5-1膿みだす悪意
白い光がカーテンのすき間から漏れ、私のまぶたを乱暴になでる。
淡い夢の残像が遠のいていき、脳が一日の始まりを認識した。
「今日は……バイトか」
先日、宮島に遊びに来てくれた響さんと桜さんにお礼を言われた。神崎さん自ら連絡先を消し、一切関わってこなくなったという。
多分、イッチさんが仕掛けた脅しが効いたのだろう。USBメモリの分析で顧客のリストに侵入できたのだと、土産屋に顔を出したイッチさんが言っていた。
……その日もタゴさんは来なかった。
家を出て、いつもの電車に乗り宮島を目指す。
ホームに到着した電車の扉が開き、足を踏み入れた瞬間、車内の薄暗さに驚く。
電灯が故障しているのだろうか……いや、違う!
「……!!」
人に張り付いたおびただしい量の黒いもやが、一斉にこちらを見ていた。私が影だと思っていたのは、車内の隙間を埋め尽くしていたもやだったのだ。
とっさに電車の扉の方を向き、景色を眺めているふりをする。
何で、こっちを気にして……。
「ね……あれ、……じゃない?」
「……だよ。絶対……」
ひそひそした声が向こうから聞こえる。窓越しに見ると、私のことを噂しているようだった。
イッチさんの動画のせいだろうか? それにしては、何か嫌な気配がする。
なめくじが這いずり回るような悪寒。早く着け。早く。
なるべく目を合わせないようにして、手すりを握りしめた。
電車が着くまでの30分が今までで一番長く感じられる。まだバイトが始まってすらいないのに、電車を降りる頃には帰宅するときと同じくらい疲れていた。
けれど、こんなことで休みたくない。
「……よし」
両足にグッと力を入れ、私はフェリー乗り場に向かった。
宮島に入りさえすれば、あの黒いもやは着いてこられないはずだ。
……そのはずだった。
「え……?」
船を降りてすぐの景色に、私は呆然とした。
いる。1〜2体ではあるが、人の体にしがみついたまま黒いもやが島に侵入してきている!
よほどの「悪いもの」が入り込んだのか、もしくはこの島の力が弱まった……?
どちらにせよ、何かよくないことが起きている。
けれど、バイトの時間まで猶予がなかった。終わったら厳島神社に行ってみよう。後ろ髪を引かれながらも、私は早歩きで土産屋に向かった。
事件が起こったのは、わずか1時間後のことだった。
「あのー!」
大股で歩いてきた男2人組が、大きな声で私を呼び止めた。返事をする前に何かを突き出される……マイク?
「これ、あなたですよね?」
問いかけた男はスマホを操作すると私に画面を見せる。
SNSに貼りつられた動画。それはイッチさんの動画ではなかった。
「何……これ」
投稿文は「やばい女おった」という一文のみ。
画面には、私が厳島神社で本殿に向かって一人で喋りかけている姿が長々と映し出されていた。
顔にほんのりとモザイクが掛けられているものの、明らかに私だとわかる。
「ねー、これあなたですよね? 噂になってるんすよ。マジで霊が見えちゃってるんですか? シンソー、教えてくださーい」
マイクの先端が私に触れるか触れないかのところまで来て、私はヒュッとのどを鳴らした。
この人、黒いもやが……。
視界を遮るように、マイクと私の間に手が差し込まれる。
「うちの店員にそういうのやめてもらえます? 迷惑行為で訴えますよ」
「……美香さん!?」
手をたどった先に、鋭い目つきで男たちをにらむ美香さんがいた。私を背中に隠すように間に入り込む。
「録画を止めてください」
「えぇ~でも、皆気になってるんですよ……」
「他のお客様のご迷惑になります。これ以上続けるなら、こちらも正式に対応させていただきますけど」
美香さんがスマホを取り出すと、男たちは舌打ちをしながらも録画を止め足早に去っていった。
隣のもみじ饅頭屋さんが、心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫です! お騒がせしました」
美香さんがにこりと笑いかけ、そのまま私を店の奥に誘導した。
部屋に座っていた稲田さんが「どしたんね?」と尋ねてきた。
「いやいやいや、どーしたもこーしたも……すみれちゃん、一体何があった?」
さっき見た動画が頭の中をぐるぐると回っている。
美香さんは、スマホの画面をスワイプさせてSNSの画面を見せてくれた。
そこには、先ほどの動画以外にもいくつかの動画がアップされていた。いつぞやタゴさんが響さんと桜さんにトンビをけしかけたときの様子を角度を変えて切り取り、私がトンビに命令しているような動画もある。
いつの間にこんなものを? いや、それよりも誰がこんなことを……?
「すみれちゃんがインチキ霊媒師みたいな扱いになってる動画がすごい回ってくるの。びっくりして、授業休んでこっち来ちゃったわ」
「っすみません、私も何が何だか……」
自分のスマホでも確認する。元動画をたどると、全て「ピトヒノン@婚活垢」という人が発信していた。
でも、その人自身が投稿したのは今日よりずっと前の日付だ。誰かが拾い上げて拡散している。
「……大丈夫? 何かに巻き込まれてる?」
「わ、からないです……ごめんなさい……」
「すみれちゃんが謝ることじゃないよ」
「こっち来んさい。お茶飲んだら少し気分がよくなるじゃろ」
稲田さんが大きなペットボトルからコップにお茶を注いでくれる。
受け取ったコップを両手で握りしめるが、水面がずっと揺らいでいて飲めない。
頭が、ぐらぐらする……。
『インチキのくせに! 何が霊能だ』
向かい合う結衣ちゃんに、田口くんが怒っている……。
「落ち着いて……顔が真っ青よ」
「ごめんなさい……お店に、迷惑が」
「大丈夫だから。ね?」
嘘だ。大丈夫なわけがない。あんなに出回り続けたら、さっきみたいに私を見つける人たちがたくさん出てくる。
「ごめんなさい……」
「……今日はお休みしよ! 夕方、人が少なくなってきたら帰ればいいから。ね、おばあちゃん」
「もちろんええよ。奥にアイスがあるけん、食べようねえ」
「やった! おばあちゃん大好きっ」
二人の優しさが、柔らかくて、温かくて、痛い。
「……すみません。私、ちょっと出てきます」
「え、でもまだ外は危ないよ」
「すぐ戻るので!」
スマホと財布だけポケットに入れて立ち上がった私を、稲田さんが「ちょっと待ちんさい」と柔らかく呼び止める。
「これ、被っていきぃ」
軽そうな生地のアウトドアハットだ。つば広で、被ると簡単には目元が見えなくなる。
「よぉ分からんけど、暑いじゃろ、外は」
「……ありがとうございます」
いよいよ目頭が熱くなってきて、眉に力を入れて耐える。
まだ何も分かっていないんだ。とにかく確認をしなくちゃ!




