第13話 冷血公爵、我が家の変貌に絶句する
朝靄の残る街道を、選りすぐりの軍馬が引く黒塗りの馬車が走っていた。
長期間にわたる帝国軍事顧問としての出張を終え、グラウエン公爵領へと帰還した当主ヴェンツェル・フォン・グラウエンは、馬車の窓から流れる景色を冷徹な瞳で見つめていた。
二週間ぶりの我が家。だが、彼にとって公爵邸とは単なる無機質な執務の場に過ぎない。
静まり返った屋敷で、使用人たちは必要最小限の業務をこなし、娘のルッカは怯えたように目を逸らし、そして───お飾り妻のアルテミアは、初夜に提示した『互いに不干渉』という契約を完璧に守っている。
(……あの女は、元気でやっているのだろうか)
ふと脳裏をよぎったのは、初夜に「夫婦としての愛も営みも求めない」と告げた際、なぜか破顔して『承知いたしました!』と力強く頷いた妻の奇妙な笑顔だった。
「……まあ、何の変化もあるまい」
そう呟いたヴェンツェルが正門をくぐった直後、その認識は脆くも打ち砕かれることとなる。
「お帰りなさいませ、旦那様!」
「長旅のお疲れが出ませんよう、すぐにお風呂とお茶のご用意をいたします!」
馬車を降りた瞬間、ヴェンツェルは絶句した。戦場では一切の動揺を見せなかった男が、我が家に帰るだけでわずかに眉を寄せる。
出迎えた門番や使用人たちが、信じられないことに全員満面の笑みを浮かべていたのだ。
それだけではない。無機質だった館の窓はピカピカに磨き上げられ、廊下には季節の花が飾られ、窓は磨き上げられ、廊下には季節の花が飾られ、まるで別の貴族邸のように明るかった。以前のピンと張り詰めた重苦しい空気が綺麗さっぱり消え去っている。
(……なんだ、この異様な明るさは……?)
混乱するヴェンツェルの耳に、庭園の方から愛らしい笑い声が飛び込んできた。
「待って、お母様ー!」
「ふふ、危ないから転ばないでねー!」
芝生の上を、灰銀の髪をなびかせて走る小さな少女。娘のルッカだ。
その後ろを、黒髪の妻アルテミアが楽しそうに追いかけている。
以前のルッカは、父親であるヴェンツェルを見るだけで怯えて身を縮め、逃げるように部屋へ隠れていた。だが、ヴェンツェルと目が合った瞬間───。
「……お父様!」
パッと顔を輝かせたルッカが、自らトコトコと駆け寄ってきたのだ。
「おかえりなさい、お父様!」
「……! あ、ああ……ただいま……」
あまりの衝撃に、戦場でいかなる奇襲にも動じなかった冷血公爵が完全にフリーズした。
娘が笑っている。恐れもなく、自分に向かって自発的に「おかえりなさい」と言ったのだ。
(……私に、笑いかけている? 怯えていたあの子が……?)
そこへ、笑顔を浮かべた執事ベルトランが歩み寄ってきた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「……ベルトラン。お前……なんだか顔色が良くないか?」
「お分かりになりますか!」
ベルトランは誇らしげに胸を張った。
「実は、長年愛用していた胃薬を完全に手放しました! すべては奥様のおかげでございます!」
「……アルテミアが?」
「はい! 奥様が屋敷の不正を正し、勤務体制をホワイト化し、全使用人の意識を改革してくださいました。おかげでこの屋敷は今、愛と笑顔に満ち溢れております!」
周囲の使用人たちからも「奥様最高です!」「奥様のおかげで毎日が楽しいです!」と口々に歓声が上がる。
(……何が起きている……? 私がいない間に、何が……!?)
理解を超えた事態に頭を抱えそうになるヴェンツェル。
そこへ、厨房から出来立ての甘い香りを漂わせたアルテミアが顔を出した。
「ルッカちゃん、焼きたてのパンケーキ……あ」
ヴェンツェルと目が合った瞬間、アルテミアの動きがピタリと止まった。
(む、無理無理無理!! 顔面国宝が帰ってきたぁぁぁ!! 朝から直視したら目が潰れる!! 超絶美形すぎて死んじゃう!! 顔面国宝の帰宅イベント、心の準備ができてない!!)
心の中で叫び声を上げたアルテミアは、限界を迎えてサッと露骨に目を逸らした。
「……お、お帰りなさいませ、旦那様。長旅、お疲れ様でした……」
視線を明後日の方向へ向け、冷や汗を流しながら蚊の泣くような声で挨拶するアルテミア。
それを見たヴェンツェルは、静かに勘違いのどん底へと落ちていった。
(……そうか。使用人やルッカにはあんなにも温かな笑顔を見せるのに……私に対してだけは、直視することすら拒むほどに嫌悪感を抱いているのか……私だけが、避けられているのか)
胸の奥に、かつて感じたことのないチクリとした痛みが走る。
「……アルテミア」
「ひっ、は、はいっ!?」
「……少し、二人で話をしたい。『お飾り妻』の協定についてだ」
(やっぱり来たぁぁぁ!! 役立たずって追い出される奴だこれー!! 絶対追い出されるやつ!!)
青ざめるアルテミアを見て、ヴェンツェルは「やはり私と話すのも苦痛なのか」とさらに誤解を深め、切なげに目を伏せた。
「……協定の解除を含めて、見直したいのだ。だが……今は疲れているだろう。話は後日、改めてする」
「……あ、はい……」
「お父様! お母様の焼いたパンケーキ、一緒に食べよう!」
ルッカが袖を引っ張ると、ヴェンツェルは手渡された温かなパンケーキを見つめ、小さく「……いただく」と答えた。
屋敷中の人間から愛される主母となった妻と、劇的に心を開いた娘。
自分だけが『蚊帳の外』に置かれたような切なさを抱えつつ、冷血公爵は妻が作った甘く温かなパンケーキを一口噛みしめるのだった。
それから数日。ヴェンツェルが帰宅したことで一瞬張り詰めたものの、「あれ? 旦那様、特に怒って追い出してこないぞ……?」と察したアルテミアは、すぐに平常運転へと復帰していた。
そして、ヴェンツェルが執務室で溜まった領地仕事に追われている頃。
廊下では、アルテミアがルッカの手を優しく握りしめていた。
───そう、ここから始まるのだ。
その後、公爵は仕事の合間に、妻と娘の“愛と萌えの暴走”を何度も目撃することになる───。【愛と萌えの大暴走】……すなわち、ルッカちゃんの『すこやか化計画』が!




