閑話三 下
重く濃くなっていく灰色の雲。
まだ夕刻にもならないのに薄暗く、ぬるま湯の中にいるような淀んだ森の空気。
「クソぉ……!
相変わらず薄気味悪い森だぜっ!」
「この森ってさぁ……なんかぬるいっていうかさぁ……」
「めっちゃわかる!
気色の悪いしけった空気が体に纏わりついて気持ち悪いんだよな!」
少しでも早く森から出たい一心で、軽口を叩きながらも走る速度は上がっていく。
「なんつーかよぉ……鎧の隙間からジメジメしたナメクジが入り込んで来てるみてぇだよな……」
「たぶんさぁ、あの沼のせいだろ……」
「水気が多くて地面も泥っぽいから嫌になっちまう!
滑るし、走りにくいしよぉ……!」
深い森の奥にある大きな沼。
その沼の影響か、この辺り一帯の地面は一年を通して水気を多く含んでいた。
「…………はぁっ……本当に気味の悪い森だな……」
軽口なのか、愚痴なのか。
それとも、薄暗く気持ちの悪い空気が停滞する森の中の空気に当てられないようになのか。
フレドリックもまた肺の中の気持ちの悪い空気を吐き出すようにため息をつく。
「……おい……」
「あ……?」
「……なんか、可笑しくないか?」
足早になっていく訓練生達の一人が走る足を止めることなくボソリと呟く。
「何が可笑しいって……?」
「この森って……こんなに静かだったか……?」
三人で固まってフレドリックの前を走っていた訓練生達の一人が発した疑問。
「静かって……森の中は静かだろうが……」
「そうそう……!
森の中でずっとバカ笑いする奴なんていないだろう!」
森が静かだと周囲を見渡す訓練生に対して、仲間の二人が鼻で笑う。
「…………。
(何を言ってるんだ、アイツは。
森は静かな方が魔物の気配に気が付けるから都合がいいだろう。)」
そんな三人のやり取りを聞こうと思わなくても、フレドリックの耳が勝手に拾ってしまう。
訓練生達のバカ笑いが聞こえない、今みたいに自分達の足音しか聞こえない方が静かで余程いいとフレドリックは思う。
「……お前ら……剣は持ってるな?」
「ああ?」
「走って戻るだけのくんれ……」
「おい、お坊ちゃん……アンタも剣を持ってるな?」
周囲を見渡し、何かに気が付いた訓練生の一人が、仲間の二人とフレドリックへ剣を持っているか確認する。
微かに吹いているはずの湿り気を帯びた獣の吐いた息のような風すらない静かな、静か過ぎる森。
「おい、だから……」
「走れよ、何があっても止まるなよ」
「おまえ、いい加減に……」
剣の柄に手を伸ばし、周囲へ視線を走らせる訓練生の一人に仲間が悪ふざけはやめろと叫ぼうとした瞬間。
「走れっ!
こんな深い森の中で虫や鳥の声が聞こえねぇはずがないんだっっ!!」
「「「?!」」」
その一言と同時に訓練所に向かって一気に走り出した最初に異変に気が付いた訓練生。
一拍遅れて走り出した仲間の訓練生やフレドリックの背後でギャオォォッッンンっと魔物の咆哮が湿った森の空気を揺るがす。
「ぎゃっ……くそ!
くたばれっクソがっっ!」
先頭を切って走る訓練生の左手の茂みから狼のような魔物が襲いかかる。
「この野郎っ……!」
「ひっ……離せっ離しやがれっっ……!」
前に後ろに斜めに、次々に茂みの中から現れる狼のような魔物の群れ。
素早い動きで訓練生たちを翻弄し、連携した動きで訓練生を追い詰めていく。
「あひっ?!
た、たしゅけっっ、いぎゃあっっ……!」
襲い掛かってきた複数の魔物に対応しきれずに、足を噛みつかれた訓練生の一人が引きずり倒される。
「かひっ……ひゅ、ひっ……ぃ……」
倒れた獲物に狙いを付けて、もう一匹の魔物が首元へ喰らいつき、茂みの奥へと引きずっていく。
「くっ……何なんだっ……!」
三人いた訓練生の内一人が殺られ、残りの二人は仲間を助けることなく走り去って行く。
そして、そんな生き残りそうな二人とフレドリックは分断されてしまう。
「(私はこんな所でっ!
こんな所で死ぬような男じゃない!)」
後ろだけでなく、横からも次々に現れる魔物。
フレドリックは生き残るために泥にまみれながら走る。
「はっ……くっ…そがぁっっ!」
何故だ、という疑問がフレドリックの頭でグルグル回る。
同じ装備、同じような体つき、同じ性別、同じ訓練生。
同じ条件が重なっているはずなのに……魔物の大半がフレドリック目掛けて真っ赤な牙と爪を振り下ろす。
仕留めて血が溢れた獲物もいるのに。
血に餓えているはずの魔物の大半が、鼻先をフレドリックに向けるのだ。
「このっ……!」
魔物に追い立てられるように、墓穴に追い込まれるように走り続けるフレドリックの息が上がっていく。
「この私がっ!
魔物なんかにっっ!!」
甚振られる弱い獲物のように、フレドリックの体に怪我が増え、血の匂いが獲物を興奮させていく。
迫り来る死の恐怖を怒りで必死に誤魔化し、震えて縺れそうになる動かす。
「このぉっっ……っ?!」
己の鍛え続けた剣技が届かないことに、フレドリックは追い詰められる。
弱い己を認めたくないとばかりに、型も忘れて力任せに振るった愛剣。
「うそ、だ……!」
力任せに振るった一撃により、輝かしい愛剣がまるでヒビでも入っていたかのように甲高い音を立てて折れてしまう。
「あ……」
折れてしまった愛剣の欠片が宙を舞い、呆然としたフレドリックを映す。
「……んでっ……」
それでも、フレドリックは刃の短くなった愛剣で威嚇しながら必死で逃げる。
「っ……!
(この、匂いは虫除けのっ……!)」
ズルリと泥に足を取られたフレドリックの体が傾き、あの布を目掛けて喰らいつく魔物。
叫び声を上げることなくフレドリックの体は崖の下へと落ちていった。
―――大粒の雨が降り始める。
幼い頃の忘れかけた遠い記憶。
「ほら、やるよ。
虫に刺されるのは嫌だろ?」
夕焼けのような赤銅色の髪。
掌には小さな匂い袋。
「いらないっ!」
差し出された手を払った子供。
「兄上はできそこないだってみんな笑ってる!
お前とちがってぼくはりっぱな騎士になるんだ!」
振り払われて宙を飛び、中身が飛び散った匂い袋。
「……そーかよ。」
柔らかな薬草の香りと共に背を向けた兄はどんな表情だったのか?
―――激しい雨足が視界も、音も、匂いすらも消し去っていく。
「……わた、しはっ……」
頬を体を打つ雨粒にフレドリックの意識が浮上する。
「っっ……うっ……」
しかし、微かに身じろいだだけで走る脇腹の激痛。
浅い呼吸だけで痛む肺。
「(……私、は……)」
目だけを動かせば、動かない魔物の亡骸。
「(あの匂いは……虫除け、じゃなかった……?)」
雨が体温を奪い、思考も霞んでいく。
「(わた、しは……まちがってなど……)」
狭くなっていく視界。
遠くなっていく雨音。
「……ら……さ、ま……す、てら……」
狭くなった視界に誰かの足が映る。
遠くなった耳に誰かの声が聞こえる。
「(……あ、にう……)」
顔の近く、べシャリと跳ねる泥。
何処にでもある靴。
「(……だ、れだ……?)」
降り止まない雨に紛れて現れた男。
「立派な騎士様は死に際も綺麗なものだべよ」
見上げた先に変わらないヘラリとした笑顔。
変わらない温度の声。
「念のために魔物の牙を持ってて良かっただぁ……今、楽にしてやるだよぉ」
その言葉を最後にフレドリックの意識は消え去った。




