第10話 公前粛清と、胃痛執事の衝撃
翌朝。グラウエン公爵邸の大広間には、異様な緊張感が漂っていた。
集められた全使用人たちの視線が中央に注がれる。帳簿が机に山積みにされ、使用人たちがざわめく中、マルタの額に汗が滲む。
アルテミアの笑顔の影がさらに濃くなる。そこには、数年分の帳簿と証拠の束を前に堂々と座るアルテミアと、その横で顔面を蒼白にして震えるメイド長マルタの姿があった。
「───というわけで。メイド長マルタによる、公爵令嬢ルッカ様へのネグレクト、および長年にわたる公爵家予算の二重計上と横領の件。証拠はすべて揃っています」
アルテミアは朗らかな笑顔のまま、一切の容赦なく不正の証拠を一枚ずつ全使用人の前で読み上げていった。
「ひっ……! 違っ、私は……!」
「言い逃れは不可能です。マルタさん、あなたの筆跡鑑定も済んでいます。……幼い令嬢から食事と衣服を奪い、私腹を肥やしていた害虫を、この家屋敷に置いておくわけにはいきません」
アルテミアの冷徹な一言とともに、ベルトランの合図で控えの護衛たちが踏み込み、マルタの腕を拘束する。
「お、奥様! ご容赦を! 私は長年この家に仕えて───」
「長年仕えていてこれなら、なおさら悪質ですね。……引き立てなさい。警備隊へ引き渡します」
ギャンギャンと見苦しく叫ぶマルタが引きずられていく。
全使用人が息を呑む中、アルテミアはにっこりと微笑み、残された使用人たちを見渡した。
「皆さん。私は『大切な家族』を傷つける者を絶対に許しません。私は家族を守るためなら、誰が相手でも容赦しません! ですが、真面目にこの家に仕えてくださる方には、相応の待遇とお給料でお応えします。……公爵邸の大掃除は、これにて完了です!」
ぶわっと広がったのは、恐れではなく「この奥様についていけば安心だ」という圧倒的な信服感と歓声だった。
粛清劇を終え、執務室へと戻ったアルテミア。
余韻も冷めやらぬまま、さっそく「ルッカちゃんの生活環境改善計画(予算案)」の作成に取りかかっていた。
「これ、絶対におかしいですよね。公爵家の予算は十分あるのに、これまでのルッカちゃんへの支出は皆無だった。……浮いた横領分をすべてルッカちゃんのドレスと美味しいご飯に回しましょう!」
心底楽しそうに提案するアルテミアを前に、執事ベルトランは深々と息を吐いた。
(……一体、何者なのだ、この奥様は)
政略結婚で嫁いできた『お飾り妻』のはずが、長年誰も手を出せなかった悪徳メイド長を一朝一夕で叩き潰し、使用人たちの心を一瞬で掌握してしまった。
「……奥様。なぜ、ここまでなさるのですか?」
「え? ルッカちゃんが可愛いからですけど」
「……それだけ、でございますか?」
「それだけです! 五歳の子供が美味しいご飯を食べて、暖かい服を着て安心して眠る。そんなの当たり前じゃないですか。ずっと一人だったこの子の味方に、誰かがなってあげなきゃ!」
アルテミアの迷いない言葉が、ベルトランの胸に突き刺さった。
助けたかった。けれど長年仕える身では証拠も権限もなく、見て見ぬふりをするしかなかった。それこそが彼の最大の屈辱だったのだ。
「……申し訳ございません。私は執事でありながら、何もできませんでした……」
「責めていませんよ。ベルトランさんはずっとルッカちゃんを心配していたんでしょう? だったら───これから一緒にやりましょう!」
「私と……奥様で、でございますか?」
「はい! 私は帳簿と生活改善担当! ベルトランさんは屋敷の情報担当! 二人が組めば最強のコンビじゃないですか!」
「…………ふふっ。最強、でございますか。ええ、二人合わされば───無敵でございますな」
胸のつかえが落ち、ベルトランの口から久しぶりに心からの笑いが漏れた。
そこへチセラが駆け込んできた。遠くにはルッカの姿も見える。
「お嬢様! ルッカ様がお呼びです!」
「すぐ行くわ!」
(……この屋敷で、ルッカ様がが笑う日が来るなんて)
駆け出していくアルテミアの後ろ姿を見送りながら、ベルトランはふと自分の胃に手に当てた。
(……あれ? 痛くない……?)
長年の胃痛が嘘のように消えていた。彼は引き出しを開け、長年愛用していた胃薬の瓶を静かに奥へ仕舞い込んだ。もう、これに頼る必要はなさそうだ。
「お母様!」
廊下を走ってきた小さな影が、アルテミアの胸にぽんと飛び込んできた。
「わっ! ルッカちゃん……え?」
(お、お母様……!? 今、私に『お母様』って言った!? この子……こんなに小さな声で……どれだけ言いたかったんだろう……)
アルテミアの胸が痛む。けれど、自分を見つめるルッカの顔を見た瞬間───。
(えっ、尊い! 天使!? 尊すぎて胸が痛い! 私、今日が命日なのかな!?)
爆発しそうなオタクの歓喜を必死に抑え込みながら、ルッカを優しくぎゅっと抱きしめる。
「……だめ?」
「ダメなわけないでしょ! 世界一嬉しいよ、ルッカちゃん!」
隣でチセラが号泣し、廊下の陰では使用人がそっと涙を拭っていた。
公爵邸に確実に吹き始めた温かな風。
だが───数日後に帰宅し、すっかり『温かなホームドラマ空間』へと変貌した我が家に呆然と立ち尽くすことになる冷血公爵ヴェンツェルは、この時の惨状(と奇跡)を、まだ何も知らない。
また、その変化は、帰宅した公爵の心を大きく揺らすことになる───。




