278 モデルハウス
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次回更新は12/07(日)
(1576 一条房基(54))
荒廃していく京では、摂家である本家の一条家の屋敷や土佐一条家の京屋敷は増改築を繰り返してきた。土佐一条家の屋敷は常駐している兵が多く、半砦化されていたため、公家を交えての会合は京一条家の屋敷を使うことが多かった。地方の武家を迎え入れるために縁のある公家の屋敷の増改築をさせてもらった。伊予と縁がある西園寺家。大内義房室の実家である勸修寺家。一条房平室の実家である山科家。一条家家臣の飛鳥井家の本家筋である飛鳥井家は朽木元綱母の実家でもある。
戦国時代の屋敷は寝殿造りや武家造りから書院造りへの移行期に当たる。板敷きに丸い柱で、襖ではなく屏風などで仕切られていた形態から、畳敷きに四角い柱で、襖や障子で間仕切りされるようになる。一般庶民はムシロやゴザを敷き、布団ではなく着物を上から掛けて寝ていた(実際、農村部では昭和になるまで畳などは使われなかったという)。
四国では紙生産の効率化を図り、各地で大量安価に紙が生産されるようになり、障子の製作の後押しになっていた。稲作からイ草など商品作物への農地転換も進み、畳や美麗な花ゴザも作られている。伊予の中心都市である愛媛の武家屋敷群はすべて畳敷きで、障子が前提の建物ばかりになっていた。
公家達の間で名古屋遷都の話が浸透していく中で、土佐の大工達が改修・改築した家々に人を招いた。暖かみのある畳部屋。障子で明るい室内。綿の入った暖かい半纏や丹前。目に見える形で衣食住のうち衣と住の新しい形を見せる。遷都に対する漠然とした不安を少しでも解消するためだ。増改築した屋敷だけではなく、荒廃した京の街の中でいくつか押さえていた土地に、小、中、大規模の屋敷を建てていく。これらをモデルハウスとして宿泊体験を行うと同時に、公家達からニーズの聞き取りを行っていく。
転生者達の意見も取り入れていく。千利休からは茶室の提案があった。織田陣営からは引掛桟瓦の提案があった。引掛桟瓦が考案されたのは明治時代だという。最適な形の瓦の開発や工法を確立するには時間が必要だが、現地の開発さえ始まっていない今ならば導入できそうである。
駿府から今川義元が上洛した。義元の逗留先は中御門家。今川義元の母である寿桂尼は中御門家9代目である宣胤の娘。駿府に下向していた11代当主である宣綱と共に上洛してきた。義元とは長らく手紙でやり取りをしてきたが、京で初めて会うことになった。
「死ぬまで会うことができぬままと思っていたが、このような展開になるとはな。不思議なものよ」
義元は3歳年上の57歳には見えなかった。最年長の松永久秀もそうだが、転生者達は総じて若く見える。病気になりにくいし、精神や身体が強化されているのだろう。
『お互いになかなか楽隠居させてもらえそうにないですね』
「この中御門家の屋敷はずいぶん快適に改修されていて驚いた。駿府にいるよりも楽な隠居生活ができそうだ。中御門家にもずいぶんと援助してくれていたようで感謝している」
『土佐一条家の初代である教房公の母は、中御門家から嫁いで来た方だったそうです。私にもあなた同様に中御門家の血が流れている。不思議な縁です』
中御門家6代目の娘が私の曾祖母であったのだ。
「その不思議な縁にすがりたい。駿府でも畳を作りたい。技術協力をお願いできないだろうか」
『周防や備後でもイ草栽培を始めている。畳の原材料であるイ草は塩分に強いので、海岸近くや埋め立てて干拓した土地を中心にイ草栽培を始めてもらいたい。その間に畳職人の育成のために土佐から指導者を送ることにしよう。名古屋遷都にはたくさんの畳が必要になるだろう』
今川義元は北条や織田と同盟を結び、内政に力を注いできた。土佐に多くの若者を留学させ、農業改革と産業振興を真似た。十分に国力を貯えた上で、軍事力は北へ向けて南信濃を切り取った。軍事侵攻偏重の織田や一色と違って、河川整備もされて田畑は増えているし、干拓事業も行われている。イ草に転作する余力がある。
「四国との貿易赤字が解消することはないから、こちらの産物が増えるのはありがたい。今川家は名古屋遷都には全面的に協力していく。織田家とは信長の父親だった信秀の代から同盟を結んでいる。駿相甲同盟も続いている。制約は多いが、何かこちらでできることはないか?」
『今川家は南信濃を勢力下においている。木材などの建材は木を伐採してから乾燥させる時間が必要なので、早めに調達してもらうことになるだろう。名古屋近郊の土地が欲しい。大量の物資の集積地を押さえておきたい。今川家として確保した集積地で四国や堺の商人達の倉庫として使う場所を貸し出して欲しい』
私が織田陣営と交渉すれば警戒されるだろう。商取引の形を取って橋頭堡を確保しておきたい。
「遷都利権に食い込みたいのはこちらも同じだ。今川家としても織田家が突出して力を持つことは避けたい。すでに現地調査に信玄が向かっている。なるべく良い場所を探しておくように伝えておこう」
まずは都市を造る作業員の街とそれを支える鍛冶や料理、道具類の職人の街が出来ていく。色街も含めて都が出来る前に、リトル土佐やリトル伊予の街を造ってしまう準備はもう始まっているのだ。
民家に瓦葺きが導入され始めたのは江戸時代中期。今の形である波型の引掛桟瓦が考案されたのは明治時代。屋根全体の重量が半減され、耐震性、耐火性が向上した。
中御門宣綱は今川義元の義兄。徳川家康に攻められた掛川城で籠城中に病死した。
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