271 宮将軍構想
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次回更新は10/19(日)
(1575 一条房基(53))
一条便と呼ばれる全国各地への情報伝達網の発信地は、政務の中心である愛媛に移っていた。前将軍の葬儀内容などは京から発信したが、問い合わせの返信などは愛媛に届く。一条家の名の下に一条家のルートを使うため、私が発信する内容も、私個人宛の返信も当主である息子か家老職が目を通している。高智大学校で行われている技術開発については、一条義輝・市夫妻へ報告が上がり、私には概要だけが届く。同様に商業活動に関しては豊富秀吉から概要が届く。越後の未来を憂いていた謙信は遣欧使節に参加して西欧に渡ったが、帰国する様子がない。喜々とした内容の報告だけが届いている。第三の人生を謳歌しているようだが、おそらく西欧からも飛び出して、北中米あたりに行くのではないかと思っている。
前将軍の葬儀から帰国し、愛媛で報告を行い、今後についての協議を行った。毛利領三分割の報を受け、検討や協議を行い、一条便での発信を行う。一段落したため愛媛から高知へ戻り、蒸気機関や電気研究の進捗を確認した。電気については研究初期であり、やっと静電気発生装置に着手した程度であった。
高知で足利義元が御所へ逃げ込んだという第一報を受け、急ぎ京へ向かった。政務が手を離れ、次代への技術開発の目処がつき、文学研究三昧できると思っていたのに落ち着けそうにない。
京で待っていたのは織田信長(41)、一色義龍(48)、明智光秀(47)、津田信広(46)、織田信行(39)、竹中重治(31)、織田長益(28)、京に詰めている全員であった。他の転生者達は軍を率いて各地に配されている。
『・・・ここは非公式の場ということでよいのかな?』
立ったまま織田信長に尋ねる。
「非公式の場だ」
『わかった。誰か私の供の者達の刀と履物を取ってきてくれないか。ついでに別室に控えている他の者も皆、庭先に案内してくれ』
縁側に向かい全ての襖を開け放つ。手入れをされたいい庭だった。
『2人とも庭に降りて、十間ほど離れた場所で控えていてくれ。他の者が来たら1人帰して状況を伝えるように』
供の1人にそれだけ伝えると、腰の脇差を預けて庭側中央の柱を背にどっかりと座り込んだ。
『無作法なのは許してくれ、ここは敵地だと思っている。呼びつけたのはそちらだ。譲るところは譲ったつもりだ。こちらに集まって話を始めよう』
場全体をこちらのペースに引きずり込む。皆で顔を見合わせた後、ぞろぞろと集まる。茶を運んできた者は車座に座った一同に驚き、慌てて離れていった。
「そちらの家臣たちは何も聞かず、何も言わず、よくああして従うものだな。それにこちらを見ているのではなく、動き回っている」
京都奉行である一色義龍が声をかけてくる。
『想定の範囲内だ。事前に話し合いは済ませてある。合図があれば私を見捨てて、全員が脱出することと決まっている。待機部屋に居るよりも生きて帰る可能性は高いだろう。動き回っているのは狙撃対策もあるが、じっとしているより早く初動に移れるからだろう。こちらの話ももう聞こえていないはずだ。本題に早く入ってくれ』
「御所から動かれぬ将軍への対処についてだ。幕臣の話を聞こうとしない。大内(義房)殿を交渉相手に指名されたが、大内殿は一条殿と一緒でなければ応対しないと言われている」
『その前に、どうしてこうなった。一色殿の軍と大内殿の兵が交戦したと聞いている。大内殿の兵は実質は一条の兵だ。こちらも少なからず被害が出ている。一条の民が傷つき、弟が危険にさらされたのだ。尾張にある津島と熱田の港が廃墟になるくらいの覚悟はあるのだろうな?』
政所執事の明智光秀一人がずいっとにじり出して平伏する
「私が先走ったのが原因なのです。明智の兵だけでは足りず、一色の兵にも指示を出して将軍の身柄を押さえようとしたのです」
『一色の家老職でもある明智殿の命であるから一色の兵も動いた。京都奉行の兵が動いたとなれば、呼応して織田の兵も臨戦態勢に入った、ということかな? では、何故、将軍を拘束しようとしたのです?』
「独自の政権運営を画策し、兵を集めて軍を組織しようとするなど、目に余る動きを抑えようと考えていました。ゆくゆくは大政奉還させる方針だったのです。まさか後継も考えずに将軍職返上を言い出すとは思いもしませんでした」
織田信長が答えると、織田信行が話を続ける。
「大政(委任)論はこれから少しずつ広める予定でした。摂家か親王家から宮将軍を迎え、最終的には立憲君主制を視野に入れて動いていくつもりだったのです」
『鎌倉幕府の4代と5代は摂家将軍、以降は宮将軍でしたね。今回の騒動は「光秀の乱」として歴史に刻まれることになるのでしょうか。明智殿は損な役回りを押し付けられましたね』
明智光秀の独断だったはずがない。それにしても大政奉還とはな。織田幕府ではなく明治維新まで時代を進めるつもりなのか?
「選挙による立法府への道のりは長いでしょうが、それまでは公家と武家、公武合体の議会を構成する構想です。我らはまだ朝廷とは信頼関係を構築中で、議論のギの字も始まっていません。宮中との橋渡しをお願いできないでしょうか」
将軍でさえ正四位下の官位であった。この中で位が上なのは信長で従四位上。戦続きで摂家とは面識くらいしかないのかもしれない。
『いきなり摂家将軍・宮将軍は難しいでしょう。しばらくは将軍は空位のままですね。その将軍様の取り扱いはどのように?』
「京に居てもらっても困ります。阿波平島に戻っていただくわけにはいかないでしょうか?」
答えたのは管領代である織田信行。
『一条から所領を与えるわけにはいかないでしょう。静養が必要でしょうから屋敷を用意して、身の回りのお世話はこちらで何とかしましょう。隠居料として幕府の予算からそれなりの年俸を出していただくことを検討してください。名目はお任せします』
足利将軍は14代で終わることとなった。このような最後で良いとは思えない。織田政権にとっては邪魔でしかないだろうが、安住の地を用意してやるべきだろう。
鎌倉時代の宮騒動は元号から寛元の乱、首謀者から名越の乱とも呼ばれたので、今回は光秀の乱として、光秀の名を刻むことにしました。
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