216 ●毛利元就土佐見聞録その1
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次回更新は10/06(日)
(1559 ●毛利元就視点)
毛利家は一条家に大恩がある。尼子氏に吉田郡山城が攻め込まれた時(132話)の支援。大内義隆殿が月山富田城を攻めた際の撤退時の支援。安芸一国を統一していない状況で(防土芸)三国同盟を対等に結んでくれた事(200話)。尼子氏攻略(208話)の支援。先帝崩御と今帝即位での朝廷支援を連名で行い、昇叙してもらった上で陸奥守を得た(211話)。この20年の恩義は子々孫々まで一条家の矛となり盾となっても返しきれないほどに膨れ上がっていた。出雲を手に入れ、備後・備中・美作へ侵攻中であるが、息子達に任せられると判断し、かねてから招かれていた土佐へ向かうこととした。
安芸から伊予へ渡る。川を付け替え、愛媛と名付けられた街は活力に溢れた街であった。四国の政務の中心として計画され、碁盤の目のように整備した通りに多くの屋敷が立ち並ぶ。議事堂と呼ばれる巨大な建物は評議に使われ、各地の国人衆の屋敷が近くに配置されている。師範学校と呼ばれる施設には国人衆の子弟が通っていた。人質の意味があるとわかっていても高い教育水準に置いていかれたくない国人衆は家族だけでなく重臣達の家族までも呼び寄せているらしい。
愛媛では一条房平公に歓待していただいた。街で一番大きい建物は武道館と呼ばれ、小高い丘の上にあった。普段は剣術や組み打ち術の訓練所であり、大きな観客席を設けて競技会が開催されるそうだ。街と少し離れた場所には更に大きな建物があり、競馬場と呼ばれ、馬術や兵の集団訓練が行われていた。大内氏の山口と同じように愛媛の街には城がない。攻められることを想定していないわけではないらしい。探りきれてはいないが、要所に兵の駐屯地が配置されているという。伊予や宿毛、高智などに潜入している世鬼一族や座頭衆などから報告を受けていた。どこからでも攻めやすいが、攻める場所が絞れないことで攻めにくい街だと感じた。この数年で土佐筒による銃撃や砲撃での戦の変わりようを知った身には山のような自然の要害に城を作るのではなく、平地に広く拠点を構築し、街の外郭に駐屯地を配置する手法が興味深かった。
愛媛から宇和島へ移動すると唐船の造船施設を見学した。石見銀山の銀は博多商人のもので、関料と津料で稼いでいるだけだ。出雲国を手にしたことにより、朝鮮との交易路を確保した。今は一条船籍の唐船を借り受けている。新造している唐船を見せられて、いつかは自前の船が欲しくなった。安芸にも唐船級の造船所を誘致したいものだ。
宇和島から宿毛へは再び海路。宿毛港には見慣れぬ南蛮船が何隻も停泊していた。珍妙な服を着た南蛮人を見ることもあったが、それよりも多くの蔵と商人の屋敷が並んでいることに驚いた。宿毛には上陸することなく、浦戸へ移動。浦戸からは川を遡り高智へ移動した。高智でやっと房基公へお会いすることができた。
『遠い所へようこそお越しいただきありがとうございます』
「遠い所から、とおっしゃらないそのお気持ちが嬉しい。道中もご配慮いただき快適に過ごすことができました」
『長旅の疲れを癒してごゆるりとお過ごしください』
高智に招かれたのは大学校での講義のためであった。大学校では毛利家臣の子弟も留学しており、彼らの慰問も行った。また、月山富田城開城時に自決した尼子晴久の遺児、義久・倫久・秀久の3兄弟と彼らに付き従う尼子氏の家臣達が土佐で学んでいた。尼子氏が降伏した条件に3兄弟の助命があった。安芸国内の寺で幽閉するつもりだったが、付き従う家臣達は100名を超えていた。房基公からの提案で土佐で受け入れて貰っていたのだ。彼らの状況も知りたかった。長男の基久は19歳、三男の秀久は5歳と離れており、それぞれに大学校や幼年が通う学校で学んでいるとのことであった。
山中幸盛(鹿介)は尼子義久の安芸幽閉に付き従うことができず、出家していた義久のはとこの勝久を担ぎ出すのですが土佐に来たため「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」は発生しません。
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