221 ●一色義龍 VS 浅井長政
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次回更新は11/10(日)
(1561 ●竹中重治(17)視点)
11歳から3年ほど高智大学校へ留学(202話)していた。岩手重虎の名前であったが、一条房基には全てお見通しだった。帰国準備をしている所で中村御所に呼び出された。転生前の知識を書き起こす作業と引き換えに、唐箕や足踏み式脱穀機の図面と実機の提供を提案された。大学校では農業を学んでいた。土佐の農業の生産性は桁違いだった。連作回避や肥料生産の仕組み、省力化のための機材の導入。機械化される前のほぼ400年先の農業が行われていた。土佐で10年かけて蓄積・改善されてきたものであり、美濃に持ち帰って同じように実施するには5年はかかるだろう。ただし、戦乱がなければ5年だが実際にはもっと時間が必要となる。提案を受け入れ、帰国を1年延ばした。既に武田信玄や豊臣秀吉が残した書物を補完する形で歴史・物理・化学・数学・音楽などの記憶の文章化を行った。
美濃へ戻ると名を竹中重治と変え、斎藤道三から家督継承した斎藤義龍の側に仕えた。道三と義龍の親子仲はとても良かった。道三は戦や外交力は強かったが、内政力や人心掌握に難点があった。義龍は内政力も高く家臣達からの人気も高かった上に戦も強かった。家毎の編成でなく、兵種毎に編成した常備兵が訓練で強化され、それを明智光秀が指揮していたのだからずば抜けて強かったのだ。その明智光秀の下で新設されたばかりの鉄砲部隊を任されて、部隊の訓練を担当するようになった。
道三にとって義龍は自慢の息子で、家督継承後は義龍を引き立てることに力を尽くしたという。義龍や光秀が稼いだ金銭を使い、朝廷や幕府相手に外交手腕を発揮した。義龍はまず幕府の御相伴衆に任じられた。その後一色氏の地位まで認められ、一色義龍を名乗ることになった。美濃一色家初代になったのだ。一色氏は足利一門であり、美濃守護家であった土岐氏よりも格上の家柄である。道三は長井姓から斎藤姓を名乗り、妻の祖父の一色姓を持ち出して主君だった土岐氏の上に立ったわけだ。まさに下克上の申し子といえた。
義龍は父道三を討つこともなく、信長とも密接に交流していた。美濃と尾張が隠れ同盟状態であるから織田氏と浅井氏が同盟を結ぶことはなかった。信長の妹・市が浅井長政と政略結婚するはずもなかった。史実通りに野良田の戦いで浅井氏が六角氏に勝った。だが六角氏は更に三好氏に負けて上洛することはなかった。歴史は微妙に絶妙に変化していた。
織田の転生者集団との史実の情報共有の中では野良田の戦いで浅井氏は斎藤氏を攻めていた。だが一色軍の強さは知れ渡っていたし、織田氏と浅井氏の同盟がない現状では美濃を攻める理由がなかった。逆に一色義龍は浅井長政を攻める準備を整えていた。野良田の戦いで北近江の浅井氏は弱体化しており、南近江の六角氏は負け続きで浅井氏に手を出している隙を突いてくる余裕はない。浅井氏の背後にいると思われる朝倉氏は浅井氏の救援よりも若狭を狙うために力を温存すると読んだのだ。美濃から北近江への侵攻。竹中氏の領地である不破郡は関ケ原の東にあり北近江にほぼ隣接する立地であった。
戦を前に一色義龍(32)と話をする機会があった。
「緊張することはない。今回は橋頭保を作るための戦いだ。浅井氏を降すには2,3年掛かると考えている。前線を押し込むことで、尾張から織田の軍勢を引き入れる」
一色義龍が余裕のある顔で笑っている。歴戦の勇者の貫禄を感じた。
「浅井長政の本城である小谷城は堅牢だ。支城の数も多い。少しずつ剥がして行く。今回は第一弾だな。今回はお前に手柄を立てさせて引きあげるのが一番の目的だ。土佐からの土産だけでも十分な手柄だったが、武功がなければ従ってくれない脳筋の連中が多いからな。この先、お前にはより多くの鉄砲部隊を指揮する立場になってもらうつもりだ」
一色義龍と明智光秀からも転生者の知識を引き出すことを条件に最新の土佐筒を10丁持ち帰ることができた。美濃筒よりも1歩も2歩も先を進んでおり、美濃筒の性能向上に貢献することになった。
「美濃筒もそれなりに数を揃えることができたが、実戦経験が少ない。それなりに成功体験と失敗体験を積むよい機会だろう。鉄砲部隊を率いて暴れてこい」
こうして史実と異なり、一色義龍が浅井長政を攻めることになった。鉄砲により野戦は圧倒。浅井軍は小谷城に立て籠ることになる。小谷城の手前にある国友村を襲い、鍛冶集団を美濃に連れ帰った。鍛冶師の確保が裏目的であって、小谷城を包囲することなく兵を引き、小谷城の支城である横山城を落とし、鉄砲による堅牢な城に改築を進めた。横山城は楔となる城で、北近江と南近江を分断する位置にある。竹中氏の本領は弟たちにまかせて横山城を中心に周囲の城を少しずつ攻略する日々が始まった。
竹中半兵衛の初陣は斎藤義龍と斎藤道三の親子が争った長良川の戦い(1556年)で道三側。その後、義龍に仕え、義龍の息子である龍興の代には斎藤家を離れて浅井長政の客分になった後、浪人。信長の勧誘を断り、使者であった秀吉に仕えました。
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