第14話 ルッカちゃん、すこやか化計画を始めます!
ヴェンツェルが帰宅してから数日が経った。
「追い出されるかも……!」と最初はビクビクしていたアルテミアだったが、当の冷血公爵は執務室に籠もって溜まった領地仕事に没頭しており、特に咎められることもない。
「よし、とりあえず今は放置で大丈夫そう!」と悟ったアルテミアは、すぐさま自身の最優先任務───『ルッカちゃんすこやか化計画』へと意識を切り替えていた。
(公爵様のことは一旦バックグラウンド処理! 今は推しの育成が最優先!)
嫌な空気が完全に消え去り、明るい挨拶が行き交う公爵邸。
光が差し込む廊下で、ルッカの小さな手がアルテミアのスカートをぎゅっと握っていた。
「お母様……今日は何をするの?」
「ふふふ、よくぞ聞いてくれました! 今日はね……ルッカちゃんのお買い物大会です!」
「……お洋服? でも、私、今の服でいい……」
ボロボロでサイズも合わない服の裾を、遠慮がちに見つめるルッカ。その愛らしくも健気すぎる姿に、アルテミアの胸がキュッと痛んだ。
ルッカは、欲しいものを見るときほど視線を落とす癖がある。それはまるで、期待して裏切られた経験が、体に染みついているようだった。
───この子は、「これが欲しい」と願って拒絶される怖さを知っているのだ。自分を殺して波風を立てないよう、小さな心を守ってきたのだと。
アルテミアはそっとかがみ込み、ルッカと目線を合わせた。
「ルッカちゃん。新しいお洋服はね、今のがダメだから着るんじゃないの。『これが好き!』って思える服を着ると、毎日がもっと楽しくなるから着るの! ルッカちゃんの服なんだから、誰に遠慮もいらないの。ルッカちゃん自身が『着たい』って思えるものを選んでいいんだよ?」
「……私が、選んでいいの……?」
「もちろん! 世界で一番、ルッカちゃんがワクワクする服にしよう!」
「……選びたい。お母様と一緒に、選びたい……!」
ぽつりと、けれど力強く紡がれた小さな決意。それを聞いた瞬間、アルテミアのオタク魂にドゴォンと巨大な火がついた。
「よーーーし!! 買おう! この世の可愛いを全部買い占めよう!!」
「お嬢様、落ち着いてください。声が大きいです」
後ろに控えていた侍女のチセラが、いつものように冷静なトーンで突っ込みを入れた。
公爵邸の衣装部屋。
そこには、アルテミアが仕立て屋や商人を手配して集めさせたり、屋敷の奥に眠っていた上質な生地を引っ張り出させたりして用意した、レースやリボンで飾られた愛らしい子供服がずらりと並んでいた。パステルカラーのドレスが壁一面に咲いているようだった。
「見てチセラ! この繊細な刺繍! このふわふわのフリル! 何ここ、天使の衣裳部屋かな!? 私は今、天国にいるのかな!?」
「お嬢様、落ち着いてください。お顔が少々……いえ、かなり気持ち悪いです。淑女の皮が完全に剥がれ落ちております」
服を手に取り、目を輝かせて大興奮するアルテミア。
その横で、ルッカは鏡の前にぽつりと立ち、自分の姿を不思議そうに眺めていた。
「……きれい。でも……私には似合わない……」
「そんなこと絶対ない! ほら、よく鏡を見てごらん?」
アルテミアはルッカの肩を優しく抱き、鏡に映る姿を示した。
そこに映っているのは、まだ少し痩せてはいるものの、輝く灰銀の髪と、透き通るような美しい琥珀色の瞳を持った極上の美少女だ。
「可愛い! 世界一可愛い! 私の自慢の娘!」
「……私、可愛い……? ……これ、着てみたい……!」
「着よう!! 今すぐ着よう!!」
仕立て屋の手を借り、お色直しを終えて出てきたルッカ。
その姿が披露された瞬間、衣装部屋に完全な沈黙が訪れた。
淡い桜色の生地に、小さな白いレースがあしらわれた上品なドレス。灰銀の髪によく映え、まるで絵本から飛び出してきた妖精のようだ。
次の瞬間───。
「可愛すぎるぅぅぅ!! 尊い……推しの新規スチルを初めて見た時の衝撃……!」
アルテミアは両手で顔を覆い、その場に膝から崩れ落ちた。
「見てチセラ! 国宝! 妖精! 天使がここに降臨された!! ルッカちゃんが存在するだけでこの公爵邸の資産価値が十倍に跳ね上がったよ!!」
「落ち着いてくださいお嬢様! 呼吸をして! 息を吸って吐いて!」
「……お母様、この服、買っていい……?」
不安そうに首を傾げるルッカに、アルテミアはガバッと起き上がった。
「買う! 全部買う!! この部屋にある服、端から端まで全部買い占める!!」
「お嬢様!! 公爵家の予算を計画的にお使いください! 破産します!」
「破産なんてしないわよ、私には横領を暴いて浮かせた公爵家裏予算があるのよ!!」
「そういう問題ではありません!!」
チセラに必死で羽交い締めにされながら真剣に暴れるアルテミア。
そんな二人のやり取りを見て、ルッカはくすくすと小さく喉を鳴らして笑った。そして、一番最初に試着した淡い桜色のワンピースを、小さな指でそっと指差した。
「これにする。……お母様が、一番最初に『可愛い』って言ってくれたから」
「…………」
アルテミアの口から、ヒュッと白い魂が抜けかけた。
「お嬢様!? しっかりしてください! 魂が戻ってきていません! 生きて!」
「……尊い……尊すぎて心臓が破裂する……こんなの、こんなの反則でしょう……っ!!」
アルテミアは涙目になりながらルッカをぎゅっと抱きしめ返した。
ルッカも嬉しそうに「お母様、一緒に選んでくれてありがとう」と呟き、アルテミアの胸の中に小さく顔を埋めた。
その微笑ましい笑い声と賑やかな歓声を、2階の執務室の窓から見下ろしている男がいた。
当主、ヴェンツェル・フォン・グラウエンである。
書類を捲る手を止め、窓の外を静かに見つめる冷血公爵。
その視線の先では、かつて怯えることしか知らなかった自分の娘が、見たこともないような飛び切りの笑顔で妻に抱きついている。
「…………」
(あんな顔……私には一度も見せたことがない……私だけが、あの輪の外にいるのか)
ヴェンツェルの胸の奥に、チクリとした寂しさと羨望が走る。
自分が帰宅してからというもの、屋敷は劇的に明るくなった。しかし、妻のアルテミアは相変わらず自分と目を合わせようとせず(※美形すぎて直視できないだけ)、娘のルッカも母親であるアルテミアに夢中だ。
完璧に『自分だけが蚊帳の外』であった。
「……旦那様。お茶をお淹れいたしました」
お盆を持った執事ベルトランが、静かに部屋へ入ってきた。
ベルトランの顔には、かつての悲壮感や胃痛に耐える陰りは一切ない。ツヤツヤとした健康的な笑みが浮かんでいる。
「……ベルトラン」
「はい、旦那様」
「……屋敷が、あまりにも賑やかすぎるのではないか?」
少しだけ苦虫を噛み潰したような顔で尋ねるヴェンツェルに、ベルトランは深く、誇らしげに頷いた。
「ええ。奥様がルッカ様のために『お買い物大会』を催しておられるのです。……良い日ですな」
「…………」
「旦那様も、そろそろ執務を切り上げて、あちらに混ざられてはいかがですか? 奥様の作られるお菓子は絶品でございますし、ルッカ様もきっとお喜びになります」
そう言われ、ヴェンツェルは手元の書類へ視線を落とした。
(……混ざれるわけがないだろう。私が行けば、またアルテミアは露骨に視線を逸らし、空気が凍りつくのだから……)
自分が嫌われていると固く信じ込んでいる冷血公爵は、小さく溜息をつき、静かに首を振った。
「……いや、私はここで仕事を続ける。……邪魔はしたくない」
その背中を見つめながら、ベルトランは「はぁ……」と心の中で深くため息をついた。
(旦那様、奥様があなたを直視できないのは『顔が良すぎて尊死しそうだから』であって、決して嫌っているからではないのですが……本当に不器用なお方だ……)
事情をすべて把握している執事は、もう胃薬を飲む必要はないものの、今度は「この不器用すぎる主人の恋愛・家族観の遅れ」に対して新たな生暖かな頭痛を覚え始めていた。
(旦那様……恋愛経験ゼロの女神を放置するとこうなるのです……)
「お母様! 次はあっちの服も着てみたい!」
「はい喜んでー!! 天使の着せ替え人形セット、延長決定です!!」
庭の木陰で、楽しそうに笑い合う母と娘。
それを窓越しに静かに見守る冷血公爵。
冷え切っていた公爵邸は、アルテミアの無自覚な『萌えと愛』の暴走によって、着実に、けれど確実に「ひとつの温かな家族」へと歩みを進めていた。
───冷血旦那が己の誤解に気づき、この『愛と萌えの世界』に自ら飛び込んでくるまで、あとほんの少し。
その“ほんの少し”が、公爵の人生を大きく変えることになる───。




