第20話 冷血公爵、完全に蚊帳の外
翌朝。
グラウエン公爵邸の厨房には、これまでの歴史で一度も聞いたことがないような賑やかな声が響き渡っていた。
「ルッカちゃん、もう少しだけ小麦粉を入れてみようか」
「これくらい?」
「うん! 上手上手! 才能あるわ!」
「えへへ……お母様、ルッカうまくできた!」
アルテミアとルッカが並んで立ち、楽しそうにクッキー生地をこねている。
そして、そのすぐ隣には───。
「…………」
フリル付きのエプロンを身に纏った、公爵ヴェンツェル・フォン・グラウエンの姿があった。
冷血公爵。
軍事顧問。
数々の戦場で無敗を誇ってきた帝国最強の男。
現在の彼に課せられた極秘任務───クッキー作り。
「だ、旦那様! もう少し力を抜いてくださいませ!」
「……これでもか?」
「はい! 生地が『助けて』と悲鳴を上げております!」
「…………」
ヴェンツェルが手元を見下ろすと、そこには凄まじい握力によって分子レベルまで押し潰され、絶望的な形となった生地の無残な姿があった。
「お父様、もっと優しくナデナデするの!」
「……分かった。優しくなでるのだな」
5歳の娘から真剣に指導される公爵。
その横で、アルテミアは必死に唇を噛み締め、爆発しそうな笑いを耐えていた。
(アカン、面白すぎる……!! あの『戦場の死神』が、ピンクのエプロン着てクッキー生地と死闘を繰り広げてる……!!)
しかも本人は至って真面目な顔で生地を「撫でて」いるのだ。尊さとシュールさの過剰摂取で腹筋が割れそうである。
「……アルテミア」
「ひゃいっ!?」
突然低い声で名前を呼ばれ、アルテミアの肩が大きく跳ねた。
「この生地の粘度……これで正解なのだろうか」
「え、あ、はい! えっ……と……」
ヴェンツェルがふとこちらを振り返る。
朝の柔らかい光を浴びる灰銀の髪。吸い込まれそうな紫紺の瞳。エプロン姿ですら絵画のように完璧な造形美。
「…………」
アルテミアの思考回路が完全にショートした。
(近い! 顔面国宝が近い! 朝から美の暴力が凄まじい!! やめて心臓が持たない!!)
「アルテミア?」
「だ、大丈夫です!!」
バッと勢いよく視線を天井へ逸らす。
「生地は! ええと! たぶん完璧です! 申し分ありません!」
「……そうか」
ヴェンツェルの声が、ほんの少しだけ沈んだ。
(……やはり、私と目を合わせるのも嫌なのだな)
悲しい誤解を抱えたまま静かに作業に戻るヴェンツェルをよそに、アルテミアは逃げるようにルッカのほうへ向き直った。
「ルッカちゃん! 型抜きしましょう!」
「うん!」
「どれがいい? お花? それとも動物さん?」
「これ!」
「じゃあ、一緒にやろうね。ぎゅーって押して……そう、上手!」
「できた! カワイイ!」
「可愛い! ルッカちゃんの手、ちっちゃくて本当に可愛い!」
「お母様もカワイイ!」
「えへへ、ありがとう〜!」
二人は仲良く頬を寄せ合い、キャッキャと笑い合っている。
「…………」
ヴェンツェルは、その光景を黙って見つめていた。
(……まただ)
妻と娘が楽しそうに笑っている。その輪の中に自分もいるはずだった。
昨日までは、それだけで胸が満たされていたはずなのに。
今日は───ほんの少しだけ、胸の奥がざわついていた。
「お父様!」
「……なんだ?」
「お父様のも作ろう! これ!」
ルッカが差し出してきたのは、小さな星形の型だった。
「星か」
「お父様みたいだから!」
「私が……星?」
ヴェンツェルは目を瞬かせた。
「どうしてだ?」
「だって、きらきらしてて、かっこいいから!」
「…………」
完全に固まる冷血公爵。
その横でアルテミアは萌え死にかけていた。
(ルッカちゃん天才天使……!! そしてヴェンツェル様の顔! 今一瞬だけ耳まで赤くなった!! 尊い……尊すぎる……!! 朝から新規スチル追加しないで!? 心臓のHPがゼロになる!!)
だが、アルテミアはそれを悟られる前に、秒速で視線を反らした。
「じゃあ、星形は旦那様の担当ですね!」
「……ああ」
ヴェンツェルは小さく頷いた。けれどその直後───。
「お母様! 次はこれ!」
「はいはい! わぁ、うさぎさんね! すごく上手!」
「えへへ、お母さんにあげる!」
「まあ、ありがとう! 宝物にするわ!」
「…………」
ヴェンツェルは一人、星形の生地を手にしたまま立ち尽くした。
(……私は?)
なぜだろう。
自分も同じ空間にいるはずなのに、なぜか会話に入れていない気がする。
妻と娘は、すっかり二人だけの「愛の空間」を作り上げていた。
ヴェンツェルは、静かに星形のクッキー生地を見つめた。
(……別に、構わない。二人が仲良くしているのだから、喜ぶべきことだ。……この家の中で、一番弱いのは私なのかもしれない)
そう自分に言い聞かせる。
だというのに、胸の奥が……妙に寂しかった。
焼き上がったクッキーが食堂へ運ばれ、三人でテーブルを囲んだ。
「お父様」
「ん?」
ルッカが自分の星形クッキーを一口齧ったヴェンツェルを見つめる。
「お父様のクッキー、おいしい?」
「……ああ。非常に美味い」
「よかった! じゃあ今度は三人で、もっといっぱい作ろうね!」
「……ああ。約束しよう」
ルッカの笑顔に、ヴェンツェルの胸の寂しさが少しだけ薄れる。
しかし午後。ルッカとアルテミアが楽しそうに庭へ向かっていく背中を、ヴェンツェルは廊下の影からじっと見送っていた。
「…………」
追いかけようか、と一瞬脚を動かしかけた。
だが、すぐに止まる。
(……私が行っても、母娘の邪魔になるだけではないか)
そう思い直し、執務室へ戻ろうと踵を返したとき。
「旦那様」
背後から執事ベルトランが声をかけてきた。
「……ベルトランか」
「庭へは行かれないのですか?」
「……今日は二人で過ごすようだ。邪魔をする必要もない」
「…………」
ベルトランは静かに目を細め、心の中で深い溜息をついた。
(旦那様……それは『遠慮』ではなく、完全なる『拗ね』でございます……)
「……では旦那様、こちらの書類をご確認ください」
「ああ」
ヴェンツェルは書類を受け取ったが、数歩進むごとにチラチラと庭のほうを振り返る。
(旦那様、何度でも申し上げます。それは『遠慮』ではなく『拗ね』でございます……)
ベルトランは心の中で何度もそう呟くのだった。
一方───窓越しに見える、楽しそうに笑う妻と娘の姿を眺めるヴェンツェル。
(……私も、あの中にいたい)
その素直な感情を自覚した瞬間、胸がキュッと痛んだ。
その頃、庭では───。
「お母様! お父様も呼ぼうよ! 三人で遊びたい!」
ルッカがアルテミアのドレスの裾を引っ張っていた。
「えっ……でも、お父様はお仕事中じゃないかしら……?」
「さっき廊下にいたよ! 呼んできて!」
「ええと……」
アルテミアは葛藤した。
公爵様を呼ぶ=あの国宝級の顔面を至近距離で拝む=オタクの心臓が破裂する。
(無茶言わないでルッカちゃん! お母様の寿命が縮んじゃう!!)
けれど、クリクリとした瞳で期待を寄せる娘の顔を見ては、断れるはずもなかった。
「……わかったわ! お母様が呼んでくるね!」
腹をくくったアルテミアは、意を決して執務室へと向かった。
コンコン。
「旦那様」
「……アルテミア!?」
ドアを開けて入ってきた妻の姿に、ヴェンツェルの心臓が跳ね上がった。
「どうしたのだ?」
「あの……」
アルテミアは一切目を合わせず、視線を壁、窓、観葉植物、天井へと高速で泳がせながら言った。
「ルッカちゃんが……三人で遊びたいと……」
「……私も、行っていいのか?」
「もちろんです! ……あ、でも、お仕事はお邪魔になりませんか……?」
申し訳なさそうにする妻に、ヴェンツェルは即答した。
「問題ない。……仕事など、あとでいくらでも挽回できる」
「そうですか! では行きましょう!」
パッと嬉しそうに笑うアルテミア。その笑顔を見た瞬間、ヴェンツェルの胸が熱くなった。
庭へ出ると、ルッカが「お父様ー!」と駆け寄ってきた。
そして、左右から二人の手をキュッと握りしめた。
「三人で遊ぼう!」
「ええ!」
「……ああ」
小さな手に繋がれた、アルテミアの手と、ヴェンツェルの手。
ヴェンツェルはその温もりを見つめ、アルテミアもまた、繋がれた手に視線を落としてふわりと微笑んだ。
「……三人ですね、旦那様」
「……ああ」
その瞬間、ヴェンツェルは確信した。
自分はもう、この温かな手から離れることなどできないのだと。
(……この温もりを、二度と手放したくない)
妻が自分を避ける本当の理由───まさか『重度の顔面国宝過敏症』を発症しているなど知る由もない冷血公爵だったが、彼の固く閉ざされていた心は、完全に解きほぐされていたのだった。




