第12話 笑顔が増えた公爵邸と、小さな「ただいま」の予行練習
公爵邸の改革が始まってから、十日ほどが経った。
かつてのグラウエン公爵邸を知る者が今の様子を見れば、誰もが我が目を疑っただろう。
建物や調度品、そしてそこで働く使用人たちの顔ぶれは変わっていない。それなのに、屋敷を満たす空気はまるで別の場所のように温かく、柔らかだった。
「……おはようございます、ルッカ様」
朝の廊下。給仕のメイドが声をかけると、ルッカは立ち止まった。
以前なら、失敗を恐れてビクッと体を強張らせ、俯いていたはずだ。けれど今のルッカは、小さな頭をぺこりと下げると、奇跡のような変化を見せた。
「……おはようございますっ」
ほんの少しだけ、けれど確かな笑みを浮かべて挨拶を返したのだ。
(((い、今、ルッカ様が笑ってご挨拶を……!!)))
陰で見守っていた使用人たちが、ハンカチを口にくわえて感動の涙を流す。
侍女のチセラもまた、胸の奥がじんわりと熱くなるのを覚えていた。
ほんの十日前まで、人の気配に怯え、食事すら詰め込むように食べていた幼い少女。その子が今では───。
「チセラ! 今日ね、お庭に行きたいの! お花を見るの!」
そう言って、自分の意思で小さな手を嬉しそうに揺らしている。
屋敷が変わった。アルテミアというたった一人の存在が、この冷え切っていた館の温度を根本から変えてしまったのだ。
「ルッカちゃん、おはよう!」
「お母様……!」
食堂の扉を開けるなり、ルッカは迷わずアルテミアの元へと駆け寄った。
アルテミアは即座にしゃがみ込み、小さな身体をぎゅっと抱きしめる。
「今日も元気? ご飯、いっぱい食べようね!」
「うん! いっぱい食べる!」
食卓に並ぶのは、焼きたてのパンとスープ、そしてツヤツヤと輝くフレッシュな苺。
「苺……!」
「好きなだけ食べていいんだよ。美味しいものを食べて、いっぱい寝て、いっぱい遊ぶ! そして───いっぱい愛されるのが、ルッカちゃんのお仕事なんだから!」
「……愛される……? ずっと……?」
「ずっと! ルッカちゃんが『もう嫌だ』って言うまで、永遠に!」
「嫌って言わない……!」
屈託なく笑うルッカの破壊力に、アルテミアの心の中は大惨事だった。
(か、可愛いぃぃぃぃぃ!! 何この天使!? 尊さの過剰摂取で死ぬ!! 毎朝『お母様』って呼んでもらえるこの状況、前世でどんな徳を積んだらこうなるの!?)
表向きは淑女の微笑みを保ちつつ、脳内では尊さのあまり乱舞するアルテミア。
食後、二人は庭園へと向かった。
以前は「公爵家の権威を示すための完璧すぎる庭」だった場所だが、今やルッカが植えた小さな花壇があり、子供用のじょうろが置かれている。
「お母様、お水あげる!」
「はいどうぞ! ……あ、ちょっとあげすぎかな? でも可愛いから良し!」
「ふふっ!」
泥で少し服を汚しながら笑い合う二人を、庭師も使用人たちも温かく見守っていた。
「公爵令嬢が土をいじるなんて」と咎める者は一人もいない。子供が笑っていること以上に大切なことなどないのだと、屋敷の全員が学び始めていたからだ。
執務室では、ベルトランが完璧に機能している新しいシフト表を眺めていた。
「……実に平和でございますな」
「でしょう? ちゃんと休んで、ちゃんとお給料をもらえば、みんな自然と笑顔になります!」
「ふふ、公爵邸始まって以来の快挙です。……そういえば奥様、今度使用人全員を集めた『お茶会』を開催したいとおっしゃっていましたが」
「はい! 日頃の感謝を込めて、おいしいケーキを振る舞うお茶会です!」
「……使用人を招いてお茶会をする公爵家など、前代未聞でございます」
「じゃあ、うちが歴史上第一号ですね!」
堂々と胸を張るアルテミアに、ベルトランは心からの笑みを漏らした。長年の胃痛は完全に消え去り、彼の表情もまた、以前よりずっと柔らかくなっていた。
夕方、庭から戻ってきたアルテミアとルッカ。
「ただいまー!」
「おかえりなさいませ、奥様、ルッカ様」
出迎えた使用人たちに、ルッカは小さく、けれどしっかりと声を届かせた。
「……ただいま!」
その一言に、玄関ホールにいた全員の目元が緩む。
帰っても誰も待っていなかった場所から、「おかえり」と言ってくれる温かな「家」へ。
「お母様、ただいま」
「……おかえり、ルッカちゃん!」
アルテミアはルッカを力いっぱい抱きしめた。ルッカの小さな手が、二度と離れないようにアルテミアの服をぎゅっと掴む。
その夜。ルッカを寝かしつけたアルテミアは、ベランダから夜空を見上げていた。
「……平和だなぁ。このまま穏やかに暮らせるといいな」
「ええ、お嬢様がいれば絶対大丈夫です!」とチセラが胸を張る。
だが、その頃───。
公爵邸から遠く離れた暗闇の街道を、一輌の黒塗りの馬車が猛スピードで駆け抜けていた。
馬車の中で腕を組み、冷徹な瞳で窓外を見つめる一人の男。氷のような灰銀の髪に、鋭い紫紺の瞳。軍服を纏った圧倒的な存在感。
グラウエン公爵家当主───ヴェンツェル・フォン・グラウエン。
「……明朝には屋敷に着くか」
2週間ぶりに我が家へと帰還する冷血公爵。
彼が思い描くのは、静まり返った無機質な屋敷と、言われるがままに従うお飾り妻、そして影の薄い娘の姿だった。
「……特に変わりはあるまい」
そう呟くヴェンツェル。
だが、彼はまだ何も知らなかった。自分が留守にしている間に、屋敷から恐怖と緊張が消え去り、使用人たちが生き生きと働き、実の娘が自分ではなく妻にベッタリ懐いて「お母様!」と笑顔を見せ、そして───妻が屋敷中の人間から「絶対的主人」として崇め奉られているという、驚天動地の現実を。
翌朝。何も知らないアルテミアは、厨房で袖をまくり上げていた。
「よし! 今日はルッカちゃんのために、特製イチゴジャムパンケーキを焼くわよ!」
「お母様のパンケーキ! 楽しみ!」
朝の厨房に、母娘の弾んだ笑い声が響き渡る。
その直後。公爵邸の重厚な正門が、ゆっくりと開け放たれた───。




