5-2暗転した視界
茹だるような暑さが肺を焼く。
空はいつの間にか曇っており、今にも雨を降らしそうな重たい灰色に変わっていた。
厳島神社はこんなに遠かっただろうか。ただ歩いているだけなのに、山登りをしているみたいに息苦しい。
必要以上に辺りを確認してしまう。黒いもやの影が見えなかったのが唯一の救いだ。
目深にかぶったハットのおかげで、誰にも気づかれることなく神社の手前までたどり着けた。
「すみれ」
そこにいたのは、イッチさんだ。
まるで先日の再演のように、同じ服、同じ立ち位置で私を出迎える。違うのは、日の向きが変わって逆光になっていることくらい。
「イッチさん! 動画が……」
「ええ。確認しましたが、どうやら発信者は先日のイベントに参加して途中で帰った男性のようですねえ。恥をかかされたことへの、ちょっとした意趣返しのつもりだったのでしょう……そして、それを拡散したのはあのマルチの方です」
「そんな、どうやって……」
「それなんですけど」
イッチさんが手招きしてくる。近寄ると、耳元でひっそりとささやかれた。
「スセリヒメが関わってるかと」
「……タゴさんの……」
「そう。トンビを使役していたときの光景なんて、神様でもない限り見つけられませんよ。こうなっては私には対応のしようがありません」
「そんな……」
イッチさんなら……ここならどうにかできると思い込んでいた。そうでなきゃ。
そうでなきゃ……私はどうなる?
結衣ちゃんに浴びせられた視線の冷たさを知っている。あの騒動の翌日から、彼女の「おはよう」に返事をする者はいなくなり、移動教室だって給食の時間だって一人きりになっていると聞いた。
このまま夏休みが明けてしまったら?
耳がキーンとなって視界が揺らぐ。
「すみれ?」
「怖い、です……怖い」
「……ねえ、すみれ。前も言いましたけど、『人の噂も七十五日』ですよ」
イッチさんが美しい手で私の頬をなでる。親指でゆっくりと優しくなぞられ、花の香りが鼻をかすめた。
「少し休んじゃえばいいんですよ。残りの夏休みと、新学期の1カ月くらいでも。そのころには新しいニュースが世間を騒がせています。クラスメイトや先生もすみれを出迎えてくれます。元々すみれは塾で勉強も頑張ってるんでしょう? すぐに追いつけます」
「でも」
「誰が責めましょう。人生の、ほんの一瞬じゃないですか。ご両親は今まで、すみれが休んで怒ったことがありますか?」
「ない、ですけど……」
両親は、突然体調を崩して学校を休んでも何も言わない。
身体的な病ではないと、うすうす気づいてはいるだろう。けれど、いつだって責めずにご飯を用意してくれるのだ。私は自室の布団に包まって、平日をただぼんやりと過ごす。
リビングから普段は見ることのない通販番組の音が聞こえ、窓の外のカラスが羽ばたくのを何とはなしに見つめる。ただゆっくりと時間が流れていく。そんな、まどろみの時間。
「ね。バイト先やご両親にすみれの気持ちを伝えてみましょう?」
イッチさんは慈愛に満ちた表情をしていた。浮世離れした美貌はまるで絵画のよう。
ゆっくりと手を離され、頬がひんやりとする。
「ほら、もうすぐ雨が降ってしまいますよ。戻らなくては……ね?」
私は続く言葉を思いつかなかった。
どうやって土産屋まで戻ったのか覚えていない。
ただ、来たときとは違って何の感情も言葉も湧き上がってこなかった。
頭の奥がどんよりと重たくなっていて、何も考えがまとまらない。
「すみれちゃん?」
ああ、美香さんが心配をしているのに上手に返事ができない。
握りしめていたハットを受け取ってくれたのにお礼も言えない。
……人間らしい情動が、蛇口を閉められたみたいに出てこない。
「……すみれちゃん。何ならしばらくお休みしよっか? 私も少しぐらい時間取れるし」
「ちょうど新しいバイトの応募もあって、私の体もだいぶようなってきたけんね。お店のことなら心配ないけん」
それが心配からきていることを知っているのに、どうして傷ついたような気持ちになるのだろう?
雨が降り始めた。近場のお店は次々と日よけのテントをたたみ始め、軒先にサーと小粒の雨が落ちるのが見える。
よほど顔色が悪かったのか、稲田さんや美香さんに促されて私は早退することになった。
フェリーの到着を待っていると、ひそひそとした声が聞こえ始める。
「……だよ……それ」
「よね! それでさ、……」
楽しそうな弾んだ声。顔が見えないように向きを変えても、気になってしまう。
私のことだったらどうしよう。電車の中も、帰り道も、この先もずっとこんな感じだったら……?
ガードレールのない崖をずっと歩かされているような心細さ。結衣ちゃんはずっとこんな世界にいたのだろうか。
イッチさんの、甘やかな声がリフレインする。
『少し休んじゃえばいいんですよ』
その声に身を委ねてしまえば、もう苦しくないのだろうか。
バイトもそのまま辞めて、事が落ち着いたら何食わぬ顔をして学校へ行って……。
改札を潜ろうとしたそのときだ。ぼんやりとしていた思考を両断するように快活な声が辺りに響いた。
「すみれ! 待ってくれ」
「……タギツ様?」
「間に合ってよかった」
構内に響くヒールの音。タギツ様は滴る雨をものともせず、まっすぐ私の方へと向かってきた。
振り返った女性たちが、顔を赤らめている。私は慌てて改札の列から横に外れてタギツ様の元へ。
「よく聞いてくれ。あまり時間がない」
「一体どうしたんですか」
「君は今、妹から強制的に『穢れ』の状態にさせられている」
「け、けがれ……?」
タギツ様は神妙な面持ちで頷いた。
「君の馴染みがある説明をするなら『黒いもや』だ。自分では見えないだろうが、かなり吸い寄せてしまっている。すみれは見える人だからね……」
ゾッとした。おびただしい量のもやを貼り付けていた田口くんの顔を思い出したのだ。
「イッチさんが、なぜそんなことを」
「……妹は君に何と言った?」
私が知る限りの事情を説明すると、タギツ様は苦い顔で「ありえない」と首を振った。
「確かにスセリヒメの介入はあるだろうが、あの方は少し手癖が悪いだけで、姉上との関係はそこまで悪くない。最初から妹が事態を収拾できると分かってて、ちょっかいを出してきたんだよ」
「……え」
「その分野で妹が負けるはずがない。あの子が『わざと問題を放置している』んだ」
絶句する。一体どうして。
そんなに嫌われるようなことをしてしまったのだろうか。
優しく接してくれたその裏では、私のことを……?
「聞いてくれ!」
タギツ様は私の両肩をがっしりとつかんだ。
「よくない思考に走ってはいけない。それは君の本意じゃない。黒いもやがそうさせているんだ」
「でも……」
「いいかい? 妹がわざわざそんなことをしたのには理由がある。姉上の調子が悪いんだよ」
最近全然姿を見られなかったのはそのせいだったんだ。タギツ様は私の目をまっすぐ見つめた。
「姉上は最近、君に肩入れして力を使いすぎてしまっていた」
「タゴさんが?」
「……そんな顔をしないでおくれ。誤解しないでほしい……といっても無理かな。まあ、うん。少しすみれの力になりたいと張り切りすぎていたんだ。それが平等さを欠くとみなされてペナルティを受けた」
タギツ様は「神にもいろいろあってね」と大げさに肩をすくめる。
……そうか、だからこの島に黒いもやが入り込む隙ができたんだ。
タゴさんは大丈夫なのだろうか。私を助けるためだなんて、どうして。
「妹は、君を姉上から遠ざけたほうがいいと判断したんだろう。だけど、私たち宗像三女神は正しい道を照らす神だからね、基本的に悪いことができないんだ」
そういえば、タゴさんが響さんと桜さんの仲を引き裂こうとしたときも、ことごとく失敗に終わっていた。
「だから、今回の件を利用した……?」
「随分と遠回りな方法さ。でも効果はてきめんだったみたいだね。今まさに君はこの島から追い出されようとしている。まったく……」
タギツ様のため息に、私の肩が跳ねた。
「すみれのせいじゃない」
「いえ……私がこの島に来なければ、タゴさんに無理をさせることもなかったはずです」
「私はそうは思わないよ」
タギツ様は私の手に何かを乗せた。手のひらに程よく収まるパッケージ。これは……土産屋で売っているもみじ饅頭?
「姉上がいつも買ってきてくれるんだ。君の前にいる姉上を思い出してみて……ぐっ……!」
「タギツ様!?」
「目ざとい妹だな……すまない。ここからは力を貸してあげられない。君が自力で『穢れ』を解いてくれ。そして、もう一度姉上に」
くい、と見えない力に体が引っ張られる感覚。
私の足は、苦しそうなタギツ様を放って勝手にフェリー乗り場のほうへ向かう。
タギツ様の名をもう一度呼ぼうとして、息しか出ないことに気づく。声が、声が出ない!
接岸したフェリーに次々と客が吸い込まれていく。その列に巻き込まれるように、私もフェリーに流れ込んだ。
島がどんどん遠ざかっていく。青い波に紛れていって、しまいには見えなくなる。
「ねー、あれってさぁ……」
嫌な視線に気づいて、とっさにその場を離れた。
もう顔を隠してくれるハットはない。人の多い船室を避けて甲板の隅にたたずむ。
自力で解決なんて……そんなの無理だよ。タゴさんを窮地に追いやり、イッチさんに遠ざけられている私には……。
「無理だよ……」
私の独り言が、塩辛い海の水に溶けていく。
波の影がいつもより黒く見えた。
帰ってからは、私は風呂だけ入ってご飯も食べずに自室に引っ込んだ。
父も母もまだ動画のことは知らないようだった。そういうのには疎い人たちだから情報が入ることはないだろう。
問題は外の人たちだ。学校のクラスメイトも塾の生徒も、すぐに気づくだろう。
……何から考えればいいのか分からなくなってしまった。自分のことのはずなのに、どこか問題の輪郭を感じられずにいる。
黒いもやの姿は見えない。鏡を見ても覇気のない私が見返してくるだけだった。
ベッドに寝転がると、降り続く雨の音だけが聞こえた。
「どうしよう……」
机の上にはもみじ饅頭がある。タゴさんが好きなこしあんだ。どの味がいいか一通り悩んだ後、結局いつもコレを注文する。
「どうしたらいいですか、タゴさん」
タゴさんなら何て言うだろう。
「情けないわね」と一蹴する? それとも「アンタならもっとやれるでしょ」と激励する?
「……ううん、違う」
『まずはアンタができることを考えなくちゃ、でしょ』
……そう。多分タゴさんならそう言う。
私に決められるのは自分の行動だけなんだ。すべての状況をいったん横に置いてみて、それでも私がしたいことは何か。
目を閉じ、流れ込んでこようとする雑念をすべて流していく。
今の私が、したいこと。




