222 ●謙信と信玄
今回は少し時が遡ります。
感想、誤字報告いつもありがとうございます。
次回更新は11/17(日)
(1557-1559 ●長尾景虎(27))
越後を出奔(206話)するも、頼る先は限られた。まずは、元服前の寺にいた時から支援をしてくれていた(119話)一条房基へ長年の礼をするために土佐へ向かった。供回りは忍者衆10名前後、元服を機会に一条房基との連絡係であった村松秀直を家臣に迎え、忍者衆[軒猿]を組織した。直轄組織なので解体することになったが、村松秀直など年配の者たちは越後に残ることを希望。秀直の息子である村松高直を中心とした若い世代と越後を後にした。上洛時のような1000名を超える大移動と違い、慎重に越後を抜けだした後は早かった。越前に入ると一条家の忍者衆と連携して下向していた公家衆に紛れて京に入った。一条忍者衆の規模の大きさと手の長さを実感した。
京で待っていたのは千利休(35)。
「前回の上洛から4年ぶりですか。まさか越後一国を投げ出されるとは」
『反抗的な国人衆には、ほとほと愛想が尽きました。それより本能寺で茶席を設けていただけるとは驚きました』
茶室は新築の香りがした。寺もまだ建てられたばかりのように新しいものだった。
「歴史的に有名な場所ですからね。よい記念になると思ったのです。それに、一条公のお屋敷はいろいろな勢力が監視しておりますから避けたのです」
確かに、表向きには接点がない身では出入りしにくい。
『本能寺とはどういったご縁で?』
「20年ほど前の戦乱で京の大半が焼けました(91話)。本能寺を始め日蓮宗は京を追放され、多くは堺へ逃れていたのです。京へ戻ることが許されたのは10年ほど前になるでしょうか。再建の援助をしたのが縁になります」
『それもまた一条公が?』
「ほんの一部ですね。再建された寺は15もありましたから。門徒の数と信仰心は想像以上ですよ」
確かに寺社の見た目は新しい建物が多かった。ボロボロな屋敷を見たら公家だと思え、と言われたくらいだ。
『一条公にお礼をするために土佐へ向かおうと思っているのですが、ご助力願えますか?』
本題を切り出す。
「その件ですが、一条公から伝言です。『礼を言うだけなら既に何度も手紙を受け取っているから土佐に来るには及ばず。願いがあるなら手紙を寄こせ』だそうです」
出奔を決意し、各方面に連絡して準備する時間が必要だったとはいえ、土佐に伝わり、指示が帰ってきていたことに驚いた。
『・・・・嫌われましたかな?』
「・・・・お忙しい方ですからね。・・・・せっかく自由の身になったのです。何かやりたいこと、行ってみたいところ、会いたい人などありませんか?」
『・・・・そうですね。他の転生者達、信長、秀吉、家康がどうしているか知りたいですね。越後統一では内向けの情報収集が中心にならざるを得ず、近隣以外の他国事情に疎いのです』
「でしたら、一条公の飛脚衆と旅をされるとよいでしょう」
聞けば、各地の守護・寺社などへ手紙を届ける集団があるという。下向する公家の警護を兼ねていたり、医学校の最新情報を卒業生達に届けたりもしている。従二位の官位の威光は大きく、道中の国人衆が無下に扱わない。逆に情報を得るために足止めされたり、監視を兼ねて護衛がついたりと、行程がゆっくりめになるほどらしい。
武家らしい風体ではマズいだろうということで、頭を刈り上げて僧兵風に扮することにした。そして、長尾景虎でなく[謙信]と名乗ることにした。京から近江を抜け、美濃で斎藤義龍(30)・明智光秀(29)に。尾張で織田信長(23)・柴田勝家(35)に。三河で松平元信(14)に。駿府で今川義元(38)に会うことができた。そこで知ったのが、武田信玄(36)が甲斐へ戻っているということだ。国外追放(138話)されて土佐に身を寄せ、10年ほど前から義兄である今川義元の元で河川整備などを行っていることまでは知っていた。情報のアップデートが古過ぎた。
駿府から甲斐へ移動し、信玄と会うことができた時には越後を出奔して1年以上が過ぎていた。
「まさか、甲斐でお会いすることになるとは思わなかった」
真っ黒に日焼けした信玄は満面の笑みで出迎えてくれた。
『本来なら3回か4回は川中島で相対していたのでしょうが、お互いこのような姿ですからね』
剃り上げた坊主頭をつるりと撫でた。
「戦場には出ないまま河川と田畑と格闘しております。それに廃嫡されて監視付きのままですから川中島で会うことはなかったでしょう」
武田を名乗らず、ただの信玄として立派に立っている姿が眩しかった。
『・・・・いい笑顔ですね』
「自然相手に勝つのはなかなか難しいですが、争うよりも性に合っているようです」
駿府で10年ほど河川整備の指揮を執り、今川義元の口添えで甲斐に帰国して数年。信濃ではなく甲斐国内でいくつもの河川整備を同時進行させながら、農業改革を行っているという。
『・・・・私にもできるでしょうか?』
信玄はやりたいことを見つけたのだと思うと、何故だか急にうらやましさがこみ上げてきた。信玄と謙信は好敵手だった。この男に負けたくはない。
「あるべき姿を思い描くのではなく[思い出せばよい]のですから他の人よりは向いていると思います。計算力も大事ですし、多くの人員をまとめ上げて、配分して、指揮を執る。戦上手な謙信殿ならばできるでしょう」
『教えていただけないでしょうか?」
居住まいを正して、深く頭を下げる。
「・・・・本気ならば土佐へ行きなさい。ここで手伝っていただけると助かります。ですが、一人ではできないことです。多くの人手と資金が必要です。駿府では義元殿の後ろ盾がありました。ここ甲斐では武田の名前のおかげで仕事ができています。今の謙信殿では技術を修めても活かせるとは思えない。今こそ一条公に相談すべきでしょう」
甲斐から駿府に戻り、今川義元の手配で駿府から土佐への船に乗せてもらうことになった。遠回りをしたけれど一条公にはきちんと礼を述べて願いでることにしよう。
上杉謙信は1556年に出奔。武田信玄に内通した家臣が謀反を起こし、呼び戻されます。武田氏の勢力が弱くて川中島(第一次は1553年)も発生しておらず、家臣団に外圧に対する危機感がないため出奔が成功(?)しています。
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