第21話 冷血公爵、妻に大事な話ができない
午後。グラウエン公爵邸の執務室。
ヴェンツェルは重厚な執務机の前に座っていた。
目の前には山のように積まれた公文書。いつもならば、どれほど難解な軍略書や領地経営の試算表であっても、不敵な笑みを浮かべて瞬時に処理してみせるのが彼という男だ。
しかし───。
「…………」
今日は、一枚目の書類からまったくペンが進んでいなかった。
ヴェンツェルの紫紺の瞳がじっと見つめているのは、机の片隅に置かれた一通の羊皮紙。
───『婚姻契約改定案』。
昨夜、執事ベルトランに命じて作成させたものだ。
そこには、結婚初日に交わした契約の文言───夫婦間の不干渉、情愛の放棄、お飾り妻としての役割の限定───それらすべてを無効化し、正式な夫婦としてやり直す旨が記されていた。
(……破棄すると決めた。だが……)
ヴェンツェルは苦々しく眉間を押さえた。
(……何と言って切り出せばいいのだ?)
帝国の敵軍に降伏を迫るほうが百倍容易い。政敵とのドロドロとした駆け引きのほうが遥かにシンプルだ。
妻に、アルテミアに、己の胸の内を明かす。そのアプローチ方法だけが、彼の膨大な戦術データベースのどこを探しても見当たらなかった。
(……私は彼女をどう思っている?)
彼女が笑うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ルッカと二人で楽しそうにしている姿を見ると、理由もなく微笑んでしまう。
自分から目を逸らされると、世界から拒絶されたかのように胸が痛む。
そして───昨日、一昨日と三人で過ごした、あのささやかで愛おしい時間。
(……私は、二度とあの温もりを手放したくない)
答えは最初から出ていた。
「……よし」
ヴェンツェルは意を決して立ち上がった。今日こそ、今日こそアルテミアにこの書状を渡し、自分の想いを告げる。
固い決意を胸に、公爵は執務室のドアを開けた。
庭へ続く陽の差し込む廊下。
ヴェンツェルは、ルッカと何やら楽しそうに話しているアルテミアの姿を見つけた。
「お母様! 次は何してあそぶの?」
「そうねぇ、昨日も一昨日もたくさん走ったから、今日は少し日陰で……あ、旦那様」
アルテミアがこちらに気づいて振り向いた。
「ちょうど良かったです!」
「…………」
ヴェンツェルは内心で深く息を吸い込み、気合いを入れた。
(今だ。私らしく、毅然と切り出すのだ)
「アルテミア。少し、大事な話が───」
「お父様ーっ!」
ドスドスと音を立てて走ってきたルッカが、勢いよくヴェンツェルの脚に飛びついた。
「今日はお絵描きしよ! お父様、今日はお絵描きの気分!」
「…………」
ヴェンツェルは言葉を詰まらせ、完全に固まった。
「昨日は輪投げで、朝はクッキーでしょ? だから今はお絵描き!」
「……そ、そうか」
「旦那様もご一緒にいかがですか? ちょうどスケッチブックを用意したところなんです!」
アルテミアが満面の笑みを向けてくる。
娘の期待に満ちたキラキラとした瞳。妻の太陽のような笑顔。
冷血公爵の選択肢に「断る」の二文字は存在しなかった。
「……分かった。参加しよう」
「やったー!」
(……後で話せばいい。まずは、二人の笑顔を優先だ)
こうして、第一回目の「大事な話」はあっけなく霧散した。
一時間後。テラスに置かれたテーブルにて。
「お父様、何描いてるの〜?」
「…………」
ルッカが覗き込んだヴェンツェルのスケッチブックには、息をのむほど精密な城の建築図面……もとい、緻密すぎるスケッチが描かれていた。城壁の石組みから塔の尖端、周辺の防衛地形に至るまで完全再現されている。
「すごーい! お父様絵がじょうず!」
「……そうか?」
ほんの少しだけ得意げになる公爵。だが、ルッカは首を傾げた。
「でもね、これ家族の絵じゃないよ? お父様しか描いてないもん」
「…………」
ヴェンツェルはピクッと固まった。
横からスケッチブックを覗き込んだアルテミアも、くすくすと笑う。
「本当ですね……旦那様、これは『家族の絵』ですよ? お城の壁画ではありません」
「…………」
ヴェンツェルは無言でペンを取り直すと、城の広場の隅っこに、米粒のような小さな人物を一人、さらにもう一人描いた。
「……これでどうだ」
「わぁ! 三人いる! お父様とお母様とルッカだ!」
「ふふっ、ちゃんと家族になりましたね」
アルテミアが柔らかく微笑む。
「旦那様って、不器用ですけど……本当はすごくご家族を大切にされているんですね」
「……そう、かもしれない」
自分でも驚くほど素直な言葉が漏れた。
アルテミアの胸がキュンと跳ねる。
(あかん、今の不意打ちの素直なイケメンスマイルは破壊力が危険すぎる……!)
胸の高鳴りを隠すように顔を赤らめるアルテミアを見て、ヴェンツェルもまた胸を熱くさせていた。
(……やはり、私は。契約の履行などという形式はどうでもいい。アルテミア自身に……妻として、私の隣にいてほしいのだ)
「アルテミア」
「はいっ!?」
「今度こそ、話が───」
「お嬢様ーっ! ルッカ様ーっ!」
廊下の奥からチセラの元気な声が響き渡った。
「焼き立てのスコーンとお茶の準備が整いましたわー!」
「まあ! ありがとうございます! 旦那様、行きましょう!」
「…………」
ヴェンツェルは静かに天井を見上げた。
(……第二回目、失敗)
ガーデンテーブルに淹れ立ての紅茶が運ばれ、和やかなティータイムが始まった。
「お父様、これ食べて!」
ルッカが差し出してきた焼き菓子を、ヴェンツェルは一口で食す。
「……美味い」
「ほんと? よかったー!」
「旦那様、こちらもどうぞ。焼き立てですよ」
アルテミアが微笑みながらスコーンの皿を差し出す。
それを受け取ろうとした瞬間───ふたりの指先が、かすかに触れ合った。
バチッと電撃が走ったかのような感覚。
「…………」
「…………」
アルテミアの顔が果実のように真っ赤に染まり、ヴェンツェルもまた紫紺の瞳を大きく見開いた。
「あ……す、すみませんっ!」
慌てて手を引っ込めるアルテミア。
ヴェンツェルは、空を切った自分の手持ち無沙汰な指先を、切なげに見つめた。
(……触れたかった。もっと、彼女の温もりに……)
己の中に芽生えた生々しい欲求に、ヴェンツェル自身が一番驚いていた。
これはもう、単なる「寂しさの埋め合わせ」でも「理想の家族像への執着」でもない。
(……私は、この女性を───)
「旦那様」
背後からぬっと現れたのは、執事ベルトランであった。
「……何だ、ベルトラン」
「先ほどご指示いただきました、領地の税制改正に関する緊急書類でございます。至急ご署名を」
「…………後にしてくれ」
「それが、使者が別邸で待機しておりまして……」
「……チッ」
舌打ちしそうになるのを必死で耐え(れてはいないが……本人は至って真面目に耐えたつもりである)、ヴェンツェルは立ち上がった。
そして、赤くなっているアルテミアを振り返る。
「アルテミア。……戻ったら、必ず時間を作ってくれ」
「え、あ、はい!」
「旦那様ーっ! 大変ですーっ!」
今度は庭の向こうから庭師が血相を変えて走ってきた。
「温室の魔導温調設備が暴走しまして! 至急旦那様の魔力で鎮めていただきませんと希少植物が枯れてしまいますーっ!」
「…………」
ヴェンツェルの瞳から完全に光が消えた。
それを見たアルテミアは、必死に口元を押さえた。
「ぷっ……! くふっ……!」
「……笑うな、アルテミア」
「す、すみません……! ぷふっ、旦那様、大人気ですね……!」
腹を抱えて震える妻を前に、冷血公爵は深く深く、魂の抜けた溜息を吐くのだった。
夕方。執務室。
ヴェンツェルはデスクに突っ伏していた。あの威厳あふれる公爵の姿はどこにもない。
「……本日、何度目でございましょうか」
紅茶を淹れ直しながら、ベルトランが呆れたように尋ねる。
「……四回だ」
「フッ……我が主君ながら、実に見事なまでの『間の悪さ』でございますな」
「黙れ。……なぜだ。なぜこれほどまでに、妻と二人で話す時間がないのだ」
「それは旦那様が普段から超人的な過密日程をこなしておられるからに他なりません。それに……」
ベルトランは窓の外に視線を向けた。
夕日を浴びながら、庭で仲良く手をつないで散歩するアルテミアとルッカの姿。
「奥様もルッカ様も、旦那様がご自分たちのために時間を作ってくださることを、心から喜んでおられますよ」
「……そうか」
ヴェンツェルもまた窓の外を見つめた。
二人の弾けるような笑顔を見るだけで、胸の痛みが引き換えに温かな血で満たされていく。
「ベルトラン」
「は」
「私は……あの二人と、本当の家族になりたい」
「重々承知しております」
「そして……アルテミアには、お飾りなどではなく……私の愛する妻として、永遠にそばにいてほしい」
ベルトランは目元を緩め、深々と頭を下げた。
「ようやく、ご自分の心に素直になられましたな」
「……恋などという浮ついた感情かどうかは、まだ分からん。だが……あいつを他の誰かに渡すくらいなら、世界の半分を敵に回した方がマシだ」
冷血公爵の口から出た、あまりにも重く、恐ろしく純粋な独占欲。
ベルトランは(そこまで自覚していらして『恋か分からない』は無理がありますぞ)と心の中で突っ込みつつも、温かい眼差しを向けた。
「ならば明日こそ、その想いをまっすぐ奥様にお伝えくださいませ」
「ああ。明日こそ……必ずだ」
そして翌朝。
胸ポケットに『婚姻契約改定案』を忍ばせ、今度こそ、今度こそはと退路を断つ覚悟でアルテミアの部屋へと向かうヴェンツェル。
しかし───。
「旦那様ーーーっ!! 緊急事態でございます!!」
廊下の向こうから、息を切らした側近の騎士が疾走してきた。
「皇太子殿下より、極秘の緊急勅命が届きました! 今すぐ開封を!!」
「…………」
ヴェンツェルは静かに目を閉じ、天を仰いだ。
「……なぜだ……っ」
手には、愛する妻に手渡すはずだった婚姻契約書。
目の前には、帝国を揺るがす国家級の緊急事態。
「……私は……妻に『好きだ』と伝えることすら許されんというのか……!!」
冷血公爵ヴェンツェル。
国家の存亡を懸けた戦いよりも遥かに困難な、最大の試練───『妻への告白』という超難解ミッションに、絶望的なまでに苦戦を強いられるのであった。




