第17話 雷雨の夜、トラウマ再発
その日の夕方。
グラウエン公爵邸を覆う空は、昼過ぎからどんよりと重い鉛色に染まっていた。
庭で落ち葉を集めていたルッカが、不安そうに窓の外を見上げる。
「お母様。お空、真っ黒だね……」
「そうねぇ。今夜は大きな雨が降るかもしれないわ」
アルテミアはひんやりとした風を遮るように窓を閉め、空を仰いだ。遠くの雲の切れ目で、重低音のような地鳴りが響いている。
ゴロゴロ……と。
「雷さん……来る?」
「たぶんね。怖かったら、今日はお部屋で早めにお夕食にしましょうか」
「……うん」
ルッカは小さく頷いた。だが、その華奢な肩が一瞬だけ強張ったことに、アルテミアは気づくことができなかった。
「じゃあ、お部屋で新しい絵本を読みましょう!」
「うん!」
ルッカはいつものようにアルテミアの手にぎゅっとしがみつく。その手のひらは、出会った頃よりも少し温かく、力強くなっていた。
(……少し前までのルッカちゃんなら、こんな風に笑顔を見せてくれなかった)
アルテミアは愛おしそうに娘の頭を撫でた。
今のルッカはよく笑う。使用人たちにも自分から「おはようございます」と挨拶ができるようになった。ご飯もおかわりするようになり、自分で好きなお洋服を選べるまでになった。
(この子はもう大丈夫。ここでたくさんの愛を受け取って、傷は癒えつつあるんだわ)
アルテミアはそう信じて、安堵していたのだ。
───けれど。心に刻まれた根深いトラウマという猛毒は、目に見えない暗闇の底で、息を潜めて機会を窺っているだけに過ぎなかった。
その真実に思い知らされる夜が、容赦なくやってきた。
夜。
叩きつけるような激しい雨音が、重厚な公爵邸を激しく包み込んでいた。
ざあああああっ!
窓ガラスを激しく叩く雨粒。風が庭の木々を狂おしく揺らし、不気味な鳴き声を上げる。
ルッカの寝室で、アルテミアはベッドの脇に座り、ランプの柔らかな光の中で絵本を開いていた。
「───それから、勇気ある白い小鳥さんは、大きなお城へ辿り着きました」
「……うん」
「お城の扉を開けると、そこにはおいしそうなお菓子が山のように積み上がっていて───」
ガラガラガラッ……!
遠くで、空を割るような地鳴りが響いた。
アルテミアはふと本から目を切る。抱きかかえていたルッカの体が、ピクッと大きく跳ね上がった。
「……ルッカちゃん?」
「……なんでもないの」
「そっか。じゃあ、続きを読むわね」
ごろ……、ごごご……っ!
今度は、先ほどよりも明らかに近くで鳴り響く。
ルッカの指先が、シーツを破らんばかりの力で握りしめられた。小さな唇が、血の気が引いたように真っ白に震えている。
「ルッカちゃん。……雷、怖いの?」
「……こ、怖くない……」
小さく絞り出された声。強がるその瞳には、恐怖の涙が溜まり始めていた。
「怖かったら『怖い』って言っていいのよ? お母様に教えて?」
「……っ、ううん……怖くないの……! 良い子にしてるから……っ!」
ルッカは必死に首を横に振った。その直後───。
部屋の壁が震え、窓の外が白く焼けるように光った。
───ドカァァァンッッ!!!!
光と音が同時に弾けた。
落雷が屋敷のすぐ近くに落ち、バリバリと激しい衝撃波が部屋全体を揺らした。
「ひやあぁぁぁっ!?」
ルッカは短く悲鳴を上げ、両手で固く耳を塞いだ。
「ルッカちゃん!」
アルテミアは慌てて本を放り出し、小さな身体を抱きしめようと手を伸ばした。しかし───。
「来ないでぇっ!!」
「……え!?」
ルッカは弾かれたようにベッドの最奥、壁の隅へと逃げ込んだ。怒られる時にいつもしていたように、膝を抱えて小さく丸まった。ガタガタと全身を震わせている。
「ルッカちゃん……?」
「ごめんなさい……ごめんなさいっ! 許してくださいっ……!」
頭を抱え、必死に許しを請う幼い声。アルテミアの手が空中でピタリと止まった。
「私、泣かないから……! うるさくしないからっ! だから……お仕置きしないで……っ!」
「ルッカちゃん、何を言っているの……!?」
アルテミアの胸が、鋭い刃物で刺されたように痛んだ。
「お部屋を暗くしないで……! 一人にしないでぇっ……! ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」
錯乱したルッカの瞳には、目の前にいるアルテミアの姿すら映っていなかった。
雷鳴という引き金が、この子の幼い心に刻まれた【最悪の過去】を呼び覚ましてしまったのだ。
かつて、前の母親や無関心な大人たちに虐げられていた記憶。
雷を怖がれば「大袈裟だ」「うるさい」と罵倒され、暗い物置部屋に閉じ込められた夜。いくら叫んでも、泣いても、誰も助けに来てくれなかった絶望。
幼いルッカにとって、雷雨の夜は「閉じ込められ、捨てられる恐怖」そのものだったのだ。
「……そうだったのね。ごめんね……気づいてあげられなくて……」
アルテミアは床に膝をつき、ゆっくりとルッカに目線を合わせた。アルテミアの声は、嵐の音を溶かすように柔らかかった。
「ルッカちゃん。見て……お母様よ。誰もあなたを怒ったりしないわ」
「……ほんと……? わたし、悪い子……じゃない……?」
「悪い子なわけないでしょう! 世界で一番、良い子よ」
「……泣いても……怒らない……?」
「泣いていいの。いっぱい泣きなさい」
「……怖いって……叫んでも……捨てない……?」
「捨てないわ! 絶対に、絶対に離さない!」
アルテミアは優しく両手を広げた。
「おいで、ルッカちゃん。ここにおいで」
「……っ……お母様……!」
耐えかねたように、ルッカが小さな体を弾ませてアルテミアの胸へと飛び込んできた。
「うわあぁぁぁぁん!! 怖いよぉっ! 怖いよぉお母様ぁぁぁっ!!」
堰を切ったように溢れ出す大粒の涙。ルッカはアルテミアのドレスをしがみつくように握りしめ、何年分もの恐怖を吐き出すように声を上げて泣きじゃくった。
「大丈夫よ……ここにいるわ。お母様がずっと抱きしめてあげる」
アルテミアはルッカの背中を何度も、何度も優しく撫で続けた。
外では容赦なく雷鳴が轟く。だが、そのたびにアルテミアは抱きしめる力を強め、耳元で温かい言葉を囁き続けた。
「ここはルッカちゃんのお部屋。誰もあなたを暗闇に閉じ込めたりしない。誰も怒らない。だから、安心して泣いていいのよ……」
「……う、うぐっ……うあぁぁん……っ! お母様……ありがとう……ありがとう……っ!」
「どういたしまして、私の愛しい赤ちゃん」
言葉を重ねるごとに、ルッカの激しい震えが少しずつ治まっていく。恐怖に支配されていた小さな心が、アルテミアの絶対的な愛と温もりに包まれ、解けていくのが分かった。
その頃。
重厚なドアで隔てられた廊下に、一人の男が静かに立っていた。
ヴェンツェルである。
雷雨の中、執務室で書類に向かっていた彼は、遠く聞こえた娘の悲鳴のような泣き声にペンを置き、吸い寄せられるようにやってきたのだった。
「……ルッカ……」
ドアノブに伸ばしかけたヴェンツェルの手が、ピタリと止まる。
部屋の中から、アルテミアの必死で優しい声が漏れ聞こえていた。
『誰もあなたを捨てないわ! 絶対に、絶対に離さない!』
『おいで、ルッカちゃん。ここにおいで』
(……私が、入るべきではない。……私は、娘の恐怖に一度も気づけなかった)
ヴェンツェルは伸ばした手をゆっくりと引き下げた。
自分が部屋に入れば、軍人特有の威圧感と、これまでまともに向き合ってこなかった父親への恐怖で、娘はさらに混乱するだろう。
何より───自分には、あの部屋に入る資格がない。
(私は……今まで何をしてきた……?)
ヴェンツェルは悔悪感に拳を強く握りしめた。
前公爵夫人からの虐待を、不都合な屋敷の実態を、「忙しさ」を理由に深く調べもせず放置していたのは誰だ。
五歳の幼い娘に「泣いてはいけない」「助けを求めてはいけない」と諦めさせた原因の一端は、無関心だった自分にある。
父親として、何一つ守れていなかった。
(……私は、どこまで愚かな男なのだ)
暗闇の中で佇む公爵の胸を、激しい罪悪感が苛む。
だが、部屋の奥から聞こえてくる声は、次第に穏やかなものへと変わっていった。
『……お母様……歌、うたって……』
『ええ、いいわよ。前世で……ううん、お母様が大好きな優しい子守歌を歌ってあげるわね』
雨音に混ざって聴こえてくるのは、アルテミアの鈴を転がすような澄んだ子守歌。
やがて、ルッカの規則正しい小さな寝息が聞こえ始めた。
ヴェンツェルは静かに息を吐き出した。
切なさと寂しさが胸を締め付ける。だがそれ以上に───果てしない安堵が彼を満たしていた。
娘が「怖い」と言えた。泣くことができた。
そして、その恐怖を受け止めてくれる「母親」が、今はこの屋敷にいる。
(……救われたのは、ルッカだけではない。私もだ……)
ヴェンツェルが踵を返そうとしたその時、背後から足音が近づいてきた。
「旦那様」
執事のベルトランだった。
「……ベルトランか」
「ルッカ様の様子を見に参りましたが……お休みのようですね」
「ああ。……今夜は、私がここにいる」
ベルトランは目を見開いた。
「旦那様? 執務室にお戻りに……」
「ここでいい。部屋の外で……見守る」
ヴェンツェルはそう言うと、廊下の壁際に置かれていた一人掛けの椅子に静かに腰を下ろした。冷えた廊下の空気が、彼の指先をじんじんと痺れさせていた。
「部屋に入れば邪魔になる。だが……万が一、またルッカが目を覚ました時、すぐに対応できるようにしておきたい」
「…………」
ベルトランは言葉を失った。
冷酷無比と恐れられ、感情を捨てたはずの当主が、妻と娘を守るようにドアの前に座り込んでいる。
「……かしこまりました。毛布をお持ちいたします」
「すまない」
ヴェンツェルは目を閉じ、扉の向こうの二人の気配にそっと意識を向けた。
自分はまだ、やり直し方を知らない。父親としての接し方も、夫としての愛し方も分からない。
けれど───今夜だけは、このドアの前で二人を守る盾になりたかった。
公爵の冷え切っていた心の奥底で、小さな、けれど決して消えない灯火が、静かに点滅を始めていた。
───そして翌朝。
ルッカを抱いて眠りにつき、朝陽とともに目を覚ましたアルテミアは、扉を開けた先で驚くべき光景を目にすることになる。
昨夜の落雷で冷え込んだ廊下で、椅子に座ったまま微動だにせず、一晩中ドアを守り続けていた「顔面国宝の冷血公爵」の姿を───。




