第18話 大丈夫、私がここにいるから
翌朝。
昨夜の激しい雷雨が嘘のように吹き払い、澄み切った朝の光が公爵邸の廊下に差し込んでいた。
アルテミアは、すやすやと穏やかな寝息を立てるルッカの小さな胸をそっと撫で、ベッドを抜け出した。
(よかった……しっかり眠れたみたい)
昨夜の錯乱ぶりが嘘のように静かな寝顔に胸を撫で下ろしつつも、幼いルッカが口にした『泣かないから……暗くしないで』という悲痛な叫びが、今もアルテミアの胸を締め付ける。
(これからは、絶対に一人になんてさせない。私がずっと守るんだから)
心にそう固く誓い、ルッカを起こさないよう静かに寝室の重厚なドアノブを回した。
「ふぅ……」
廊下へ一歩踏み出し、小さく息を吐いた瞬間───アルテミアの動きが完全に停止した。
「……っえ!?」
ドアのすぐ脇に置かれた一脚の椅子。そこに、昨夜からずっとそこにいたであろう人物が、微動だにせず佇んでいたのだ。
背筋をピンと伸ばし、腕を組んだまま浅い眠りについていたのは——ヴェンツェル・フォン・グラウエン。
(えっ、待って待って!? なんで冷血公爵様がルッカちゃんの部屋の前に座り込んでるの!? 寝起き美形の破壊力って何!? これ新規スチルじゃん!!)
朝の光を浴びるその顔は、睡眠不足のはずなのに神々しいまでに美しく、灰銀の髪がキラキラと光を弾いている。目元に薄く影が落ちているのに、なぜか美しさが増している。
(顔面国宝は眠っていても絵になるのね……ズルイわ)
ヴェンツェルが眠っているのをいいことに、アルテミアはその国宝級の顔を観察していた。その造形美に思わず息が漏れる。
「……ん」
アルテミアの気配を察したのか、紫紺の瞳が薄っすらと開いた。
「……アルテミアか」
かすれた低い声。寝起き特有の無防備な色香に、アルテミアの心臓が跳ね上がる。
「だ、旦那様……!? なぜこんなところで……まさか、一晩中……!?」
「……ルッカの泣き声が聞こえたからな」
ヴェンツェルはゆっくりと立ち上がると、少し気まずそうに視線を逸らした。
「中に入れば邪魔になると思った。……だが、万が一また雷で怯えたとき、すぐ対応できるように……な」
「…………っ」
アルテミアは絶句した。
冷血無比と恐れられ、娘にも無関心だと思っていた男が。冷え込む夜の廊下で、ただ娘のために一晩中ドアを守り続けていたのだ。
(この人……冷たい人なんかじゃない。ただ、誰よりも不器用なだけなんだ……)
胸の奥がじんわりと温かいもので満たされていく。
「……ありがとうございます、旦那様。ルッカちゃん、もう大丈夫ですわ。……すごく、安心して眠っています」
「……そうか。それなら、よかった」
安堵したように胸を撫で下ろすヴェンツェルの姿に、アルテミアはフッと柔らかく微笑んだ。
「あ……あの! 旦那様!」
「なんだ?」
「昨夜のお礼と言ってはなんですが……今朝の朝食、旦那様の分も特製のパンケーキをお焼きしますね! 一緒に食べましょう!」
「……私の分も?」
「はい! 美味しい甘いものを食べて、昨夜の疲れを吹き飛ばしましょう!」
ヴェンツェルは目を丸くした。そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……楽しみにしている」
(〜〜〜っっっ笑顔の破壊力!! 無理無理無理尊死する!!)
アルテミアはダッ! と脱兎のごとく厨房へ逃げ出した。
残されたヴェンツェルは、急に走り去った妻の背中を呆然と見送り───。
(……やはり、私との会話は不快だったのだろうか……)
と、最悪の方向へ誤解を深めるのだった。
小一時間後。食堂には焼き立てのパンケーキの甘い香りが漂っていた。その甘い香りは、まるで家族の始まりを告げる鐘のように広がった。
「わぁ……! お母様、今日のは果物がいっぱい!」
「ふふふ、ルッカちゃんが頑張ったご褒美よ! 好きなだけ食べてね!」
「うん!」
元気に答えるルッカの隣で、アルテミアは向かいの席に座るヴェンツェルにそっと皿を差し出した。
「旦那様も、どうぞ。蜂蜜とバターをたっぷりかけて召し上がってください」
「……ありがとう」
ヴェンツェルはナイフとフォークを手に取り、一口サイズに切ったパンケーキを口に運んだ。
もぐ……。
「……!」
「……いかがですか?」
「……美味い。生地が驚くほどふんわりしていて……心が落ち着く味だ」
「よかった……!」
アルテミアはパッと満面の笑みを咲かせた。
その太陽のような笑顔を真正面から浴びたヴェンツェルは、ピクッと動きを止め、突如として横を向いた。
(……っ! 眩しすぎる……胸が妙に騒がしい)
顔を背けられたアルテミアは、ショックで固まる。
(えっ!? 笑顔作ったのに目を逸らされた!? やっぱり私、顔面国宝にキモいと思われてるの……!?)
給仕をしていた執事ベルトランは、互いに斜め下の誤解を深め合う夫婦を見て、心の中で静かに天を仰いだ。
(旦那様、それは照れているだけです……! 奥様、尊さに負けて視線を逸らしているだけです……! ああ、じれったい!!)
食後。ルッカは元気に庭へ駆け出していった。
「お母様、見て見て! お花が咲いてる!」
「本当ね! 昨夜の雨にも負けないで、強いお花さんね」
ルッカと戯れるアルテミアの姿を、廊下の窓辺から静かに見つめる男がいた。
ヴェンツェルである。
(……羨ましい)
昨日までなら湧き上がらなかった感情。
自分も、あの温かい輪の中に入りたい。娘の笑顔を近くで見たい。妻の笑顔を自分に向けられたい。
だが、どう接すればいいのか分からない。軍事や政治の知識しか持たない自分は、余計なことをして二人を困らせてしまうのではないか。
「……旦那様」
背後からベルトランが歩み寄ってくる。
「……ベルトラン。私は……どうすれば、あの二人の中に入れるのだ?」
ぽつりと漏らされた主の切実な悩みに、ベルトランは温かい微笑みを浮かべた。
「ご安心くださいませ。まずは……『一緒に遊ぼう』と、そのままお伝えになれば良いのです」
「私に……そんな資格が……」
「資格など最初からございます。旦那様はルッカ様のお父上であり、奥様の旦那様なのですから」
その時。
庭からパタパタと小さな足音が近づいてきた。
「お父様ー!」
窓越しにルッカが小さな手をぶんぶんと振っていた。
「お父様も、お庭においでよ! お母様とお花つむの!」
「……っ」
ヴェンツェルは息を呑んだ。
仕事がある、忙しい、自分など……断る理由は幾らでも捏造できた。
けれど、彼の口から出たのは真逆の言葉だった。
「……すぐに行く」
青々とした芝生が広がる庭園。
「……アルテミア」
「は、はいっ! 旦那様!?」
こちらへ歩いてくる公爵の姿を見て、アルテミアの心臓は激しく跳ね上がった。
(えっ、待って!? 普段着の公爵様が太陽光を浴びて歩いてくる!? 美の暴力的過剰摂取で目が潰れる!!)
「……私も、仲間に入ってもいいだろうか」
不器用に、けれど真摯に差し出された問いかけ。けれど、ほんのわずかに、声が震えていた。
アルテミアは息を飲み、目の前の男を見た。
昨夜、廊下で一晩中娘を守り続けた不器用で優しい父親。
(……断る理由なんて、どこにもないわ)
アルテミアは胸の前で手を組み、心からの笑顔を浮かべた。
「もちろんです、旦那様! ほらルッカちゃん、お父様も一緒よ!」
「うん! お父様、このお花あげる!」
ルッカが差し出した小さな黄色い花を、ヴェンツェルは宝物でも扱うかのように両手で受け取った。
「……ありがとう、ルッカ」
その横顔は、これまで見たどの表情よりも柔らかく、優しかった。
(……良かった。この家族は、ちゃんと前に進めている)
アルテミアは嬉しそうに目を細めた。
冷血公爵の胸に灯った小さな火は、もう二度と消えることはない。
二人の「すれ違い」はまだ続いているけれど───それは少しずつ、確実にあたたかな愛の形へと変わり始めていたのだった。




