219 旱魃と難民
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次回更新は10/27(日)
(1560 一条房基(38))
近畿を中心に深刻な旱魃が発生していた。昨年もよかったわけでなく、大きな気候変動の流れと考えて対処すべきと感じていた。土佐では長年の治水事業のおかげで新田開発も段階的に進んでおり、旱魃の影響は少なくて済んでいた。讃岐では備蓄を放出せざるを得ない地域もあった。一方、海路による交易路は関東にまで及んでおり、旱魃の影響のない地域から買い付けた米を転売することで大きな利益を得てもいた。
旱魃対策ではなかったが、連作を避けて麦や大豆を計画的に作付していたおかげで四国の被害は限定的だった。干上がったおかげで浚渫や護岸整備がはかどった川や溜池もあった。麦は小麦だけでなく大麦の生産も増え、コナモノの加工食品がいろいろと開発された。サツマイモはまだ伝来しておらず、焼酎は麦が中心であった。優秀な救荒作物であるジャガイモもサツマイモもアメリカ大陸が原産なので、早くスペイン船が東南アジアに進出してきて欲しい。
土佐は各地と交易が盛んになっていることもあり、難民の流入も多かった。隣国の阿波は守護である細川氏之の殺害、守護代であった三好之虎(実休)の暗殺(209話)もあり混乱が続いていた。陸続きということもあり、村ごと逃げ出してくることもあったほどだった。大内氏の勢力が減退した九州北部は大友義鎮が豊前・肥前・肥後・筑前・筑後を席巻し、九州探題に補任されるまでになっていた。版図を広げたが、内乱も多く、海を超えて逃げてくる者もいたし、戦の中では人身売買が多発していた。九州は総じて税が重く、酷い場合は八公二民の地域もあるほどだ。直接的な人身売買は禁止していたが、堺など他の地域を経由して、すり抜けて流入する数は増える一方だった。
堺からは宗教上での難民が発生していた。キリスト教徒の増加に伴い、一部の寺などは寺ごと南蛮寺に改修・改宗されて、孤立してしまう家々が出てしまっていた。キリスト教に帰依しないことによる迫害から逃げてくる人々がいたのだ。
万民を救いあげることは難しいが、受け入れ体制は整備されつつあった。基礎教育や農業などの技術取得のキャンプを用意し、一年ほど学んだ後は台湾など南方諸島への開拓へ送り出している。南方開拓は順調で、ノウハウが蓄積されていくこともあって、難民キャンプの数は1つ2つと増えつつあった。
南方開拓は強制移住ではないため、他国へ入植するケースもあった。大内氏と毛利氏などの同盟先は戦乱の傷跡も多く、男手が亡くなり、耕作放棄せざるを得ない村に同じ国出身の難民をマッチングさせて移住させることもあった。治水工事を請け負って、そのまま新田開発を行い、土地の所有を認められて土着するケースもあった。「人は城、人は石垣、人は堀」は武田信玄の言葉であったが、人と人との繋がりや信頼を太く強くしていくことで同盟はより強固なものになりつつあった。
難しいのは武家の取り扱いだった。出雲の尼子氏とその家臣団を受け入れたが、家族を含めると千人近い集団となった。家の再興の意志が強いために傭兵集団として戦闘訓練も行った。毛利氏のいる中国地方に派遣するわけにはいかず、これから先の派遣先には苦慮することになりそうだ。
実際この時期に畿内は旱魃が続いたようです。その後、関東で不作が続きます。
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