第15話 公爵の観察日記
ヴェンツェルが領地仕事から帰還して、数日が過ぎた。
グラウエン公爵邸の朝は、今日も今日とて穏やかで、そして最高に甘やかで騒がしかった。
「お母様! 見て見て、これ上手にできたよ!」
「まあまあ、ルッカちゃん! なんて上手なの! 天才かな!? ううん間違いなく世紀の天才芸術家だわ!!」
「えへへ……お母様、褒めすぎ……っ」
庭園の方から、風に乗って聞こえてくる楽しげな母娘の会話。
かつて静寂と張り詰めた緊張感しかなかった公爵邸では、決して聴くことのできなかった音色だ。
弾むような幼い笑い声。緑の芝生を駆ける小さな足音。それに倣うように、廊下で行き交う使用人たちの挨拶まで明るく朗らかなものへと変わっていた。
「…………」
2階の当主執務室。窓際に佇むヴェンツェル・フォン・グラウエンは、腕を組み、無言で庭園を見下ろしていた。
手には、領地の治安維持に関する重要な報告書が一枚。
……しかし、かれこれ十五分以上、彼はその紙面から一文字も視線を動かしていない。
完全に読んでいなかった。
彼の氷の如き美貌を彩る琥珀色の瞳は、書類ではなく、庭で娘と笑い合う黒髪の妻へと一直線に注がれていた。
「……旦那様」
「…………」
「旦那様?」
「……何だ、ベルトラン」
背後から掛けられた静かな声に、ヴェンツェルはハッと我に返って振り返った。
そこには、湯気を立てる高級紅茶のカップを載せたお盆を手にする執事の姿があった。
「先ほどから、ずっと同じページをご覧になられているようですが」
「……そうか。仕事の考察を深めていただけだ」
「左様でございますか」
ベルトランは、いかにも心得たりといった風に穏やかな笑みを浮かべた。
その笑みが、どことなく意味深で、ヴェンツェルの神経を逆撫でする。
「……何か言いたいことでもあるのか」
「いえ。ただ『旦那様も、随分と熱心にお庭の観賞をなさっているな』と思いまして」
「……当主として、領地の仕事の合間に屋敷の安全と稼働状況を確認しているだけだ。深い意味はない」
「左様でございますか」
「本当に、それだけだ」
「はい、承知いたしました」
「…………」
「…………」
沈黙。
ベルトランは余計なことを追求せず、ただただ、にこにことした表情でヴェンツェルを見つめている。
「……何だその目は。言いたいことがあるならハッキリと言え」
「では、差し出口を叩かせていただきますが」
ベルトランは紅茶を執務机の上に静かに置くと、胸を張って告げた。
「奥様とルッカ様の輪に入りたいのでしたら、素直にお声をかけられてはいかがでしょう?」
「………………」
ヴェンツェルは途端に口を真一文字に結んだ。そして、不機嫌そうに視線を逸らす。
「……必要ない。二人は今、非常に良好な関係を築いている。私が割って入り、雰囲気を害する理由がない」
(……はあ。旦那様、それは完全に『仲間に入りたいけれど、どうやって混ざればいいのか分からずに遠巻きに見つめている不器用な男』の台詞でございますよ……。旦那様……軍略は天才なのに、恋愛戦略だけは破壊的……)
ベルトランは心の中で深い溜息をついた。
だが、それを直接口に出す愚は犯さない。何しろ、自身の長年の胃痛は奥様のおかげで完全に治癒したのだ。ここで当主の機嫌を損ねて余計なストレスを抱え込み、胃薬生活に逆戻りするわけにはいかない。
「では、私はこれで失礼いたします。ごゆるりとお過ごしください」
「ああ」
ベルトランが退出すると、ヴェンツェルは再び窓の外へと向き直った。
庭では、アルテミアがルッカの前に膝をつき、灰銀の髪を優しく整えてやっている。
『じっとしててね、ルッカちゃん。今日はどんなお髪にしようか?』
『お母様に任せる!』
『よし、任せて! 世界一可愛くしちゃうからね!』
アルテミアの弾けるような笑顔。
……あの温かな微笑みは、自分が帰宅してから一度たりとも向けられたことがない。
「…………」
胸の奥が、またチクリと痛んだ。
初夜の約束通り、アルテミアは自分に何ひとつ求めてこない。
公爵家の財産も、権力も、夫としての愛情や営みすらも。
だからこそ、冷徹な軍事顧問であるヴェンツェルにとっては「理想的な都合の良い妻」のはずだった。互いに不干渉を貫き、必要な時にだけ公爵夫妻として振る舞う。それで完璧だったはずなのだ。
───それなのに。
「……なぜだ」
低く、苦々しい呟きが漏れる。
なぜ、彼女がルッカに向かって幸せそうに『お母様』と呼ばれ笑いかけるのを見ると、胸の奥がザワつくのか。
なぜ、ルッカがアルテミアの手をぎゅっと握りしめて歩く姿を見ると、耐えがたい孤独感を覚えるのか。
そして何より───アルテミアが自分と目を合わせず、サッと視線を逸らすたびに。
「……面白くない」
ヴェンツェルは、自身が吐き捨てた言葉に自ら眉をひそめた。
(面白くない? 何がだ。彼女が自分を避け、避難するように距離を置くことが、か?)
「……不毛だな。仕事に戻ろう」
彼は合理主義者らしく、即座に思考を打ち切って書類へペンを走らせ始めた。
……もっとも、それから僅か三分後には、無意識のうちに再び窓の外を注視していた。ペン先は紙の上にあるのに、インクは一滴も減っていなかったのだ。
ふと、窓辺に立つ。
『お母様、見て! あっちに温室があるよ!』
『あら本当! 行ってみましょうか、ルッカちゃん!』
アルテミアとルッカが、楽しそうに手をつないで温室へと向かっていく。
その仲睦まじい後ろ姿を、二階の窓からじっと見つめる冷血公爵。
「…………」
自分には一度も見せたことのない、太陽のような笑顔。
自分には一度も向けられたことのない、甘えるような愛らしい声。
「……私には、あのような顔を見せない……」
ポツリと漏れたその声には、自分でも気づいていない、ほんの少しの『寂しさ』が滲み出ていた。
ガラス張りの温室の中。
色鮮やかな花々に囲まれながら、ルッカが小さな白い花を見つけて目を輝かせていた。
「お母様、これ可愛い!」
「本当ね! なんてお花かしら。図鑑で調べてみましょうか」
アルテミアは図鑑を開き、ルッカを隣に座らせた。小さな肩と肩が触れ合う距離。
「これかな?」
「ううん、葉っぱの形がちがうと思う!」
「じゃあ……これかしら?」
「あ、これ! これだよお母様!」
「大正解! すごいわルッカちゃん!」
「えへへ……!」
ルッカは嬉しそうに頬を緩めると、そっとアルテミアの袖を引いた。
「お母様」
「なあに?」
「私ね、お花も、新しいお洋服も、美味しいパンケーキも好きだけど……」
ルッカは琥珀色の瞳をまっすぐに輝かせ、抱きつくようにして言った。
「お母様と一緒にいるのが、いちばん好き!」
「………………っっっ!!!」
アルテミアは即座に直立不動で固まり、次の瞬間、両手で顔を覆ってその場に沈んだ。
「お嬢様!?」
離れた場所で見守っていた侍女のチセラが慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫ですかお嬢様!? 息をしてください!」
「無理……チセラ、無理……っ!」
「何が無理なのですか!?」
「可愛すぎる……!! 娘が……天使のような私の娘が……『好き』って……『お母様と一緒にいるのが好き』って言ったの……っ!!」
「はいはい、毎度のことですね」
「尊い……尊さのオーバーヒートで脳の回路が焼き切れる……! 私、前世で徳でも積んだの!? こんな奇跡みたいなご褒美もらっていいの!?」
「お嬢様、現世でも悪徳メイド長をロジハラで叩き潰すなど、かなり体を張って頑張っていらっしゃいますから当然の権利です」
「チセラぁぁぁ……!!」
感動のあまりチセラにしがみつくアルテミアを見て、ルッカは嬉しそうに「お母様、変なの!」とくすくす笑った。アルテミアは気付いていた。ルッカは「好き」と言う時ほど、少しだけ不安そうに袖を握る癖がある。
「変でもいいの! ルッカちゃんが可愛すぎるのがいけないんだからね!」
「お母様、だーいすき!」
「〜〜〜〜〜っっ(尊死)」
温室の中に、幸せに満ちた笑い声がどこまでも響き渡る。
……その様子を、温室の外の木陰から、気配を殺して見つめる男が一人。
ヴェンツェルであった。
執務の途中で「館内の巡回」という建前のもと部屋を抜け出し、気づけばここまで足を運んでいたのだ。
(決して様子を見に来たわけではない。当主として敷地の巡回をしているだけだ)と心の中で猛烈に言い訳をしながら。
「……本当に、楽しそうだな」
誰に聞かせるでもなく呟いた、その時。
「旦那様」
「……ッ!?」
背後から掛けられた声に、ヴェンツェルは肩を跳ねさせて振り返った。
そこには、またしても紅茶のトレーを持ったベルトランが立っていた。
「……お前、なぜここにいる」
「それはこちらの台詞でございます。執務中ではなかったのですか?」
「……気分転換の巡回だ」
「なるほど」
ベルトランは、またしてもあの『すべてお見通し』と言わんばかりの笑みを浮かべた。
「では気分転換ついでに、温室に入ってお二人と一緒にお花をご覧になられては? 奥様もルッカ様も、きっと喜ばれますよ」
「……断る」
ヴェンツェルは冷ややかに言い放ち、温室の中へと視線を戻した。
アルテミアがルッカを抱きしめ、二人で顔を見合わせて笑っている。完璧に完成されたその優しい世界の中に、自分が入り込める隙間などどこにもないように思えた。
「……私があの輪に入る必要はない。二人が幸せなら、それで十分だ」
「……旦那様」
「何だ」
「そのようなお顔でおっしゃられましても、何の説得力もございません」
「……どんな顔だ」
「例えるなら……『大好きな飼い主に置いていかれた、捨てられた大型犬』のような、哀愁漂うお顔でございます」
「………………」
冷血公爵の瞳に殺気が宿り、執事をじろりと睨みつける。
ベルトランは「これは失礼いたしました」と慇懃にお辞儀をしたが、その口元はあからさまにプルプルと震えていた。
(ふふふ……これは時間の問題ですな)
ベルトランは確信していた。
奥様が旦那様を避けるのは「顔面国宝すぎて尊死するから(美形過敏症)」。
旦那様が奥様に近づけないのは「自分は嫌われていると大誤解しているから」。
(お互いに明当違いな方向へ爆走しておられる……。旦那様がもう少し素直になって『寂しいから仲間に入れてくれ』と言えれば一発で解決するものを……不器用すぎて愛おしいことだ)
胃薬から解放された執事は、どこか温かな眼差しで主人の不器用な背中を見守るのだった。
その日の夕方。
アルテミアはルッカとともに厨房へ降り、夕食のシチュー作りを手伝っていた。
「おいしくなーれ、おいしくなーれ!」
「ふふ、ルッカちゃんがおまじないをかけてくれたから、今日のシチューは世界一美味しくなるわね!」
「うん!」
そこへ、厨房の重厚な扉が開き、長身の影が差し込んだ。
「……何をしている」
「ひゃいっ!?」
アルテミアが弾かれたように振り返る。そこに立っていたのは、当主ヴェンツェルだった。
「……だ、旦那様!? なぜ厨房に……!?」
「……小腹が空いたのでな。厨房に妻と娘がいると聞いて来てみたのだが」
「あ、ええと……今日はルッカちゃんと一緒に夕食のシチューを作っておりまして……!」
「そうか」
「…………」
「…………」
案の定、アルテミアは速攻で視線を明後日の方向へと逸らした。
ヴェンツェルは(やはり私と目が合うことすら苦痛なのか……)と胸を痛める。
しかし、空気を読んだ天使ルッカが、お玉を持ったまま元気よく言った。
「お父様も、いっしょに食べる?」
「……! ああ、美味しくいただくよ」
「わーい! じゃあ、お父様のぶんもいっぱい作るね!」
「……ああ、楽しみにしている」
ルッカに向けられたヴェンツェルの表情が、ほんの少しだけ、柔らかく緩んだ。
(……あ)
それを見たアルテミアの心臓が、跳ね上がった。
(い、今……笑った……!? 冷血公爵様が……あんな優しい顔で笑うなんて反則でしょうがぁぁぁ!! ギャップ萌えの暴力……! こんなの乙女ゲームのご褒美神スチルじゃん!!)
ヴェンツェルがふとアルテミアの方へ視線を戻すと───。
「〜〜〜〜〜っっ!! (尊死寸前)」
アルテミアはダッ!! と音を立てて露骨に顔を背けた。
(無理無理無理!! ギャップ萌えの破壊力がエグい!! 死んじゃう!! 直視したら私の寿命が尽きる!!)
一方、それを見たヴェンツェルは───。
(……やはり、私には笑顔一つ見せてくれないのだな……。あんな発言をした私には、あの笑顔を向ける理由がないのだろう)
切ない誤解をさらに深めていた。
……だが。
冷血公爵の胸の奥には、かつてなかった熱い感情が確かに芽生え始めていた。
(……もっと、私にも笑いかけてほしい)
(……もっと、私を見てほしい)
それが「恋」や「嫉妬」と呼ばれる感情であることを、男はまだ知らない。
しかし、この日を境に、冷血公爵の『観察』は『妻を理解し、その隣に立ちたい』という切なる願いへと確実に変わり始めていた。
───すれ違う二人の不器用な恋と、家族の絆が本格的に動き出すまで、あと少し。その願いが、やがて彼を大きく動かすことになる───。




