第19話 冷血公爵が目撃した「愛」
晴れ渡る青空の下。グラウエン公爵邸の庭園には、これまで見られたことのない不思議な光景が広がっていた。
アルテミア。
ルッカ。
そして───軍服の上着を脱ぎ、腕まくりをした公爵ヴェンツェル。
「お父様、こっち!」
「ああ」
ルッカが小さな手を振ると、ヴェンツェルはその声に従って歩み寄る。
ただし。
その歩き方はまるで敵陣へ乗り込む将軍のように堂々としており、表情は極悪非道の敵を眼前にしたかのように真剣そのものだった。
「…………」
「…………」
「…………」
絶妙な緊張感と沈黙が庭に落ちた。
アルテミアは困惑し、ルッカは首を傾げ、ヴェンツェルは───。
(……何をすればいいのだ?)
心の中で激しく途方に暮れていた。
「お父様」
「なんだ?」
「あそぼう?」
「……ああ」
「何してあそぶ?」
「…………」
ヴェンツェルは脳内で超高速の思考を巡らせた。
戦場ならば、敵軍の配置を確認し、最適な陣形と攻勢を選択する。
領地経営ならば、帳簿を精査し、数字の矛盾を洗い出す。
政務ならば、問題点を抽出し、合理的かつ迅速な解決策を提示する。
しかし───『5歳児と遊ぶ』という未知の領域には、軍略も会計学も帝王学も一切通用しなかった。
「……何をすればいい?」
正直に尋ねると、ルッカはぱちぱちと瞬きをした。
そして、くすくすと可愛らしい笑い声を上げた。
「お父様、おもしろーい! 遊び方を知らないんだもん!」
ヴェンツェルは固まった。
───笑われた。冷血と恐れられた自分が、5歳の娘に。
なのに……なぜか不快感など微塵も湧かず、胸の奥がくすぐったかった。
「じゃあ……これ! これを投げるの!」
ルッカが持ってきたのは、カラフルに塗られた小さな木製の輪だった。
「輪投げか」
「うん!」
「……なるほど。構造は理解した」
ヴェンツェルは手渡された輪を受け取った。
そして、ターゲットとなる木柱を確認する。
距離、約三メートル。
風向、南南東、風速わずか。
放物線の描くべき角度、手首の返し、解き放つべき筋力───。
(……待って、公爵様なに物理計算みたいな目つきしてるの!? たかが輪投げですよ!?)
アルテミアの嫌な予感が見事に的中した。
「……旦那様!? これは戦術訓練じゃなくて輪投げです!!」
「問題ない。狙いは定まった」
「いや、何がですか!?」
「───フッ!」
ひゅっ、と風を切る音。
綺麗な回転を描いて飛んだ輪は───。
───すぽん!!
見事、寸分の狂いもなくど真ん中の柱に吸い込まれた。
「「…………」」
ルッカが目を丸くする。
「すごい! すごいお父様!」
ヴェンツェルはほんの少しだけ胸を張り、矜持に満ちた声で呟いた。
「……ふっ、他愛もない」
「もう一回!」
「いいだろう」
すぽん!
「すごい!」
すぽん!
「すごいー!」
すぽん!
「お父様かっこいい!!」
ルッカがぴょんぴょん跳ねて喜ぶ姿を見ながら、ヴェンツェルは気づかないうちに唇を緩ませていた。ほんのわずかに、けれど確かに、柔らかく。
その横顔を見たアルテミアは───。
(……ッ〜〜〜!! 横顔の彫刻美が凄まじい! 太陽光を浴びた灰銀の髪と紫紺の瞳、国宝級どころか世界遺産レベル……!!)
オタクの血が騒ぎ、拝みそうになるのを必死で耐えて慌てて視線を逸らした。
その瞬間、ヴェンツェルの笑みがスッと消える。
(……まただ。やはり私と目が合うと、不快そうに視線を逸らされる……)
悲しき勘違いが重なる中、ルッカが元気に声を張り上げた。
「お父様! 今度はお父様が鬼ね!」
「……鬼?」
「鬼ごっこ!」
「…………」
完全にフリーズした公爵様の姿に、アルテミアは思わず噴き出した。
「ふふっ……! あ、すみません……!」
「……構わない」
「鬼ごっこですよ? 捕まらないように逃げるルッカちゃんを追いかけるんです」
「理解している。……要するに、標的の追跡および捕獲作戦だな」
「言い方!! 5歳児相手に作戦とか言わないでください!」
アルテミアが弾けたように笑う。
ヴェンツェルはその笑顔をじっと見つめた。胸の奥が、熱いほどにあたたかかった。
「お父様、こっちだよー!」
「待て、ルッカ」
(敵の動きなら予測できるが、娘の動きは予測不能だ……)
「きゃあ! お母様助けてー!」
足運びが完全に訓練された兵士のそれだった。
「旦那様! 5歳児に軍隊並みの本気ステップ踏まないでください! 速いです!」
「……手加減はしているつもりだ」
「絶対してません! 逃げてルッカちゃん!」
「お母様も逃げるのー!」
「えっ、私も!? キャー!」
青々とした芝生の上を、三人の足音と歓声が駆け抜けていく。
そんな様子を、屋敷の二階の窓から使用人たちが重なるようにして眺めていた。
「……旦那様が」
「……走っておられる……」
「あの『戦場の死神』と呼ばれた旦那様が、ルッカ様と鬼ごっこを……!」
「奥様、すごすぎる……。あの旦那様を5歳児と同じ目線まで引きずり下ろしてくださったわ……」
「言い方に気をつけなさい!」
クスクスと笑い合う使用人たちの中、執事のベルトランだけが静かに目を細め、胸を熱くしていた。
(……素晴らしい。かつてのこの館には、冷ややかな静寂しかありませんでした。ルッカ様はいつもお寂しそうにされ、旦那様もまた、温かな家庭を知らずにお育ちになられた……)
それが今、目の前で弾けている。
(奥様……あなたがこの館に、どれほどの光をもたらしてくださったか……)
夕方。茜色に染まり始めた庭の片隅で、ルッカは満足そうに芝生の上に座り込んでいた。
「楽しかったぁ……」
「ふふ、良かったわね」
アルテミアが隣に腰を下ろし、ヴェンツェルも少し離れた場所に腰掛けた。
ルッカは二人を交互に見つめ、えへへと笑った。
「お母様、お父様。また三人であそびたい!」
「…………」
ヴェンツェルは一瞬言葉を詰まらせた後、静かに、けれど力強く頷いた。
「ああ。また遊ぼう。……約束だ」
「わーい! じゃあ次はね、お菓子作りしたい!」
「まあ! クッキー作りかしら? いいわね!」
「お父様もいっしょに!」
「……私もか? 厨房に入るなど……」
「旦那様もです! 三人で作りましょうね!」
アルテミアが目を輝かせて振り返る。
ふと、二人の視線が正面からぶつかり合った。
「…………」
「…………」
至近距離で見つめ合う数秒間。
アルテミアの顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
(近いいいいい! イケメンの顔面密度が高すぎて心臓破裂する!!)
「っ〜〜〜〜!」
さっと猛スピードで視線を逸らすアルテミア。
ヴェンツェルの表情が途端に暗く曇る。
(……やはり、私と目が合うのは嫌なのだな……)
だが今回は、そのやり取りを見ていたルッカが首を傾げた。
「お母様? どうしてお父様を見ると、すぐ横を向いちゃうの?」
「————ッ!?」
アルテミアの魂が口から抜けかけた。
「そ、それは……! ええと、その……!」
(やめてルッカちゃん!! その質問はお母様のHPをゼロにする!! 『お父様の顔面偏差値が高すぎて直視すると萌え死ぬからです』なんて言えるわけないでしょー!!)
必死に汗をかきながら絞り出した言葉は───。
「ち、ちょっと……眩しいからよ!」
「眩しい?」
「そう! とっても眩しいの! 太陽みたいに!」
「……???」
不思議そうに首を傾げるルッカ。
ヴェンツェルも「太陽……?」と己の顔を見つめるように固まる。
遠くで見守っていたベルトランだけが、(奥様、それは『尊すぎて眩しい』という意味ですね。実に正解でございます)と心の中で深く頷いていた。
その夜。
自室に戻ったヴェンツェルは、机の上に積まれた大量の書類を前にしながらも、まったくペンが進まないでいた。
胸の中に残る、昼間の温かい余韻。
ルッカの弾けた笑顔。
アルテミアの華やかな笑い声。
そして、三人で過ごしたあたたかな時間。
(……家族)
かつて自分には無縁だと思っていた概念。
公爵家当主として、冷徹に責任を果たせばいいと思っていた。
だが、あの温もりの味を知ってしまった今、元には戻れない。
ヴェンツェルは静かに引き出しを開けた。
そこに入っているのは、結婚初日に取り交わした『婚姻契約書』。
───互いに干渉しない。
───夫婦としての情愛を求めない。
───お飾り妻としての役割を果たせば良い。
冷酷で合理的な、お飾り妻協定。
(……邪魔だな。……この契約が、二人との距離を永遠に固定してしまう)
ヴェンツェルはその書類を苦々しく睨みつけた。
以前は最も合理的だと思っていた契約が、今や自分と二人を隔てる高い壁に見える。
「……私は、もうこのままでいいとは思えない」
妻へのこの胸の騒ぎが恋なのか、家族への執着なのかはまだ分からない。
だが、あの温かな輪の中に、夫として、父としてずっといたいのだ。
「明日……この契約の破棄を申し出よう」
固い決意を胸に、ヴェンツェルは目を閉じた。
───しかし翌朝。
決意を胸にアルテミアのもとへ向かったヴェンツェルを待っていたのは。
「あ、旦那様! ちょうど良かったです! これからルッカちゃんとクッキーを作るんですけど、旦那様もエプロン着てください!」
エプロン姿で満面の笑みを向けるアルテミアであった。
「……え、エプロン?」
「はい! さあ、一緒に生地を捏ねましょう!」
「…………」
ヴェンツェルは、昨夜誓ったはずの『大事な決意』を綺麗さっぱり頭から吹き飛ばし、大人しくエプロンに袖を通すのだった。
(……話すタイミングを完全に失った……)
影からその様子を見ていたベルトランは、手に持った『婚姻契約改定案』の書類を抱えたまま、静かに天を仰ぐ。
(旦那様……そのお話を切り出すまでに、一体あと何ヶ月かかるおつもりですか……)
冷血公爵の、あまりにも不器用で甘い恋路は、まだ始まったばかりである。




