第16話 すれ違いの夕食会
その日の夕方。
グラウエン公爵邸の食堂には、いつもとは少し違う緊張感漂う空気が流れていた。
「お嬢様。本日の夕食ですが……旦那様もご一緒に召し上がるそうです」
侍女のチセラからそう告げられた瞬間、アルテミアは手にしたスプーンを盛大に床へ落としそうになった。
「……え? 旦那様が?」
「はい。三人で食卓を囲むとのことです」
「…………」
アルテミアは完全に固まった。脳内で非常事態宣言が発令され、緊急対策会議がスタートする。
(落ち着いて、私! 夕食を一緒に食べるだけ! 家族なら至極当然のイベント! 前世でも家族で食卓を囲むなんて日常茶飯事だったじゃない!!)
必死に自分を宥めようとするアルテミアだったが、すぐに重大な欠陥に気づく。
(……でも、相手は顔面国宝なんだよなぁぁぁ!?)
問題はそこだった。
ヴェンツェル・フォン・グラウエン。
艶やかな灰銀の髪。吸い込まれそうな深い紫紺の瞳。軍人らしい無駄のないしなやかな高身長。低く落ち着いた美声。
しかも、本人にその美貌の破壊力の自覚がこれっぽっちもない。
(あんな至近距離で顔面国宝と向き合ってご飯を食べるなんて無理では!? 尊すぎて喉に食べ物が通らない! 喉にパン詰まらせて死亡確定では!? これはもう“顔面国宝耐性ゼロ勢”の死活問題……!)
真剣に頭を抱え、七変化するアルテミアの顔を、チセラは冷ややかな目で見つめていた。
「お嬢様。先ほどから顔の表情筋が忙しそうですが」
「夕食の生存戦略を練っているのよ!」
「ただの夕食ですよね?」
「ただの夕食じゃないの! 顔面国宝と向かい合わせで食事をするのよ!? 目が合ったら尊すぎて死んじゃう! 心臓が跳ね上がって呼吸困難になる!!」
チセラは深々と溜息をついた。
「お嬢様。旦那様は生身の人間です。お嬢様の仰る、推しではありません」
「知ってるわよ! だからこそ生身の破壊力がエグいの!!」
「……では、せめて食事中は絶対に旦那様のお顔を見ないよう、徹底的に努力なさってください」
「それだ!!」
アルテミアは力強く拳を握りしめた。
「お皿だけを見ていれば死なずに済む! チセラ、天才ね!」
───この「尊死を回避するための斜め下の努力」が、冷血公爵の胸を深く抉る最大の要因になるとは、アルテミアは微塵も思っていなかった。
夕刻。重厚な食堂のテーブルには、三人分の料理が並べられていた。
中央には、アルテミアが厨房で仕込んだ出来立てのクリームシチュー。香ばしい焼きたてのパン、そしてデザートにはルッカのための小さなパンケーキ。
「わあ……! お母様、パンケーキ!」
「ふふふ、今日はルッカちゃんのために小さめに焼いたのよ」
「可愛い! お母様大好き!」
「私も大好きよー!」
和気藹々と微笑ましいやり取りを交わす母娘。
その向かいの席に、静かにヴェンツェルが腰を下ろした。
(きたぁぁぁ!! 直視禁止! 視線は皿! ひたすらシチューの具材を注視!!)
アルテミアは視線を頑なに手元の器へと固定した。
目の前には何も存在しない。自分は今、ただ目の前のシチューを胃袋に納めるマシーンなのだと自己暗示をかける。
そんな妻の異常なほどの緊張感を、ヴェンツェルは静かに見つめていた。
「……アルテミア」
「はいっ!!」
ビクッと肩を跳ねさせ、スプーンをガチャンと音を立てて落としかけるアルテミア。
「……どうした?」
「い、いえっ! 何でもございませんっ!!」
「……そうか」
ヴェンツェルの胸の奥が、チクリと痛んだ。
(……やはり、私と同じ空間で食事をすることすら、これほどまでに苦痛なのか……。理由は理解している。なぜ、胸がざわつく)
重い沈黙の中、ヴェンツェルはシチューを一口匙ですくい、口に運んだ。
「……美味いな」
「!」
あまりの不意打ちに、アルテミアは思わずパッと顔を上げた。
「本当ですか!?」
「ああ。温かくて……素晴らしい味わいだ」
「よかった……!」
アルテミアの顔に、パッと華やかな笑みが咲く。ほんの、一瞬。
ヴェンツェルの紫紺の瞳と、アルテミアの瞳が真っ正面からぶつかり合った。
(〜〜〜〜っっっ顔が良い!! 近くで見るとまつ毛の長さまで分かって破壊力が過密!! 無理無理無理死んじゃう!! ってか、まつ毛長っ……! 近距離攻撃の威力が高すぎる……!)
アルテミアはコンマ一秒の速さでダッ!! と視線を明後日の方向へ背けた。
(……やはり、私と目が合うことすら拒絶するほど嫌われているのか……)
ヴェンツェルは静かに傷つき、視線を落とした。まさに最悪のすれ違いである。
しかし、その直後。
「お母様! このパンもすごく美味しい!」
「本当? たくさん焼いたから、いっぱい食べてね!」
「うん! 私、お母様のお料理だーいすき!」
「〜〜〜っ! 可愛すぎる! おかわりもたくさんあるからね!」
ルッカに向けられる、ひまわりのような溢れんばかりの満面の笑顔。
しかし、アルテミアは知っている。ルッカは「好き」と言う時ほど、少しだけ袖を握る癖があることを。その癖がまだ治っていないことを。
ヴェンツェルは無言でその光景を見つめていた。自分には一度も見せたことのない、太陽のような表情。
「……ルッカ」
「なあに、お父様?」
「……最近は、楽しいか?」
「うん!」
ルッカは迷いなく即答した。
「お母様と一緒にいると、毎日すごく楽しい! 一緒にお菓子を作ったり、お花を育てるの!」
「……そうか」
「お洋服も選んでくれたの! お母様が、私の大好きなものをいっぱい聞いてくれたんだよ!」
ヴェンツェルの手が、ピタリと止まった。
「……好きなもの?」
「うん!」
ルッカは小さな指を折りながら誇らしげに数える。
「お花でしょ、パンケーキでしょ、絵本でしょ……それから……」
指がピタリと止まり、ルッカは琥珀色の瞳を輝かせてアルテミアを見つめた。
「お母様が、一番好き!」
「ルッカちゃん……!」
アルテミアの目がうるうると潤む。
「私も世界で一番大好きよ……っ!」
抱き合う母娘の姿を前に、ヴェンツェルは何も言えなかった。
ただ、静かに視線を落とす。
(……羨ましい。そして……私は、何も知らなかった)
ふいに脳裏に浮かんだその感情に、自身で驚愕する。
自分は、娘にあんな顔をさせたことがあっただろうか。
娘が何を好み、何を恐れ、何に心を痛めているのか、自分は何も知らなかった。
父親としての責務を「不自由させないこと」だと履き違い、娘の心から目を背けていたのだ。
だが、それ以上に……。
ルッカを優しく抱きしめるアルテミアの姿を見て、胸の奥で燻る熱い想い。
(……私も、あの温もりの中に加わりたい)
自覚した瞬間、ヴェンツェルは苦々しく眉をひそめた。
お飾り妻という契約を望んだのは自分だ。彼女たちの平和な生活を乱さないよう距離を置いてきたはずなのに……今や、その距離が耐えがたいほど物足りない。
食後。執務室へと続く廊下を歩くヴェンツェルに、執事ベルトランが歩み寄った。
「旦那様。ご家族での夕食はいかがでしたか?」
「…………悪くなかった」
「それは重発よりでございます」
「だが……」
ヴェンツェルは足をとめ、ぽつりと漏らした。
「……私は、あの二人にとって本当に必要な存在なのだろうか」
ベルトランは驚きで目を丸くした。あの冷徹無比な当主が、これほど弱気な言葉を口にするとは。
「もちろんでございます。旦那様はルッカ様のお父上であり……そして、奥様の旦那様でございますから」
「……妻、か」
ヴェンツェルはその言葉を噛み締めるように呟いた。単なる政略結婚の道具ではなく、「妻」という響きが、今では全く違う重みを持って胸に響く。
「……ベルトラン。私は……妻に、もう少し歩み寄ってもいいと思うか?」
ベルトランは心の中でガッツポーズを決めた。
(軍略は天才なのに、恋愛戦略だけは壊滅的……ですが、ようやく……! ようやく旦那様の重い腰を上げられた……!)
「もちろんでございます! むしろ遅すぎるくらいかと!」
「……そうか。だが……具体的にどう話しかければいいのか分からん。軍事や領地経営なら打開策は幾らでも浮かぶのだが……」
「……旦那様。まずは『今日のお食事は美味しかった』と、素直なお気持ちを伝えることから始められてはいかがです?」
「……少し、彼女の好みを観察してからにする」
(観察はもう十分すぎるほどやっています旦那様ーーー!!)
心の中でツッコミを入れつつも、ベルトランは生暖かくお辞儀をした。
その夜。自室のベッドで、アルテミアは「ふぅ……」と深いため息をついていた。
「夕食、なんとか心臓を止めずに乗り切ったわ……」
胸を撫で下ろしつつも、アルテミアの脳裏には食事中のヴェンツェルの姿が焼き付いていた。
「……でも、旦那様。なんだか少し……寂しそうだったな」
ルッカが自分のことを「好き」と言った時、どこか切なげに視線を落としていた冷血公爵。
(もしかして……ルッカちゃんと、もっと仲良くなりたいのかな。不器用だからどう接していいか分からないだけで……)
アルテミアはフッと柔らかく微笑んだ。
「よし。明日、旦那様にも特製のパンケーキを焼いて差し上げよう。家族なんだから、みんなで美味しく食べた方が絶対に楽しいものね!」
ほんの少しの親切心。
しかし、その優しさが冷血公爵の凍てついた心を溶かし、そして更なる「甘いすれ違い」を生むことを、彼女はまだ知らなかった。その小さな優しさが、公爵の心を大きく揺らすことになる───。
そして夜が深まるにつれ、窓の外では静かに怪しい暗雲が立ち込め始め───遠くで雷鳴が轟こうとしていた。




