4-3腹の虫が治まらない
立ち上がった桜さんに続いて何となく忍び足で歩く。お隣なので、すぐに到着した。
これは正当な理由、これは正当な理由……住居侵入、いやいや……。
鍵を開けるまでの間が妙にじれったく感じた。
「おじゃましまーす」
桜さんは勝手知ったる様子でさっさと部屋に上がってしまった。
賃貸用のアパートだけあって、作りは桜さんの部屋と同じだ。料理が好きなのか、通り道のキッチンにはいろいろな調理器具が壁からぶら下がっていた。
テレビ前のローテーブルとは別に小さなデスクが置かれている。立てかけてあるのは教科書だろうか。英語や経済学の本が並んでいる。恐らくここで勉強をするのだろう。
デスクチェアにトートバッグが置いてあり、その中からタブレットがのぞいているのを発見した。
これじゃない……!?
「何か手がかりがあればいいんだけどね……」
「そ、そうですね!」
桜さんは背中を向けて棚の方を触っている。今がチャンスだ!
私はポケットに収めていたUSBメモリを取り出し、素早くタブレットに差し込んだ。
直接差せるタイプで良かった。念のため接続用のケーブルも持ってきたけど、使わなくて済みそうだ。
USBメモリは接続した途端、淡い光を放ち始めた。
イッチさんが言うには、私にしか見えないのだそうだ。電源を付けなくても作動し、この光が赤から青に変わったら引っこ抜いていいという合図らしい。見た目はUSBメモリだけど、やっぱり何らかのスーパー神様パワーが宿っているみたい。
予めメッセージで教えてもらっていなかったらすごく慌てただろうなあ……。ただ、何となくタブレットを少しだけトートバッグの奥に押し込めておく。
安堵のため息が漏れた。これでミッションは半分クリアだ。
後は、桜さんに合わせて辺りを探しているフリでもしておけばいい。
テレビ台の下でも見ようかと屈んだ、まさにその瞬間だ。
カチャッ……ガチャ、ガチャン
玄関で、鍵を開ける音がした。
私たちの目線は無意識に音のする方へ。
黒い金属の扉がゆっくりと開いていき、一瞬差し込んだ光を人影が遮るのが見えた。
こめかみの辺りがサーッと冷えていく。
「……は?」
現れた響さんは、信じられないものを見たような目で玄関に立ち尽くしていた。
「え、なん……え?」
そして一瞬、電源の落ちた家電みたいに動かなくなった後、まなじりを決して靴を脱ぎ捨てた。
「桜ァ!」
「なんで、今日はバイトじゃ……」
「シフトが変わったんだよ! 何してんだ!? 俺がいない間に家を漁って……しかも、この子……」
響さんがチラリとこちらを見たので肩が跳ねた。
どうしよう、声が出ない。何か言わなきゃいけないのに。
響さんの怒りの矛先はすぐに桜さんに戻る。
「どういうつもりだ? なあ……人んちに勝手に上がり込むとか、お前自分のやってること分かってんのかよ」
「でも、こうでもしないと」
「こうでもしないと何? 別に俺がどうしてたっていいだろ。なんも迷惑かけてない」
「危ない詐欺に引っかかろうとしてるじゃん!」
「……あぁあぁ、そうだよな。そうやってまた俺の方がおかしいっていうわけ。詐欺? 別にバーベキューとフットサルに誘われただけだけど? いいよな、桜は……自分は彼氏とうまくいってるから、俺にもご立派な説教をしようって思ったんだ」
「そんなんじゃない!」
「そんなんだろ!?」
ヒートアップしていく口論が、狭い部屋の中でぐわんぐわんと駆け巡る。
薄い酸素を取り込んでも、声にならず口から出ていってしまう。
だめ。だめだ。このままじゃいけない。桜さんも、響さんも、怒っている。
怒っているけど、それだけじゃない。すごく……悲しそうだった。泣きこそしないものの、その目は歪んだまま「なんで?」と問いたげに相手へ注がれている。
美香さんの話を思い出す。稲田さんが、ほうきを振り回していたときの話だ。
……だとしたら、桜さんには説得できないのかもしれない。
「……あのぉ!」
スカスカの声。でも二人の耳にはちゃんと届いたようだった。
桜さんと響さんは、口論を止めて私のほうに目を向ける。
もう一度、何か言葉を発しようと息を吸い込んだとき。
グオォォォオオン……!
二人の視線が、私の顔からおなかへと落ちた。
胃が収縮する感覚。とっさにおなかを押さえて背を丸めると、「クォッ」とささやかな抵抗が返ってきた。
顔にギューンと血が上る。
「……ファミレスでよかったら近くにあるけど……」
響さんの遠慮がちな声で、少し泣きそうになった。
* * *
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
桜さんから回ってきた注文用のタブレットを受け取り、にらめっこする。
二人は無言のままササっと注文を済ませていた。うう、どれもまあまあ高い……。
宮島のときもこんな感じでテーブルに向かい合ったな。違うのは座る場所と、タゴさんがいないことか。
響さんと桜さんは対面して座っており、私は桜さんの隣にちょこんと腰掛けている状態だ。
役割を終えたタブレットに気づいた桜さんが「注文できた?」と言って回収してくれた。
「……さっきは言い過ぎた。ごめん」
「響さん……」
口火を切ったのは、意外にも響さんだった。
窓の外を見ながらボソリと呟く。
「あんなふうに言うつもりじゃなくて。俺、なんか最近おかしいな、ほんと」
「……私らも、勝手に調べるような真似してごめん」
「君がいるってことは、やっぱりマルチを疑ってるんだよな?」
私が頷くと、響さんは店員が運んできた水に視線を落とした。
「だよな……こないだは疑っちゃってごめんね。俺も君が正しいと思う」
「……怒らないんですか?」
「俺、一応経済学部だからね。まあ成績は、んん……あの後神崎さんと会ってしっかり話を聞いたらさすがにこれはヤベーやつだなーって思ったんだよ。ただ、なんつか……」
言葉を探す響さんがグラスの水を飲む。
平日のファミレスは人が少なく、一度沈黙が落ちると有線の落ち着いたクラシックが場を支配した。
「大学にいると俺だけ本当なんもなくてさ。バイトのメンバーも全員彼氏彼女持ちだし、サークルも……アレだし。もう就活のことも考えないとだし、そんなこと言ってたら卒論とかすぐだろうし。俺、焦ってんのかな。神崎さんと話してると、すごく『俺のことを見てくれてる』って思えたんだ」
きちんとボールを打ち返してくれている感じ。
響さんが言ったその言葉で、私はタゴさんの顔を思い浮かべた。
タゴさんは私の考えをちゃんと聞いてくれる。スケジュールは……やや強引に組み込まれたりもするけど、いつだって私が抱く感情の手触りを共有してくれる。
稲田さんだってそう。美香さんだってそうだ。もしみんなが私のことを消耗品のように扱っていたら、きっと私は今こうしてファミレスまで来られていない。
ゆっくり目を閉じ、開ける。響さんの顔を見た。
私は大学生の二人がずいぶん大人に見えていたのだけど、今は二人が急速に身近に思える。
彼らは壁を隔てた存在ではなく、地続きのラインにいて少し先を歩いている先輩なんだ。
喉のつかえが取れたように、自然と言葉が浮かんでくる。
「私は、響さんすごいと思います」
「え?」
「だって、自分のやりたい勉強をして、一人暮らしもして、バイトとかサークルとかいろいろ頑張って……私は……」
「すみれちゃん……?」
スカートのすそをつかむ。誰にも言ったことはなかった。
「……今、あまり学校に行けてないんです。学校にいると苦しくて……仲のいい友達とかもいません。よく休むから。勉強だけはと思って塾に行ってるし、クラスの子も、先生に言われてるんだと思うんですが塾で話しかけてくれたりします。でも、でも……」
二人の顔が心配そうに曇る。ほら、優しい人たちだ。自分のことで大変なのに、こうして心を分けてくれる。
結衣ちゃんの一件以来、私は学校という建物にいることにとても居心地の悪さを感じるようになった。
ひどいときは吐き気が止まらない。そういう弱っているときには黒いもやを呼び込みやすく、一度体調を崩すと寝込む羽目になる。
先生もクラスの子も私のことを体が弱い人間だと思っているようだ。それをいいことに、自分の殻に閉じこもって少し顔を出してはまた戻る、を繰り返している。きっと結衣ちゃんには見抜かれているだろう。
……私はずっとずっと、夏休みが明けるのが怖かった。
「だから響さん。なんもなく、ないです。大丈夫……」
響さんは、口をすぼませて今にも泣き出しそうだ。
と思ったら、その目からポロリと雫が零れ落ちた。あれ、泣いてる……!?
「響さん?」
「ごめ、なんか俺情けな……、すみれちゃん、だったよね? 言ってなかったけど俺、塾講師のバイトなんだ。そういう子にも会ったことあるよ。言いづらいことだったよね」
「響が泣いてどうするの」
桜さんがポケットティッシュを渡す。素直に受け取った響さんは目頭をギューッと押さえていた。
対して私は、何だか冷静な気持ちになっていた。これはアレだ。自分よりパニックな人がいると感情が落ち着くやつ。
「本当にありがとう……ズッ……、ここまでしてくれて」
「いえ、私は何も」
「私からもありがとうだよ」
横にいた桜さんが私の手を握る。じわっと温まって、緊張ですっかり冷えきっていたことに気づいた。
「いっぱい助けられちゃったね」
「桜さん……」
「あのぅ、先にとんかつ御膳とチーズインハンバーグをお待ちのお客様……よろしいでしょうか」
店員さんが、手を取って見つめ合う女二人と向かいで号泣する男に、遠慮がちに声を掛けてきたのだった。




