼光を宿し、書類を懐へ収めた。
「私は……一刻も早く公爵邸へ帰らねばならないのです」
皇太子が驚いたように目を丸くする。
「……あの『死神』と呼ばれたお前が、『家に帰る』だと?」
「……娘と、約束をしましたので」
ヴェンツェルは胸ポケットの『婚姻契約改定案』をそっと指で確かめた。
(待っていろ、アルテミア、ルッカ。……私は必ず、あのあたたかな場所へ帰る)
冷血公爵の胸には、かつてなかった「帰るべき愛おしい我が家」が、確かに存在していた。




