第11話 公爵邸の働き方改革を始めます!
悪徳メイド長マルタが憲兵隊に引き立てられていった翌日。
グラウエン公爵邸には、どこか奇妙な静けさが漂っていた。
昨日までの息が詰まるような重苦しさではない。巨大な毒腫を削り取ったあとのような、ほんの少し気の抜けた、けれど清々しい空気。
けれど、廊下の空気が軽い。まるで、長年張り詰めていた糸がふっと緩んだようだった。
「……さて!」
そんな朝。アルテミアは執務室の大きな長机に、山のような書類をドサリと広げていた。
向かいには執事ベルトラン、そしてその隣には侍女のチセラが待機している。
机上に並べられたのは、使用人名簿、勤務記録、給与台帳、各部署の業務一覧。そして───何やらカラフルなマス目で区切られた、見慣れない巨大な一覧表だった。
「……奥様。それは一体?」
ベルトランが恐る恐る覗き込む。
「ふふふ、よくぞ聞いてくれました! これは『シフト表』です! この色分けはね、前世で推しのイベント周回スケジュールを管理してた時の技術を応用してます!」
「前世? 推し?」
はてなを飛ばすベルトランとチセラアルを置き去りに、テミアは満面の笑みで胸を張った。
「公爵邸の人事異動と勤務体制を、一度一から徹底的に見直してホワイト化します!」
「……ほわいと?」
首を傾げるチセラに、アルテミアは前世の社畜魂を滾らせて力説する。
「簡単に言えば! 『ちゃんと働いた人が、ちゃんと休めて、ちゃんとお給料をもらえる職場環境』のことです! 悪い害虫を駆除しただけじゃ屋敷は良くなりません。働いている人が極限まで疲れ切っていたら、必ずまた歪みが出る。無理が出れば不満が溜まり、その不満は弱い者……つまりルッカちゃんのような子供への八つ当たりに変わるんです!」
指を一本ずつ折りながら論理的に熱弁するアルテミア。ベルトランは静かに、けれど深く感服するように頷いた。
「なるほど……昨日の粛正は終わりではなく、本当の改革の始まりというわけですな」
「その通りです! 誰も犠牲にならない、健全な公爵邸を作りましょう!」
「まずは人数の把握と適材適所の人事異動です!」
アルテミアはペンを走りらせる。
「現在、使用人は総勢四十一名。人数は十分ですが、配置が支離滅裂です。暇を持て余している部署がある一方で、一人に業務が集中して悲鳴を上げている部署がある。……例えば、厨房補助の方を一人、午前中だけルッカちゃんの生活補助へ回しましょう。庭師さんには、ルッカちゃんと一緒に花壇のお手入れをしてもらえるようお願いしたいです」
「庭師は子供好きですから、喜んで引き受けるかと」
「それから、一番の問題はこれです!」
アルテミアが指し示したのは、過酷すぎる勤務記録だった。
「朝五時から夜九時まで連続勤務……? こっちは朝六時から深夜まで……? ちょっとベルトランさん、これどう考えても労働基準法……じゃなくて、人道に反してますよね!? 休憩時間はどうなってるんですか!?」
「記録上はございますが……実際の現場ではまともに取れていないのが実情でございます」
「信じられない! サービス残業と過労死の温床じゃないですか! これ、前世なら完全にブラック企業ですよ!? いや、ブラック企業でもここまでひどくない!」
アルテミアはガタッと椅子を蹴って立ち上がった。
「チセラ! お茶を!」
「はいっ!」
「私、ちょっと怒ってきます!」
「どちらへ!?」
「厨房です! 働きすぎの料理長に今すぐ休憩を取らせてきます!」
ベルトランは呆然としながら、(奥様は怒るポイントが非常に独特だ……)と胃のあたりを撫で下ろした。
その後、アルテミアとベルトランは丸一日を費やし、早朝・日中・夕方・夜勤の完全交代制シフトを作成。必ず週休二日を確保し、急病時のボトルネックをなくすための交代要員も設定した。
「急な休日出勤が発生した場合は?」
「もちろん、特別手当の休日割増給与を公爵家から支給します!」
「採用でございます!」
「……奥様。失礼ですが、公爵家の経営や人事について、本当にお詳しいですね。男爵家ではどのようなご教育を?」
「あ……えーっと、前世で社畜……じゃなくて! 社会勉強です! 過酷な社会の荒波を揉まれてきた経験から!」
「なるほど。社会勉強、でございますな」
ベルトランは深く追及せず、温かい目で見逃してくれた。
そして、最後の問題が残されていた。
「……マルタの不正に加担していた、元ルッカ様付きのメイド三人についてですが」
ベルトランがトーンを落として切り出す。
「直接的な横領の証拠はありませんが、嘘の報告書作成などに協力していました。処分は解雇が妥当かと」
アルテミアは少し思い巡らせ、彼女たちとの面談を希望した。
面会室に呼び出された三人の若いメイドは、蒼白な顔でボロボロと涙をこぼしながら平伏した。
「申し訳ございませんでした……! マルタ様に逆らったら、私たちが屋敷を追い出されて路頭に迷うことになって……怖くて拒絶できませんでした……!」
「自分たちの保身のために、ルッカ様を放置してしまったこと……どんな処分でも受けます……!」
自責と恐怖に怯える三人を見つめ、アルテミアは静かに、けれど厳格に告げた。
「あなたたちがしたことは罪です。どんな理由があれ、幼い子供を傷つける手助けをしたことは許されません。……だから、まずはルッカちゃんに心から謝罪しなさい」
「はい……っ、はい……!」
「そして、横領の罪は重いですが……あなたたち自身の給料はどうなっていたの?」
アルテミアの鋭い問いかけに、三人は顔を見合わせた。すかさずベルトランが補足する。
「調べましたところ……マルタは『庇ってやっている』という口実で、彼女たちの給与の三割を毎月不正徴収していた模様です」
「……は?」
アルテミアの瞳から一瞬で光が消え、絶対零度の声が落ちた。
「弱みを握って不正に従わせた挙句、給料まで搾取していたの? ……どこまで腐ってるのあの害虫は!」
アルテミアは震える三人の前にかがみ込み、視線を合わせた。
「あなたたちには、罪の償いとして明日から別の部署へ移動してもらいます。当面、ルッカちゃんと直接関わる仕事からは外します。……ですが、マルタに奪われた給与の未払い分は、公爵家から全額あなたたちに返還します。あ! 罪は償わせますよ? でも、搾取された分まで奪うのは違うと思うんです。あなたたちの労働の価値は、ちゃんと形にしないと……」
三人は呆然と目を見開いた。
「え……お、お給料を……返していただけるのですか……? 私たちは、そんな温情を受ける資格なんて……」
「罪の処分と、労働に対する対価は別物です。不当に搾取されたお金まで失う必要はありません。……その代わり、これからは新しい体制のもとで、真面目に、正直に働いてこの屋敷に恩を返しなさい。いいですね?」
「はい……っ! ありがとうございます……! ありがとうございます、奥様……!」
三人は床に額をこすりつけ、感涙にむせんだのだった。
夕暮れ時。執務室には、完璧に整えられた新しい給料台帳とホワイトな勤務表が完成していた。
「マルタの不正徴収分も含め、全使用人への未払い給与の補填額が算出できました。……見事なご采配でございます、奥様」
ベルトランが心からの敬意を込めて深々と頭を下げる。
「ふふ、これでよし! 働いてくれる人がしっかり休んで、ちゃんとお給料をもらって美味しいご飯を食べる。そうすれば、屋敷全体が明るくなって、もっと楽しく働けるでしょう?」
「……ええ。本当に、その通りでございますな」
ベルトランは窓の外を見やった。
(……この屋敷が、こんなにも温かくなる日が来るとは)
茜色に染まる公爵邸の庭園。以前のような冷たい静寂ではなく、どこか柔らかで温かな雰囲気に満ちている。
「……本当に、良い『お家』になりそうですな」
「はい! だってここは、ルッカちゃんのお家ですから!」
屈託のない笑顔で答えるアルテミアに、ベルトランは静かに微笑みを返した。
「それだけではございませんよ、奥様。……ここは、奥様のお家でもございます」
「え……私の?」
「はい。あなたがこの屋敷の、真の主母なのですから」
不意を突かれたアルテミアは、ぽかんとした後、少し照れくさそうに頬を染めた。
「……そうですね。じゃあ……みんなのお家にしましょう!」
その言葉に、ベルトランの胸が熱くなる。
このお飾りとして嫁いできたはずの若い奥様が、硬く閉ざされていた公爵邸の扉を、その優しさと圧倒的な行動力で次々と開けていく。
その時───廊下からパタパタと愛らしい足音が響いてきた。
「お母様ー!」
「! ルッカちゃん!」
扉が開くと、そこには少し頬に赤みが差し、元気に駆け寄ってくるルッカの姿があった。
「お母様……お庭、一緒に行きたい……!」
「もちろん行くよー!!」
アルテミアは即座に書類を脇へ押しやった。
「ベルトランさん! 今日の業務は終了です! ホワイト公爵邸は定時退社が基本です! ベルトランさんも早く帰って休んでくださいね!」
「……はは、承知いたしました」
手をつないで楽しそうに廊下を走っていく二人を見送りながら、ベルトランは新しいシフト表を愛おしそうに撫でた。
(奥様は不可思議な言葉を発せられますな)
働く者が守られ、子供が笑い、温かな光が満ちる場所。
グラウエン公爵邸は、冷たい「屋敷」から、誰もが愛する「家」へと劇的な変貌を遂げつつあった。
───冷血公爵ヴェンツェルが帰宅し、自分の家が『ホワイトすぎる天国』に生まれ変わっていることに絶句するまで、あと数日。




